【池上彰と学ぶ日本の総理SELECT】総理のプロフィール
池上彰が、歴代の総理大臣について詳しく紹介する連載の44回目。四面楚歌のなか和平工作に挑んだ「小磯国昭」について解説します。
第44回
第41代内閣総理大臣
小磯国昭
1880年(明治13)~1950年(昭和25)
写真/国立国会図書館ホームページ
Data 小磯国昭
生没年月日 1880年(明治13)3月22日~1950年(昭和25)11月3日
総理任期 1944年(昭和19)7月22日~45年(昭和20)4月7日
通算日数 260日
出生地 栃木県宇都宮市
出身校 陸軍大学校
歴任大臣 拓務大臣※
墓 所 東京都港区の青山霊園
※拓務大臣:拓務省の長。拓務省は朝鮮、台湾、樺太、南洋等、植民地の統治事務、海外移民事務の統括、2大国策企業、南満州鉄道株式会社、東洋拓殖株式会社の監督を所管した。1942年11月、大東亜省設置に伴い廃省。
小磯国昭 その人物像と業績
戦争完遂ならず、和平の道を探る
悪化しつづける戦局の収拾を託され、
四面楚歌のなか和平工作に挑む。
●講和の望みをかけた対中工作
1945年(昭和20)3月16日、ひとりの中国人が羽田飛行場に降り立った。
名を繆斌といい、日本の傀儡政権である南京政府の要職にあったが、蔣介石の重慶政府にもパイプをもっていた。小磯国昭総理は、蔣介石を通じて連合国側との和平交渉を進めようと、繆斌の来日を要請したのだった。
フィリピン諸島で連敗を喫し、硫黄島を失った日本は、本土への空襲が激化するなか、一刻も早く講和の可能性を探らなければならなかった。
そんな折に、緒方竹虎国務大臣を通じて、繆斌による和平工作案が持ちこまれた。
「対中和平を連合国との和平へと拡大させる望みはあるはずだ」と考えた小磯は、正式な交渉ルートでないことに不安を感じながらも、この提案にすがるしかなかったのである。
繆斌がもたらした和平工作案は、南京政府の解消、日本軍の中国からの撤退などを条件に日中の全面和平を実現するというもので、小磯は最高戦争指導会議でこれを提案した。
しかし、重光葵外務大臣は繆斌を信用できない人物と断じて異を唱え、杉山元陸軍大臣、米内光政海軍大臣も重光の意見に賛同した。そして、天皇からも内閣の意志不統一のため、「繆斌は帰国させたほうがよい」と指示され、この和平工作は幻に終わった。
繆斌による工作が、はたして本当に蔣介石の意向を踏まえたものであったか今日でも議論があるが、太平洋戦争において公式の場で検討された唯一の和平案であり、その可能性を試す機会を日本は失ったのである。
●宇垣一成に引きたてられる
小磯国昭は1880年(明治13)3月22日、栃木県宇都宮市に生まれた。
父の進は新庄藩(現在の山形県)藩士だったが、明治維新で宇都宮警察署に職をえていた。その後、進は郷里の新庄に郡長となって戻り、小磯はここで成長した。
山形中学校を卒業した小磯は、頑健な身体を生かして身を立てようと、士官候補生となり陸軍に入隊する。
陸軍士官学校に学んだのち、小磯は日露戦争に従軍した。その後陸軍大学校に入学、卒業後は士官学校高級教官、第12師団参謀などを歴任し、着実に将官コースを歩みつづけた。
1921年(大正10)航空本部部員となり、翌年、ヨーロッパの航空事情を視察した小磯は、日本も空軍力の充実が急務と考え、4個師団縮小による航空兵力増強案を軍中央部に上申した。
師団縮小などもってのほかと上層部からは退けられたが、この上申書を高く評価した陸軍の実力者がいた。それが宇垣一成だった。
のちに加藤高明内閣の陸軍大臣として軍縮を断行し、同時に航空機増強を含む装備の近代化をはかることになる宇垣にとって、上申書の内容は大いにうなずけるものだった。宇垣の知遇をえた小磯は、宇垣が陸相になると参謀本部第1課長に抜擢され、その後陸軍省整備局長、同軍務局長と軍中枢部をのぼりつめていく。
1929年(昭和4)世界恐慌が始まると、日本にも不況の波が押しよせ、政府は有効な政策を打ち出せず社会不安が増していった。
1931年(昭和6)3月、この難局を切りぬけるため、宇垣陸相を首班にして軍部政権を樹立しようというクーデターが画策される。橋本欣五郎中佐を中心とする桜会の陰謀だった。これに加担する右翼思想家の大川周明が、宇垣の説得にあたった。当初は計画に賛同するかに見えた宇垣だったが、最終的には参加を拒否、計画は未遂に終わった。
小磯も宇垣の側近として、この三月事件の計画から中止にいたる過程に関わったとされるが、軍は首謀者も含めて処分は一切行なわなかった。しかし、宇垣は人望を失い、陸相を辞任して予備役となり、朝鮮総督に転出した。
宇垣の転出で小磯の立場も微妙なものとなる。1932年(昭和7)5月、犬養毅内閣が誕生すると、小磯は荒木貞夫陸相のもと陸軍次官に就任するが、反宇垣派だった荒木と対立し退任することとなる。
その後、関東軍参謀長、第5師団長をへて、1935年(昭和10)12月、朝鮮軍司令官を命じられ、赴任先で朝鮮総督をつとめていた宇垣と再会するが、宇垣は翌年帰国した。
その宇垣から、1937年(昭和12)のある日、小磯に連絡があり、「陸軍大臣を引き受けてくれないか」と切りだされた。
広田弘毅内閣の総辞職にともない、宇垣は総理大臣に推挙されたのだ。しかし、軍部の政治介入に批判的な宇垣が首班となることに陸軍が反対し、陸相の推薦を拒んだことで、組閣の危機に直面していた。
引き受け手がないため宇垣は小磯に陸相就任を打診したのだったが、自分が受諾しても就任前に予備役にされてしまうと読んだ小磯は、心苦しくもこの申し出を断わるしかなかった。宇垣内閣は幻に終わった。
ところが翌年、小磯はやはり予備役に編入されてしまい、現役生活に別れを告げることになった。
だが、小磯にとっての人生の正念場は、ここから先に訪れることとなる。
●朝鮮総督から内閣総理大臣へ
現役を退いた小磯だったが、平沼騏一郎内閣、次いで米内光政内閣で拓務大臣に任じられた。さらに、東条内閣で朝鮮総督をつとめることとなった。朝鮮軍司令官時代、「朝鮮の虎」ともよばれた小磯はふたたび朝鮮に赴任し、持論である「内鮮一如」の実践につとめ、朝鮮人官吏の登用や参政権獲得への道を開く一方、徴兵制を導入するなど、皇民化政策を進めていった。
そして、在任中の1944年(昭和19)7月、東条内閣が総辞職すると大命が降下し、小磯は内閣首班に任命されたのである。
小磯は劣勢の戦局の挽回をめざし、次いで和平の突破口を見出そうと奮闘するが、古巣の陸軍から協力をえられず、対中工作にも失敗して、翌年4月、退陣を余儀なくされた。
7月、小磯は近衛文麿元総理を訪ねた。そのとき、近衛は「連合国からポツダム宣言が出されたそうだ。ぼくはさしずめ戦争犯罪人の筆頭だろう。きみも覚悟しておいたほうがいいよ」と小磯に語った。8月15日に終戦を迎えると、近衛の言葉どおり小磯は戦犯容疑で逮捕され、極東国際軍事裁判(東京裁判)で裁かれることとなった。
「自分は戦争の仕掛け人でも、犯罪人でもない。大命を拝し、義務を果たしたまでだ」との思いが小磯にはあった。しかし、総理在任中に和平を実現できなかったことについては、申し開きはできないと考えていた。
小磯に下された判決は、終身禁固刑だった。獄中での小磯は、みずからの人生の歩みをたどる手記『葛山鴻爪』の執筆に没頭した。
1950年(昭和25)11月3日、小磯は食道がんのため、獄中で70年の生涯を閉じた。
朝鮮総督になる前後の小磯国昭。1942年(昭和17)ごろ撮影。写真/毎日新聞社
貴族院本会議場で発言する小磯総理
1945年3月、壇上で本土の戦場化を予想し、対応策を表明する小磯。上は貴族院議長の徳川圀順。写真/朝日新聞社
極東国際軍事裁判開廷
東京・市ヶ谷の旧陸軍士官学校講堂で始まった裁判の初日、裁判長の入廷を起立して迎える被告たち。小磯は後列左から2番目に立つ。東条の姿はその前列、右から9番目に見える。1946年(昭和21)5月3日撮影。写真/共同通信社
(「池上彰と学ぶ日本の総理29」より)
初出:P+D MAGAZINE(2018/06/08)