内田洋子が新刊『サルデーニャの蜜蜂』のテーマに、「人に焦点を当てること」を選んだきっかけとは……?
新連載のテーマを頭の中に並んでいるタグから選ぼうかと思案していたところ、「人に関することが読みたいです」と編集者に言われて、我に返ったという内田洋子。未知への探検から既知への帰郷へと、旅先を変えた新刊『サルデーニャの蜜蜂』について、著者にお話を伺いました。
内田洋子
『サルデーニャの蜜蜂』
月刊 本の窓 2020年7月号
苦くて甘いハチミツ
二〇一七年の秋、東京で『本の窓』の連載の打ち合わせのために編集者と会っていた。
ちょうどその時期、私はイタリアの山奥での取材の真っ只中にいた。テーマが多岐にわたる上に、舞台となる時代も古代から現代にまで及び、舞台となるところもヨーロッパだけではなく南米を含む広域である。自分の立ち位置もよくわからない。どうまとめたらよいのか。古い時代のことは
新しい連載のテーマは、頭の中に並んでいるタグの中から選ぼうか……。
「人に関することが読みたいです」
向かいに座る編集者に言われて、我に返った。一年以上もひとつのネタにかかりきりになっていると、取材に生活が飲み込まれたようになる。読むものも食べるものも、行く場所も、会う人も、聴く音楽や映画鑑賞まで、すべてが一色に染まる。
〈人に焦点を〉。
未知への探検から既知への帰郷へと、旅先を変える気分となった。
編集者とコーヒーを飲みながら、話す。
コーヒーといえば、朝起きてエスプレッソマシーンを火にかけられない時期が長くあった。水が沸騰して蒸し出るコーヒーの音に続き、台所いっぱいに広がる濃い香りを嗅ぐと、真っ暗な冬の朝や夏の終わりの海岸、眠れず散歩に出て立ち寄ったバール、とさまざまな場面を次々と連想した。それぞれに切なく、いったん気持ちが遠くへ飛ぶと、なかなか現実に戻ってこられなかった。記憶に蓋をするように、長い間コーヒーを
蓋の下には、大切なのに、忘れたままにしておきたい記憶がいくつもある。
指先に、そこだけ肉が盛っていない古傷の痕がある。そこに触れたとたん、助けを求めるうろたえた声と足元に滴り落ちる血が、二十年前から
黙って、そこにいる。たいていが男性だった。何を話したか覚えていないのに、
「妻の鼻を
夏が来ると、ざわり、葉のすれ合う音が聞こえてくる。木々の下に緑の濃淡の影が揺れる。
土と石。無造作に布袋から取り出された、あの紙に包まれた塊を忘れない。「一個売って、別荘にプールを作ろうかと思って」。ダイヤの原石を輝かせずに使う世界が在る。気高いのか、
〈
『サルデーニャの蜜蜂』
内田洋子/著
定価:本体1,700円+税
小学館・刊 四六判 256ページ
大好評発売中
ISBN 978-4-09-388774-8
プロフィール
内田洋子(うちだ・ようこ)
一九五九年神戸市生まれ。二〇一一年『ジーノの家 イタリア10景』で日本エッセイスト・クラブ賞、講談社エッセイ賞を受賞。一九年ウンベルト・アニエッリ記念ジャーナリスト賞受賞。著書に『ミラノの太陽、シチリアの月』『ボローニャの吐息』『モンテレッジォ 小さな村の旅する本屋の物語』、訳書に『パパの電話を待ちながら』などがある。
豪華執筆陣による小説、詩、エッセイなどの読み物連載に加え、読書案内、小学館の新刊情報も満載。小さな雑誌で驚くほど充実した内容。あなたの好奇心を存分に刺激すること間違いなし。
初出:P+D MAGAZINE(2020/06/25)