◇長編小説◇飯嶋和一「北斗の星紋」第3回 後編

飯嶋和一さん「北斗の星紋」第3回バナー画像

町奉行から米の廉価販売の達し。伝次郎の耳に幕府の蝦夷地開発の噂が──。

「北の交易路が一本あってよいのだ」と工藤平助は述べていた。オロシャは差し当たり食糧や酒、塩、薪炭の交易を望んでいるという。稲毛屋ごとき安煙草屋の元狂歌師ではどれほどのことが探れるものかわからないが、幕府の勘定方が遣わしたというならば、田沼意次が蝦夷島の鉱山開発ばかりか鎖国の祖法(そほう)を破り、北方での新たな開港すら考えているのかも知れないと思われた。

 そういえば殺された田沼山城守意知について、丸屋から奇妙な話を聞いたことを思い出した。長崎出島のオランダ商館長だったイサーク・チチングが、去年(一七八三)の暮れに洋式船の設計図とその模型とを長崎奉行へ送ってきたのだという。チチングは日本を離れオランダ東インド会社総督府のあるバタビア(ジャカルタ)に戻っていた。その時の長崎奉行は田沼意次の腹心、久世丹後守広民(くぜたんごのかみひろたみ)だった。確かにチチングが何の脈絡もなく洋式船の設計図をわざわざ送ってくるはずがなかった。おそらく久世広民からの要請があってのことだろう。チチングと久世広民が親しかったことは表向きには知られていないが、長崎の蘭学者たちには周知の事実だという。

「日本の船大工に洋式船など建造できるのか」と伝次郎がきいた時に、丸屋は「そりゃあ、できるでしょう。オランダ船の修理は長崎の船大工がみなやっているはずですから」と当然のごとく言ったのを憶えていた。

 チチングが江戸参府したのは安永九年(一七八〇)と天明二年(一七八二)の二度で、いずれも三月だった。とくにチチングが最初に江戸へ来た時には、蘭学者や蘭方医ばかりでなく蘭学好きの町衆まで押しかけ、宿舎の長崎屋周辺は市をなす有様で、丸屋もその折にチチングと会ったという。チチングが求めていたのは開国で、それに応えられるのは古臭い祖法に縛られない田沼意次が幕政を握っている時代しかない。祖法としての「鎖国」を後生大事に守りたい譜代門閥の連中にしてみれば、北方での対オロシャ開港など幕府が転覆するほどの大事に違いなかった。

 外洋航海のできる洋式船を日本で建造する計画が密かに進められ、久世広民と故田沼山城守がそれにかかわっていたらしいと丸屋は漏らした。いわゆる鎖国はあくまでも日本人の海外渡航を禁ずることが根本にある。蝦夷島産物の昆布、そして煎りナマコと干しアワビは、長崎俵物(たわらもの)として清国輸出の主要品である。その収益は年に一万両にのぼるといわれていた。とくに煎りナマコの最上品は、蝦夷島も日本海沿岸の西蝦夷地から獲れると聞いた。ところが蝦夷島から長崎への航海は、冬場の荒天にはばまれ年に一度しかできない。逆風帆走を苦にしない洋式船であれば、年に二度以上の航行も可能となる。故田沼山城守と久世広民が計画した洋式船の建造は、そのためのものではないかと思われた。

 

     十

 六月の声を聞き陽光も力を増して開花を迎えた蓮を見ようと不忍池に出かけたが、池の周辺も人影はなく、汁粉や甘酒を売る出店も葦簾(よしず)に覆われたままだった。見る者の有無とはかかわりもなく、このひどい年も蓮は見事な花を咲かせ始めていた。カイツブリのつがいは盛んに潜水を繰り返し、上野の山からはホトトギスの「テッペンカケタカ」のかん高い声も響いた。草木も鳥も、人間界とは無縁のまま太古からの営みを平然と繰り返していた。

前記事

飯嶋和一(いいじま・かずいち)

1952年山形県生まれ。83年「プロミスト・ランド」で小説現代新人賞を受賞しデビュー。88年『汝ふたたび故郷へ帰れず』で文藝賞、2008年『出星前夜』で大佛次郎賞、15年『狗賓童子の島』で司馬遼󠄁太郎賞を受賞。18年刊行の最新作『星夜航行』は、第12回舟橋聖一賞を受賞。

◎編集者コラム◎ 『都立水商1年A組』室積 光
あまりに恐ろしい近未来/ジェイミー・バートレット 著・秋山勝 訳『操られる民主主義 デジタル・テクノロジーはいかにして社会を破壊するか』