◇長編小説◇飯嶋和一「北斗の星紋」第3回 前編

飯嶋和一さん「北斗の星紋」第3回バナー画像

町奉行から米の廉価販売の達し。伝次郎の耳に幕府の蝦夷地開発の噂が──。

 新作のオランダ鏡は、組み立て式でどこにでも持ち運びできる代物だった。覗き窓の入った小箱を絵置き台の上に四本の脚で組み上げ、丸屋は画(え)を逆さまにして空を手前に台の上へ置いた。小箱の内には、下の台に置いた画を映す鏡がななめにして仕込まれ、拡大鏡が入った小箱の丸窓から覗くと描かれた風景が実物のごとく立体的に浮き出て見える仕掛けである。丸屋からもらった『御茶水景図』と『三囲(みめぐり)景図』が左右逆に描かれていたのは、初めからそのオランダ鏡で見ることを前提に描かれたためだった。

 この日は、新たに描いた『広尾親父茶屋図(ひろおおやじちゃやず)』と『不忍之池図(しのばずのいけず)』も持ってきた。いずれも縦九寸(約二十七センチ)、横一尺二寸(約三十六センチ)ほど、墨摺(すみず)りの銅版画に筆で彩色してあった。広がった青空の下、鏡のように広がる水田や池、行楽の人々も、樹木も、流れる雲のさままで銅版画特有の細やかな線で丁寧に描き込まれていた。

 伝次郎は版画をそのまま手に取ってじかに眺め「これだけで充分に楽しめる」と言った。

 それに対して丸屋は、「まあ、当分はこんな子ども騙しをやるしかありません」嘆息まじりにそんなことを漏らした。

 長崎から手に入れたオランダ製の〆木(しめぎ=プレス機)は、鉄製の頑丈なものだが器械が小型のために大判の画は摺れないのだという。ほかの者を相手にする時には、おのれの功績を吹聴(ふいちょう)するだけの丸屋が、伝次郎には意外な素顔を見せるところがあった。

「この画のどこが子ども騙しだ。どれもこれも丁寧で見事な出来ばえだ。西洋では画でも絵地図でも銅版画が盛んに使われてる。腐食銅版画ならば、絵師の思いと腕一つだ。彫師(ほりし)も、摺師(すりし)も、版元もいらない。勝三郎さんが始めたこの流れは止められない。あとは描き続け、時を待つしかない。いずれ大きな〆木が手に入る日も来るよ」伝次郎はそう言って励ました。

 

 丸屋は茶をすすりながら「以前差し上げました仙台藩の医家の書物は読まれましたか」ときいた。

「ああ、オロシャの脅威のことか。世の中にはいろんな所に目を向けるお人がおる。珍しく北方の様子を詳しく書いてあるので面白く読ませてもらった」

「ええ」と丸屋は応(こた)えた後で、視線を下に向け下唇を舌先で湿らせた。

 仙台藩医の工藤平助(くどうへいすけ)が『赤蝦夷風説考(あかえぞふうせつこう)』なる奇書を著したのは、前年(天明三年)一月のことだった。

 幕府蘭方医の桂川甫周(かつらがわほしゅう)と『赤蝦夷風説考』を著した工藤平助が親しいことは丸屋から聞いていた。丸屋が制作した銅版画の銅板を腐食させて彫る「強水(きょうすい)」と呼ぶ薬品は、桂川家から手に入れているらしかった。おそらく桂川甫周は、医学書に図を載せるに際して、細かな線まで詳しくはっきりと、また多量に摺り上げられる銅版画の利点を知り、丸屋のためにオランダ輸入の器材や薬材の便宜を図ったのだろうと思われた。

 丸屋が銅版画を制作する時に、オランダの技術事典を杉田玄白門下の大槻玄沢(おおつきげんたく)から翻訳してもらったらしきことも丸屋本人から耳にしていた。大槻玄沢の父は、仙台藩の支藩、一関(いちのせき)の藩医だった人物である。『赤蝦夷風説考』も、丸屋はそれらの筋から手に入れ、伝次郎に渡したものと思われた。

次記事

前記事

飯嶋和一(いいじま・かずいち)

1952年山形県生まれ。83年「プロミスト・ランド」で小説現代新人賞を受賞しデビュー。88年『汝ふたたび故郷へ帰れず』で文藝賞、2008年『出星前夜』で大佛次郎賞、15年『狗賓童子の島』で司馬遼󠄁太郎賞を受賞。18年刊行の最新作『星夜航行』は、第12回舟橋聖一賞を受賞。

ヤマ王とドヤ王 東京山谷をつくった男たち 第八回 山谷最大の名物食堂
◇自著を語る◇ 織田和雄『天皇陛下のプロポーズ』