【池上彰と学ぶ日本の総理SELECT】総理のプロフィール

池上彰が、歴代の総理大臣について詳しく紹介する連載の34回目。平和外交を目指した「若槻礼次郎」について解説します。

第34回

第25・28代内閣総理大臣
若槻礼次郎わかつきれいじろう
1866年(慶応2)~1949年(昭和24)

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浴衣ゆかた姿でくつろぎ、酒をむ若槻。1930年(昭和5)7月。写真/毎日新聞社

Data 若槻礼次郎

生没年月日  1866年(慶応2)2月5日~1949年(昭和24)11月20日
総理任期   1926年(大正15)1月30日~1927年(昭和2)4月20日/1931年(昭和6)4月14日~12月13日
通算日数   690日
出生地    島根県松江まつえ雑賀さいか町(旧出雲いずも国松江城下雑賀町)
出身校    帝国大学法科大学
歴任大臣   大蔵大臣、内務大臣など
墓  所        東京都豊島区の染井そめい霊園

若槻礼次郎はどんな政治家か

平和外交を目ざす

加藤高明かとうたかあき内閣が復活させた政党政治を引き継ぎ、国際協調と平和外交に力を注いだのが若槻礼次郎です。対外強硬きょうこう派が攻勢を強めるなか、2度にわたる内閣で中国内政不干渉を唱えました。浜口はまぐち内閣ではロンドン海軍軍縮会議で首席全権として条約調印を導きだし、イギリス、アメリカとの間に高まっていた緊張を解いて友好関係を維持したのです。

若槻礼次郎 その人物像と業績

国際協調と戦争不拡大を模索もさく

貧しさのなか苦学して帝大法科大学を首席で卒業。
大蔵省から政界に転身して、軍国化の流れにあらがい、対外協調、不戦を貫く――。

●ロンドン海軍軍縮会議の首席全権に

1930年(昭和5)3月11日、ロンドンで行なわれていた海軍軍縮会議の交渉の場に、日本側の首席全権であった若槻礼次郎は、ある決意をもって出席していた。
軍縮会議が始まって2か月近く過ぎようとしていたが、日本の主張する補助艦艇かんていの保有数の対米7割をアメリカとイギリスはなかなか了承せず、若槻ら代表はごうやしていた。
その日、アメリカのスティムソン国務長官は風邪かぜで欠席したが、「ここで最後のはらを決めなければ」と覚悟した若槻は、イギリスのマクドナルド首相に思いのたけをぶつけた。
「国民の負担を減らし、世界の平和に貢献する海軍軍縮はぜひ実現したい。条約締結のためには、私は命も名誉もかえりみない覚悟かくごだ」
若槻の真摯しんしな訴えにマクドナルドは心を動かされ、これを伝え聞いたアメリカのスティムソンは、翌日若槻と会見したいと申しでた。そして、米英とも歩み寄って対米7割に近い最終案がまとまり、条約は調印へといたる。
生涯で2度にわたり内閣をひきいながら、総理としてはピンチヒッターの役回りに終始した若槻にとって、ロンドン海軍軍縮会議での首席全権としての取り組みは、政治家人生の最大の仕事となったのである。

エリート官僚として出世街道を歩む

若槻礼次郎は、1866年(慶応2)2月5日、松江まつえ藩の下級武士であった奥村仙三郎おくむらせんざぶろう家の次男として生まれた。
奥村家は貧しく、礼次郎は中学に進学したものの学資が続かず、退学せざるをえなかった。その後、小学校の教員をつとめたが、学問への思いはやみがたく、叔父おじの若槻けいに頼みこんで旅費を工面してもらい上京した。これがきっかけで礼次郎は若槻家の養子となり、敬の娘徳子とくこ(トク)と結婚することとなる。
礼次郎は東京で秀才ぶりを発揮し、司法省法学校をへて帝国大学法科大学仏法科に進学、98点5分という高得点を上げて首席で卒業し、大蔵省に入省した。
大蔵省では早くから頭角を現わし、主税局で日露にちろ開戦の資金を集める任務につくなどして、順調に出世コースを歩んでいく。
主税局長をへて大蔵次官となった若槻は、西園寺公望さいおんじきんもち桂太郎かつらたろうらから信頼を得るようになり、1912年(大正1)12月、第3次桂内閣が成立すると大蔵大臣に就任した。
ところが、民意を無視した桂内閣は反発を買い、わずか2か月で倒れた。若槻も桂派とみなされ非難されるが、第2次大隈重信おおくましげのぶ内閣で蔵相に返り咲いた。
そこで大蔵次官として若槻を支えたのが、浜口雄幸だった。ふたりは信頼関係を深め、生涯の盟友めいゆうといえる間柄あいだがらとなっていく。
若槻が入党していた与党の立憲同志会りっけんどうしかいは、諸政党と合同して憲政会かんせいかいを結成し第1党となっていた。だが、1915年(大正4)8月、大隈が内閣改造を迫られると、若槻は憲政会総裁の加藤高明かとうたかあき外相とともに政権を離れた。

●普通選挙法の成立に尽力

加藤高明に組閣の大命が下ったのは、1924年(大正13)6月だった。立憲政友会せいゆうかい革新倶楽部かくしんくらぶと連合した「護憲三派ごけんさんぱ」による内閣であった。
内相に就任した若槻は、普通選挙の実現に取り組む。枢密院すうみついんの顧問官をひとりずつ粘り強く説得してまわり、ついに法案を成立に持ちこんだ。
一方、内務省内の課題であった治安維持法ちあんいじほうの成立も、若槻の仕事となった。言論の弾圧につながる法案に若槻は抵抗を感じたが、内閣の方針に従わざるをえなかった。
その後、寄り合い所帯の護憲三派内閣は決裂し、加藤は病に倒れる。すると、臨時首相代理の若槻に大命が下り、1926年(大正15)1月、第1次若槻内閣が成立した。
当初から厳しい政権運営を強いられた若槻内閣は、翌年3月、片岡直温かたおかなおはる蔵相の不用意な発言が金融恐慌きょうこうを招き、わずか1年3か月足らずで崩壊する。
後継内閣は政友会の田中義一が組織したが、張作霖ちょうさくりん爆殺事件で天皇の不興を買い総辞職に追いこまれると、政友本党ほんとうとの合同で立憲民政党みんせいとう総裁となっていた浜口雄幸に大命が下った。軍備縮小を施政方針に掲げていた浜口は、ロンドン海軍軍縮会議の首席全権として、盟友の若槻に白羽の矢を立てた。
若槻は固辞したが、浜口の熱心な誘いに、
「これには一身をさなければならない」
と受諾を決意したのである。

●退陣後も平和主義に徹する

軍縮会議で若槻は、米英の譲歩を最大限引きだしたが、軍部の反発は強く、批准ひじゅんへと持ちこんだ総理の浜口は銃撃されて重傷を負い、辞職を余儀よぎなくされた。
そして、ふたたび若槻に政権が託されることとなり、第2次若槻内閣が成立する。しかし、軍部の暴走はとまらず、内閣の足並みも乱れて8か月後に総辞職にいたった。
に下った若槻は、民政党総裁として、演説会などで軍部への批判を続けた。これに反発した海軍将校が若槻邸に押し入る事件が起きるが、男は若槻にさとされ事なきをえた。
その後は重臣会議のメンバーとなり、首班指名や国策の審議に加わる。日米開戦には憂慮ゆうりょを表明し、東条英機とうじょうひでき内閣の退陣にも一役買った。
日本の敗色が濃厚となって、アメリカでポツダム宣言の原案が審議された際、対日強硬論を抑えたのは、ロンドンで若槻が交渉したスティムソンであった。
陸軍長官となっていたスティムソンは、「日本には西洋の指導者と同等にランクされる、すぐれた政治家を生みだす土壌がある」と、浜口、幣原喜重郎しではらきじゅうろうとともに若槻の名前を挙げて、日本への寛大な措置そちを進言し、占領後の政策にも影響を与えたのである。
激動の時代を戦後まで生きぬいた若槻は、1949年(昭和24)11月20日、静岡県伊東いとうの自宅で狭心症に倒れ、その日死去した。83歳だった。

DT-p6海軍軍縮条約調印に臨む若槻_01

海軍軍縮条約の調印に臨む若槻
3か月の長期会議の最終日に、調印式の席についた首席全権の若槻。その表情は、満足感で晴れやかである。1930年(昭和5)4月22日撮影。写真/毎日新聞社

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ロンドン海軍軍縮会議の初日に演説する若槻
会議は1922年(大正11)のワシントン海軍軍縮条約で対象にならなかった巡洋艦・駆逐艦・潜水艦などの補助艦艇の保有量に歯止めをかける目的で開催された。出席国は、アメリカ・イギリス・日本・フランス・イタリアの5大海軍国であったが、フランスとイタリアは潜水艦の制限保有量などに反発して本条約に調印せず、部分的な合意にとどまった。1930年1月21日撮影。写真/毎日新聞社

(「池上彰と学ぶ日本の総理23」より)

初出:P+D MAGAZINE(2018/03/23)

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