【池上彰と学ぶ日本の総理SELECT】総理のプロフィール
池上彰が、歴代の総理大臣について詳しく紹介する連載の37回目。日中戦争下に国民統制を進めた司法界出身の総理「平沼騏一郎」について解説します。
第37回
第35代内閣総理大臣
平沼騏一郎
1867年(慶応3)~1952年(昭和27)
写真/国立国会図書館ホームページ
Data 平沼騏一郎
生没年月日 1867年(慶応3)9月28日~1952年(昭和27)8月22日
総理任期 1939年(昭和14)1月5日~8月30日
通算日数 238日
出生地 岡山県津山市南新座(旧美作国津山城下南新座)
出身校 帝国大学法科大学
歴任大臣 司法大臣・内務大臣・国務大臣
墓 所 岡山県津山市の安国寺、東京都府中市の多磨霊園
平沼騏一郎はどんな政治家か
司法界出身の総理
司法界出身総理です。司法省時代は、法律とともに道徳を重視し、検事総長として汚職事件などを容赦なく摘発しました。また、国粋主義者であり、ファシズムや共産主義などに強い警戒心を抱き、右翼団体の会長も務めています。総理になると、国民精神総動員委員会をつくるなど、日中戦争下の戦時内閣として、国民統制を進めました。
平沼騏一郎 その人物像と業績
国民徴用令で挙国一致体制を確立
日中戦争が長期化の様相を呈するなか誕生した平沼騏一郎内閣は、挙国一致体制を整えていった。しかし、第2次世界大戦前夜で緊迫した国際情勢に、有効な手を打つことができず、8か月での退陣となった。
●漢詩が子守歌がわり
平沼騏一郎は、1867年(慶応3)9月28日、津山城下(現岡山県津山市)に、津山藩士平沼晋の次男として生まれた。3つ年上の兄は、後年、早稲田大学学長となる淑郎である。父晋がかつて藩主の教育係であったこともあり、文武を奨励する国柄のなかでも、平沼家はとくに教育熱心だった。淑郎・騏一郎兄弟の祖母千鶴は漢詩を子守歌がわりとし、また時に聞き覚えた英語も聞かせていたという。兄弟は1872年(明治5)、淑郎が8歳、騏一郎が5歳のときに、仕事のため上京する父とともに故郷を離れた。ふたりは箕作秋坪の洋学塾三叉学舎や、翻訳家・英文学者の宇田川興斎のもとで、漢学・洋学・英語・算術などを学んでいく。やがて母・祖母も上京し、家族いっしょに暮らせるようになるが、父が病に倒れ、兄弟は内職などをして家計を助けつつ、学問に励んだ。
平沼は東京大学予備門をへて、1883年(明治16)に東京大学法学部(のち帝国大学法科大学と改称)に進学。1888年(明治21)に首席で卒業し、司法省に入省した。翌1889年(明治22)に大日本帝国憲法が発布された。当時の日本はまだ法整備も整っておらず、司法省は平沼によれば「各省のなかでいちばん馬鹿にされていた省」であった。そんな司法省に入省せざるをえなかったのは、在学中、司法省から給費を受けていたためで、平沼にとっては不本意な進路であったようだ。
しかし、平沼はその能力を司法省で遺憾なく発揮。東京地方裁判所、東京控訴院の判事などをへて検事に転じ、1906年(明治39)に38歳で司法省民刑局長となった平沼は、検事総長、大審院長と、エリートとしてのキャリアを積み重ねていく。
とくに、日本精糖社の役員らが政治家に贈賄した日糖疑獄事件(1909年)、ドイツのシーメンス社員が日本海軍高官へ贈賄したシーメンス事件(1914年)、大浦事件(同年)などの汚職事件で陣頭指揮をとり、手腕をふるっていった。
そして、1923年(大正12)、平沼は第2次山本権兵衛内閣で司法大臣に就任した。
●「秋霜烈日」の人
刑罰や権威が厳正であることを「秋霜烈日」といい、現代の検察官が着ける検察官徽章は「秋霜烈日章」と呼ばれている。平沼はまさに「秋霜烈日」という言葉がふさわしい人であった。「笑えばニュースになる」といわれ、「寡黙謹厳国士」とさえ呼ばれていた。
ただし、厳しいだけではない。シーメンス事件では、罪を犯した者を容赦なく摘発しつつ、海軍自体にはダメージを与えないよう配慮したという。また、大逆事件(1910年)では、首謀者とされた幸徳秋水に死刑を求刑する一方、事実認定に不備がある者の恩赦を願い出たりもした。
平沼は「法律より道徳」の人だったと評される。
明治維新で西洋思想が流れこみ、日本社会は何もかもが西洋流になろうとしていた時代。法律も西洋流である。このままでは日本本来の道徳や思想、礼といったものが失われる、
と平沼は考えた。日本は「皇室を中心にすれば、民主主義も独裁主義も興るはずがない」として、共産主義はむろんのこと、「西洋では民主でなければ独裁、独裁でなければ民主」だとして外来思想を嫌った。政党政治にも反対。天皇機関説を唱える美濃部達吉を「乱賊乱臣」と批判し、数多くの思想弾圧にかかわった。
道徳・学術の振興をめざす無窮会を創立するなど、国粋主義者として思想啓蒙活動にも携わってきた平沼は、1924年(大正13)、摂政宮(のちの昭和天皇)が狙撃された虎の門事件で第2次山本内閣が退陣すると、司法省を離れ、右翼団体の国本社を設立、社長に就任した。国本社には政界・財界・軍部・官界など、幅広い分野の有力者が集まり、復古的な勢力がかたちづくられていった。
●右翼的イメージの払拭を図る
このような平沼の右翼的体質を嫌ったのが、元老西園寺公望である。平沼が「今度こそ総理」と噂されながら、71歳まで総理の座につけなかったのは、西園寺や重臣など「現状維持派」に阻まれたためである。西園寺は「国家を統治することは神慮によってする」という平沼を「迷信家」と批判していた。
1936年(昭和11)に、長く枢密院副議長に留められていた平沼が枢密院議長になることができたのは、平沼を嫌う西園寺が第一線から退いたことが大きい。
そしてもうひとつの理由は、この年に二・二六事件が起こり、国本社の会員であった荒木貞夫や真崎甚三郎ら陸軍皇道派(天皇親政による国家改造をめざす勢力)が力を失ったことである。これをきっかけに平沼は、対立していた現状維持派に近づいていく。そして、枢密院議長就任にあわせて、国本社を解散。「君国への奉公」を誓い、右翼的イメージの払拭を図った。やがて、平沼は現状維持派の中心的人物と目されるようになる。
●念願の総理に就任
第1次近衛文麿内閣退陣にともない、近衛総理は後継として平沼を推挙。1939年(昭和14)1月5日、平沼内閣が誕生した。平沼は、まず戦時体制を整えていく。
1月21日の衆議院での施政方針演説で、平沼は、日中戦争処理に集中するため、国家総動員体制を強化し、生産力拡充をめざすと述べた。そして、この議会で米の集荷・配給機構を一元化する米穀配給統制法や、兵役年限を引き上げる兵役法改正など89件もの法案を制定。実質総額96億円の予算も成立させた。
2月9日には、戦意高揚をめざし、国民精神総動員委員会の設置を閣議決定。委員会の総裁には平沼が、委員長には荒木貞夫文部大臣が就任した。これにより、国民の思想・行動への統制が強められていく。
近衛内閣が制定した国家総動員法に基づき7月8日には国民徴用令を公布。7月17日には、政策刷新案を閣議決定し、「興亜奉公日」を設定するほか、衣食住にわたる国民生活を統制した。こうして平沼内閣のもとで、物心両面の挙国一致体制が確立されていった。
一方で平沼は、緊迫する国際情勢に直面する。陸軍はかねてから日独伊三国同盟締結を主張していたが、平沼内閣は三国同盟はソ連のみを対象とするという妥協方針を決定。イギリス・フランスなども対象に含めたいドイツとの交渉は難航した。5月にノモンハンで日本軍とソ連・モンゴル軍との紛争が起こり、6月には天津で日本軍がイギリス・フランスの租界を封鎖するなど、さまざまな外交問題がもちあがる。
7月26日、アメリカが日米通商航海条約の廃棄を通告。そして、8月23日、ドイツがソ連と独ソ不可侵条約を締結した。この情勢変化に対応できなくなった平沼は、「欧州の天地は複雑怪奇なる新情勢を生じた」との言葉を残し、8月28日、総辞職した。
●ポツダム宣言受諾の御前会議で
退陣後、平沼は1940年(昭和15)12月の第2次近衛内閣の改造で内務大臣となった。ナチス・ドイツ型の計画経済をめざす官僚グループをつぎつぎ排除する一方、ジョセフ・グルー駐日大使などと面会し、対米関係修復に努めた。続く第3次近衛内閣では国務大臣を務め、1945年(昭和20)4月に、再び枢密院議長に就任した。
この間、1941年(昭和16)8月には、右翼団体員から「米英への密通者」として狙撃され、1945年には、和平推進派として自宅を焼き討ちされている。
平沼は、日米開戦に消極的であったが、降伏については賛成派と見られた一方、天皇に、天皇制保持の保証されない降伏反対を進言。こうした態度は、後日、天皇から「二股をかけた」と評されることになった。
ポツダム宣言への対応を協議する御前会議では、平沼は軍部代表の話から日本にはすでに戦争継続の国力が残っていないことを悟り、天皇制を維持する国体護持を条件として、ポツダム宣言受諾に賛成した。
1945年12月にA級戦犯容疑者として収監された平沼は、1948年(昭和23)、極東国際軍事裁判(東京裁判)で終身禁固の判決を受けた。しかし、1952年(昭和27)に病気のため仮釈放され、直後の8月22日にその生涯の幕を閉じた。84歳であった。
1939年(昭和14)、自宅の庭を散策する平沼騏一郎。写真/毎日新聞社
大審院
大審院は現在の最高裁判所に相当する機関で、1875年(明治8)に創設され、新憲法が施行された1947年(昭和22)に廃止。平沼は1921年(大正10)10月に大審院長に就任。後年、「司法大臣になるより、寧ろ大審院長で司法部をよくし、定年で退きたいと思っていた」と語っている。写真/毎日新聞社
極東国際軍事裁判の法廷
終戦後の1945年(昭和20)12月2日、「第3次戦犯指名」として平沼騏一郎(後列左端)ら49人に逮捕令が下りる。写真は1946年(昭和21)5月21日の審理で、被告席に座るA級戦犯容疑者たち。前列左端が絞首刑の判決を受けた東条英機。写真/共同通信社
(「池上彰と学ぶ日本の総理27」より)
初出:P+D MAGAZINE(2018/04/13)