芥川賞作家・三田誠広が実践講義!小説の書き方【第61回】文体の強度とは何か

芥川賞作家・三田誠広が、小説の書き方をわかりやすく実践講義! 連載第61回目は、大江健三郎『飼育』について。黒人兵と寒村の子供たちとの無残な悲劇を描く名作を解説します。

【今回の作品】
大江健三郎飼育』 黒人兵と寒村の子供たちとの無残な悲劇を描く

黒人兵と寒村の子供たちとの無残な悲劇を描いた、大江健三郎『飼育』について

ぼくが高校生の頃というと、半世紀ほども前のことですが、ちょうど大江健三郎の『万延元年のフットボール』がベストセラーになっていた時期でした。いわゆる受験校でしたので、生徒の大部分は受験勉強に没頭していたのですが、そういう学校の空気に反発するように、数人の文学青年が寄り集まって、喫茶店で文学の話などをしていました。そこで圧倒的に話題になっていたのが、大江健三郎でした。

大江さんの魅力は何と言ってもその文体です。こういう言い方をすると、文体って何ですかと問われるかもしれませんが、まあ、とにかく読んでみてください、と言うしかありません。文体とは文章のスタイルのことです。一人称で書くか、三人称か、というのも文体ですし、ですます調の話し言葉で書くか、きっちりとした固い叙述に徹するか、というのも文体です。日記とか手紙とか報告書とか、特殊な文体もあります。モノローグというのもありますね。

で、大江さんの文体なのですが、これは当時、大流行していたフランスの実存主義哲学の、ものすごく下手くそな翻訳の真似というか、パロディーみたいな文章なのですね。というのはぼくの偏見なのでしょうが、とにかく読みにくい、もってまわったような、もっとスッキリ書けと言いたくなるような、ものすごい悪文なのです。

でもこの文章を読んでいるうちに、しだいに麻薬のように、文体に足もとをすくわれて、いつの間にか、こういう文章こそが文学なのだという気がしてくるのです。この文章を読んでから、他の書き手の文章を読むと、子ども向きの童話かラノベみたいな感じがして、アホらしくて読めなくなる。それほどの、中毒になるような文体なのです。

文学ファンを中毒状態にした学生作家

さて、この『飼育』という芥川賞作品ですが、その前の回に候補になった『死者の奢り』の方が、文体のインパクトは大きかったと思います。あまりにも奇妙な文体で、テーマも東大医学部の地下室で死体を別のホルマリン水槽に移しかえる不毛な作業の話で……というわけで、芥川賞をあげそこなって、次の回までの半年の間に、東大在学中のこの若手作家は、次々に短篇を発表して、日本中の文学ファンが中毒状態になってしまい、一躍人気作家になったのです。

ですからこの回の選考では、作品の評価よりも、すでに有名になってしまったこの作家に新人賞(芥川賞は新人賞の一種です)を与えてよいものかどうか、いや、まだ学生なのだから新人と見なしていいのでは……などといった議論が交わされ、結局、ぎりぎりで芥川賞を与えられることになったのです。

作品そのものは、戦時中の四国の田舎の村に黒人兵がパラシュートで降下して、処分が決まるまではこの捕虜を村で管理しなくてはならず、好奇心いっぱいの子どもたちにとっては、ペットみたいな存在になってしまうという、何とも奇妙なお話です。アラスジだけだと、ファンタジーみたいなものなのですが、これを硬質な、粘液質な、難解な哲学論文のような文体で描いてあるので、何だかよくわからないけれども、こんな文体は見たことがない。もしかしたらこれはすごい作品なのではないか。そんな気がしてきて、誰もが夢中になって読み進む。そういう作品なのですね。

“本物の文学”の強烈な文体

大江健三郎の本はすべて話題となり、ベストセラーになるという時期が、長く続きました。その時期に青春時代を過ごしたぼくにとっては、まさに青春のバイブルみたいな作品群ですし、何しろノーベル賞作家なのですから、偉大な文豪ではあるのですが、今回この原稿を書くために五十年ぶりくらいに作品を読み返してみると、自分の青春時代のとても恥ずかしい体験がよみがえってくる気がして、懐かしさと同時に、寒気みたいなものを感じてしまいました。

文体の強度とでも言えばいいのでしょうか。のぞきこんだ途端に顔面にパンチをくらうような、ガーンというショックを感じます。そのショックが、まさに文学なのですね。ラノベしか読まない若い読者は、シュークリームしか食べない子どもみたいなものです。一度、固くて噛めない、呑み込めないものにも挑戦してみてください。これが文学です。本物の文学は、こんなにも固くて、難解なのです。

でも、気をつけてください。この強度は、クセになります。読み終えたあとで、もうおしまいか、もっと読みたいという気がしてきたら、すでにあなたは中毒になりかかっています。もしよろしければ、『万延元年のフットボール』も読んでみてください。『洪水はわが魂に及び』も名作です。『同時代ゲーム』は窮極の文学です。こういうタイトルを羅列しているうちに、ぼくは半世紀前の過去にタイムスリップした気分になってきました。日本という国に生まれてよかった。大江健三郎をリアルタイムで読めてよかった。いまはそんな気分にひたりきっています。

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初出:P+D MAGAZINE(2019/02/07)

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