【池上彰と学ぶ日本の総理SELECT】総理のプロフィール
池上彰が、歴代の総理大臣について詳しく紹介する連載の21回目。日露戦争の開戦を決断し、無類の調整力で実行した、「桂太郎」について解説します。
第21回
第11・13・15代内閣総理大臣
桂太郎
1847(弘化4)~1913年(大正2)
桂太郎 写真/毎日新聞社
Data 桂太郎
生没年 1847年(弘化4)11月28日~1913年(大正2)10月10日
総理任期 1901年(明治34)6月2日~06年(明治39)1月7日/1908年(明治41)7月14日~11年(明治44)8月30日/1912年(大正1)12月21日~13年(大正2)2月20日
通算日数 2886日
出生地 山口県萩市平安古町(旧萩城下平安古)
出身校 大阪兵学寮中退
歴任大臣 陸軍大臣・内務大臣・大蔵大臣など
墓 所 東京都世田谷区若林の松陰神社霊域
桂太郎はどんな政治家か
1. ニコポン宰相
相手が政敵であっても、ニコニコと笑って背中をポンと叩く仕草から、桂は「ニコポン宰相」と呼ばれていました。八方美人と評された伊藤博文も、「桂は十六方美人だ」と言うくらいでした。その温厚な人柄には誰もが魅了されたといわれています。これは東京日日新聞の小野賢一郎記者が命名したあだ名ですが、日本はこの宰相のもとで日露戦争を切り抜けたのです。
2. 日英同盟締結
1902年(明治35)1月30日に調印された日英同盟協約は、日本とイギリスが他の複数の国と交戦した場合、共同して敵国にあたるという軍事同盟です。敵が1国の場合は中立を守るというものでした。これによって第2の三国干渉が起きる可能性はほぼなくなりました。この同盟は、日本が列強と互角に国際提携を実現した初めてのものです。超大国イギリスとの同盟は日本の国際的地位を急上昇させました。
3. 日露戦争を指導
桂内閣は日露戦争を遂行するにあたって、国の総力をあげて臨み、外交面・軍事面・内政面すべてにおいて挙国一致体制をしきました。とくに軍事面においては「戦闘と戦争は根本より異なるもの」とし、一喜一憂してはならないと
日本海海戦では完勝といえる勝利をあげましたが、旅順や満州での戦いでは苦戦しました。かろうじてロシアに勝ったとはいえ、日本は満身創痍の状態で薄氷を踏む勝利でした。今日では、講和のタイミングについて桂内閣の判断を高く評価する人もいます。
桂太郎の名言
人と共同し、人と組み合って、仕事をしようというには、
自分ひとりでもやるという考えがなかったならば、
決して共に仕事をすることは出来ない。
――『亜細亜保全は日本人の任務』(桂太郎処世訓より)
青山元不動、白雲自去来
(青山は元より不動、白雲は自ずから去来す)
――出身地の中国山脈の雄大な連峰を心に描きながら、好んで大書した揮毫
桂太郎の人間力
♦ゆるがぬ決意と覚悟――桂太郎
叔父の中谷正亮から世界地図『坤輿図識』を贈られ「世界に目を開け」と教えられて以来、桂のめざすべき人生は一度も変わらなかった。兵部大輔の大村益次郎が軍制を欧州で学ぶことを目的に設立した横浜語学所には、卒業後に欧州に官費留学できる制度があった。桂はここに入り、フランス語を学んで留学に備えた。しかし、語学所は大阪兵学寮に統合され、しかも官費留学の制度はなくなったことを知る。欧州留学の夢を断たれた桂は兵学寮からの脱出を決意した。病気を装って除隊する方法を思いつき、そして、実行した。軍病院でどこも異常なしと診断された桂は院長に面会を求め、大村の遺志を継ぎ、欧州の軍制を学びたいと必死に訴えたのである。診断書には「兵役に耐えず」と記入された。こののち桂は私費でドイツに留学する。人生の岐路をみずからの意志で乗り越えたのである。
(「池上彰と学ぶ日本の総理18」より)
初出:P+D MAGAZINE(2017/11/30)