◇長編小説◇飯嶋和一「北斗の星紋」第3回 前編
田沼意次は以前と変わりなく登城して政務に打ち込んでいるという。後継者の山城守意知(やましろのかみおきとも)を殺害させた黒幕は何者なのか。世間のたわけどもは、佐野善左衛門(さのぜんざえもん)の「世直し」に狂喜するばかりでそれ以外に目が行くことはない。足軽の子に過ぎない田沼意次が幕政をにぎり、幕府中枢から閉め出された譜代門閥(ふだいもんばつ)たちの意志が働いたという想像はつくものの、意次の嗣子(しし)を殺して田沼政治を終わらせ一番得をするのは誰か、そいつが真の下手人である。何か大きな力が働いていることは間違いないが、まだその兆候は現れなかった。
五月十四日、要蔵が伝次郎を訪ねてきて、今度は時疫薬法(じえきやくほう)の御触れが出たという。「はやり病には、この薬を用いてその苦しみを逃れるのがよい」そんな但し書きまでが添えられていた。
『一、茗荷(みょうが)の根と葉を突きくだき、汁を取って多く飲めばよい。
一、牛蒡(ごぼう)をひきくだき、汁をしぼり、茶碗半分ほどを二度飲んで、そのうえ桑の葉を一にぎり火でよくあぶり、黄色になった時に茶碗に水を四杯入れ、それを二杯分まで煎(せん)じ、一度に飲んで汗をかけばよい。若桑の葉がない時は枝でもよい……』
笑うしかない薬法ばかりが十二ヶ条並べられていた。しかも、それぞれの薬法ごとに『農政全書』だの『衛生易簡方(えいせいいかんほう)』だの、ご大層な出典名が示され、馬鹿馬鹿しさを一層きわ立てていた。
『一、大円なる黒大豆をよく炒って一合、甘草(かんぞう)を一匁、水で煎じ時々に飲めばよい』
こんな条目にいたっては、なにもわざわざ煎じて飲むより黒大豆一合を炊いて食ったほうがはるかに治りが早かろうと思われた。どこかで見たことがあると伝次郎が思った通り、父の代の享保十八年(一七三三)に頒布されたのと同じものだった。
その前年、虫害によって西日本が大凶作となり、江戸の米価が倍に値上がりした年のことである。その年一月には、幕府開闢(かいびゃく)以来という江戸市中での打ちこわし騒動が起こり、御用米商の高間伝兵衛(たかまでんべえ)が襲撃された。疫病流行の原因はいうまでもなく飢餓である。五十年経っても、また同じ愚策が相も変わらず繰り返されていた。
「先日申し上げました指物師(さしものし)の孝助ですが、旦那さんに頂戴しましたお薬が効きまして、昨夜から熱が下がり食も戻りました。ぜひ御礼を申し上げてくれとのことでした」
「そりゃよかった。まだ買い置きが少しある。お上(かみ)からのこんな薬法は気休めにもならん。入り用の折にはいつでも言ってくれ」
伝次郎は頭痛や悪寒がした時のために葛根湯(かっこんとう)を常備していた。それすらもこの春から簡単には手に入らなくなった。
八
五月十五日、丸屋勝三郎(まるやかつさぶろう)が、「オランダ鏡(かがみ)」と呼ばれる反射式の覗(のぞ)き眼鏡(めがね)を携えて加瀬屋伝次郎の家にやって来た。丸屋は少し痩せたように見えたものの、顔色も良く、生気あふれ、ここのところ画業が順調に運んでいることを思わせた。このたびオランダ鏡と銅版画を売り出すめどがついたのだという。皆が飢えナズナやハコベなどの野草や赤蛙までも捕えて食っている時に、オランダ鏡を売り出そうという浮世離れした絵師の感覚が伝次郎を微笑ませた。