滞米こじらせ日記~愛しきダメな隣人たち~ 桐江キミコ 特別編(小説) 三郎さんのトリロジー⑦

滞米こじらせ日記~愛しきダメな隣人たち~ 桐江キミコ

不思議な話だけれど、三郎さんの周りには、
表の世界とは別の時間が流れている。
「滞米こじらせ日記」、惜しまれながらの最終回!

 外は中よりもあたたかいぐらいで、桃色に染まった、重くてあたたかい空気が地表近くにたまっており、煙ったみたいな感じだった。銀子さんが三ツ葉とハマグリの入ったおわんに、ポットの潮汁をつぐ、その、とぽとぽという音までが、なんだか眠たそうだった。おわんの中で、かきたまごが、天の衣のように、ゆれた。 

「肝心の酒がまだ届かんのですが、ぼちぼち食い始めましょう」

 社長の一声で、花菱のお弁当をそれぞれ取り上げた。お弁当のふたには「花見弁当」と書かれた花名刺のようなものが貼ってあり、赤い撚(よ)り糸をほどいてふたを開けると、錦糸たまごをかけたちらし、クルマエビの焼いたもの、フキとガンモドキの煮物、サワラの西京焼き、菜の花の辛子和(からしあ)え、桜こんにゃくなどなどがぎっしり詰められており、花のついた桜の小枝と小さい花見だんごが添えてあった。薄紅色ににじんだ光に染まって、とてもおいしそうに見えた。

 三郎さんは、ほう、と声をもらし、前歯のすき間から息をしゅっしゅっともらした。

 社長、専務、営業部長、中村さん、銀子さん、たぶんお得意さんの3人、三郎さんとわたしの10人がいっせいに花見弁当を食べ始めた。

 社長は、春の陽気に溶け流れてしまったかのように上の空で、ろくに味も確かめずに、のみ込むようにして食べた。専務は、真顔で、機械的に、食べた。まるでガシガシと音が聞こえてくるようだった。営業部長と中村さんは、ホカ弁でもかき込むようにして、せかせかと食べた。お客さんたちは、それぞれ黙々と食べ、銀子さんは、ちらしもおかずもきっちり半分ずつ食べていった。残り半分は夕飯に持って帰るのだろう。銀子さんは、いつも堅実にひと足先を考えている人だった。クルマエビはどうするのかな、と思ったら、1匹そのまま持って帰る方に寄せた。

 三郎さんは、相変わらず、花見弁当に顔を近づけ、顔を90度傾けると、右目で弁当の中身を確認するようにして口に押し込み、それから顔をまっすぐにして、牛が草を食んでいるみたいに、もぐもぐ口を動かして嚙んで、のみ込んだ。のみ込むたびに、三郎さんは、ほう、と声をもらした。そして、ほう、と声をもらすとき、三郎さんの目が宙に浮いた。それから潮汁をおいしそうにすすり、そこでまた、ほう、と声をもらした。

 首を傾け傾け、三郎さんは弁当を食べ続けた。花見弁当を食べるということが、三郎さんにとっては真剣そのものの行為なのが伝わってきた。三郎さんは、ほのかにピンクに染まりながら、全身全霊を込めて、無心に、律儀に、花見弁当を食べた。

前記事

桐江キミコ(きりえ・きみこ)

米国ニューヨーク在住。上智大学卒業後、イエール大学・コロンビア大学の各大学院で学ぶ。著書に、小説集『お月さん』(小学館文庫)、エッセイ集『おしりのまつげ』(リトルモア)などがある。現在は、百年前に北米に移民した親戚と出会ったことから、日系人の本を執筆中。

丸谷才一『年の残り』/芥川賞作家・三田誠広が実践講義!小説の書き方【第69回】教養で書く文学の魅力
◎編集者コラム◎ 『カレーライスはどこから来たのか』水野仁輔