◇長編小説◇日明 恩「水際守護神S」──第4話 Bon voyage〈前編〉
磯谷が言わんとすることが、槌田には容易に想像出来た。
豊島の話が事実ならば、手紙を書いて封筒に入れ、糊づけする時間の余裕などあるはずもない。
「お孫さんに頼まれた大学に提出するための証明書で、ちょうど郵便で出そうとしていたって聞きました」
小さな声で豊島が言った。
話としてはおかしくはない。だが上手く出来すぎているとも思える。
「そこで手紙を開封することにしたんです」
手紙ならば開封したところで中身に支障は起こらない。クルーズ船のスタッフとして旅行中の安全を守るうえで、旅客の荷物を開けて調べることは許可されている。
「綺麗に糊を剥がされましたね」
茶封筒を手に英が感心した声で言う。
「豊島様が開けて下さいました」
「だって磯谷さんったら、はさみで開けようとするんですもの。そんなことをしたら、中身が本当に証明書だったときに、取り返しがつかないでしょう?」
本当に中身が証明書だとしたら、まったく同じ封筒に入れ替えでもしない限り、開封したと分かってしまう。
「だから蒸気を当てるのよって教えてあげたの。今の若い方はスマホでやりとりしているから、ご存じないかもしれないけれど。水分で糊が柔らかくなって綺麗に剥がれるのよ」
豊島に言われて磯谷はスチームアイロンを持ってきた。開封は豊島が率先して挑み、無事に封は開いた。
「中身は証明書ではありませんでした」
英が茶封筒から中身を取り出してテーブルの上に広げる。二つ折りにされた紙の左側には綺麗な緑色の楕円形の石の写真があり、右側には中国語と数字が表記されている。宝石の鑑別書だ。それも一枚でなく六枚あった。槌田も手伝って机の上に六枚すべてを並べる。大きさや形こそ若干違いはあるが、どれも綺麗な緑色の楕円の石の写真とその詳細が記された鑑別書だった。その一枚を槌田は手に取る。
「本翡翠か」
右側に中国語で書かれた文面にあった宝石名を槌田は読み上げた。8.45 × 7.34 × 4.44mmというのは大きさだろう。縦横一センチ、厚み五ミリもない小さな翡翠がキムチの瓶の中に六粒入っていることになる。
「X線検査でおかしいと思わなかったのかしら。だって、キムチにこんなもの入っていないじゃない?」
石が入っているのだから、キムチの部分よりは色濃く写ったはずだ。
「形状と個数から、木の実か何かだと思ってしまったんでしょうね」
英が残念そうな声で言う。
もっと数が多かったら、さすがに指摘していただろう。だが六粒で、しかもキムチの中だ。見過ごしてしまったのも仕方のないことなのかもしれない。
「本翡翠は輸入禁止品ではないので、入国時に申告して適正な関税を支払うか、または出国地に返却するかのどちらかになるとご説明差し上げました」
磯谷の説明を聞き、権利放棄出来ると分かって安堵したらしく、豊島は表情を明るくした。けれどすぐにまた曇らせた。
「港に受け取りに来るのよ、どうしたらいいの? と仰って」
気の毒そうに磯谷が豊島を見る。豊島はまた身を小さくして俯いていた。
豊島が怯えるのは当然だと槌田は思う。
写真が送られているからヨンミの孫──今となっては本当に孫かどうかも怪しいが、とにかく先方は豊島の顔を知っている。一人で来るとも限らない。
税関で摘発されて自分の物ではないから返却したと聞いて、すんなりと相手は受け容れるだろうか? 豊島は高齢で独り身の女性だ。何かしらの危険が及ぶ可能性は十分に考えられる。
「やっぱり私が払うしかないですよね。こんなやり方をするくらいだから、それほど高いものでもないのでしょうし」
先方も馬鹿ではない。豊島一人で支払いきれないほど高額ではないだろう。だがどれくらいを高いと思うかには個人差がある。
そこで槌田は気づいた。クルーズ旅行を一人で楽しむ高齢女性ならば、経済的な余裕がある。犯人はそこを狙ったに違いない。
受け渡しのときには、すでに関税は支払われていて、あとは荷物を引き取るだけだ。豊島の立て替えた関税を返金するとはとうてい思えない。暴力で奪われるのがオチだ。
「私ったら本当に馬鹿ね。自分の愚かさが招いたことですもの。良い勉強をさせて貰ったと思うしかないわ」
溜め息混じりに豊島が言う。
「引き受けてしまったのは、豊島様の落ち度だと私も思います。ですが」
こうなっては、もはや自分一人では対処しきれない。何よりも優先すべきは豊島の身の安全だと思った磯谷は、上司に報告した。そして晴海港で入国検査を担当する東京税関監視部監視取締部門に相談を持ちかけたのだ。
「大丈夫です。お任せ下さい」
英の顔には温かな笑みが広がっている。緊張など微塵も感じられない。そのとき、槌田の頭の中に、交番勤務時代の上司の声が聞こえた。
──任せて下さい、必ずしますなんて、約束事は絶対に言うな。
勤続三十年以上の大ベテランの言葉だ。
警察官が約束をする相手は、往々にして被害者やその家族だ。犯人を捕まえる、奪われた物を取り返す。警察官の誰しもがその務めを果たそうと思ってはいる。だが、ままならないことはどうしたってある。期待させたあげくに結果が得られず失望させてしまったら、お前一人だけでなく警察全体の信頼が失われてしまう。
だから約束事は言ってはならない。その教えは槌田の中に根深く刺さっている。税関も司法警察の一員だ。ならば警察と同じく安易に民間人相手に約束事を言うべきではない。そもそも税関は通関の瞬間が職務だ。刑法上の事件性がある場合は、速やかに事案を管轄する警察や厚生労働省麻薬取締部などの機関に引き継ぐ。長期間に亘って民間人と事案で接し続けることはないはずだ。だが英は言い慣れていた。
そこで槌田は気づいた。ツアーコンダクター時代に何度も旅客に言っていたのだ。でも今は事情が違う。安易に約束事は言わない方が良いと、あとで伝えなくてはと心に決める。
ふと視線を移すと、斜め前の豊島がようやく顔を上げた。沈んだ表情が英を見ているうちに明るくなっていく。ちらりと横の磯谷に目を向ける。磯谷も英を見つめている。その表情も明るい。どころか、うっとりしているようにすら見える。
──恐るべし、もとツアコン。
英は安易に二人の女性に期待を持たせた。あとで英に注意をすると、ちょっと前に槌田は心に決めた。だがその気持ちは消え失せていた。
──二人の期待に応える。それだけのことだ。
新たな決意を槌田は固めた。
(後編へつづく)