古井由吉『杳子』/芥川賞作家・三田誠広が実践講義!小説の書き方【第76回】スタイルだけで成立する小説

芥川賞作家・三田誠広が、小説の書き方をわかりやすく実践講義! 連載第76回目は、古井由吉『杳子』について。孤独で斬新な愛の世界を描いた作品を解説します。

【今回の作品】
古井由吉杳子』 孤独で斬新な愛の世界を描く

孤独で斬新な愛の世界を描いた、古井由吉『杳子』について

古井由吉はスタイリッシュな書き手です。服装がオシャレという意味ではありません。文学の業界では、「スタイル」とは、「文体」のことです。でも、文体って、何でしょうね。
手紙文、日記体、ためぐちのおしゃべり、箇条書き、モノローグといった、文章のタイプのことを文体ということがありますが、純文学の場合は、その作品が純文学であることを示す、文章の格調みたいなものを指すことが多いようです。

古井さんの文章は独特です。まわりくどいと感じることもありますし、もったいぶっているという気がすることもあるのですが(ぼくの個人的な感想です)、簡単には真似のできない緻密な文章ですし、何かただごとではない不思議な空間に誘い込まれるような感じになってしまう、怪しい魅力に満ちた文章といっていいのではないでしょうか。

この作品は、男と女の物語ですから、考えようによってはロマンチックです。杳子というヒロインの名前に注目してください。沓(くつ)ではありませんよ。これは杳子(ようこ)と読みます。人が失踪したような時に、「杳として」行方知れず、などという言い方をします。暗くてよくわからないさまを示す漢字ですね。こんな名前の人が実際にいるかはわかりませんが、現実にはいそうもないような、幻想的な女性として、こういう名前を用いたのでしょう。

リアリズム作家も陶然とする文体

この杳子という女性、まあ、精神を病んでいるのでしょうが、出だしのファーストショットから印象的ですし、かなりふうがわり、よくいえばエキセントリックな人物です。対処のしようによっては、アブナイ感じがする女性と、どんなふうにつきあっていくのか、読み進むにつれて、スリリングな展開になっていきます。

でも、読み急がないでください。これは推理小説でもハードボイルドでもないのです。ここに提出されているスリルは、もっと根源的で、人間存在の奥深いところに根ざしたものだと思われます。
選評を読んでみると、自然主義リアリズムで、コテコテの私小説しか書かない瀧井孝作までが、「筆の妙味に陶然とさせられた」と絶賛しています。

実は同じ時期に、古井さんは『妻隠』という作品も発表していて、同時に候補作になっていたようです。この作品は文体を抑え気味にして、平易な文章のリアリズムで押し切っているところがあり、読みやすさではこちらの方が優れていて、最後には、『杳子』を採るか『妻隠』を採るかで決選投票になった、といった経緯があったのですね。
それで『杳子』が選ばれたということで、これは文体の勝利というべきでしょう。そのことが古井由吉自身にも影響を与えて、それ以後、古井さんはつねに文体で勝負するという、スタイル一辺倒の作家になっていったのです。

スタイルというものの魅力は何でしょうか。リアリズムを超える秘密の扉、とでもいいましょうか。瀧井孝作のような純朴な作家まで「陶然とさせる」、つまり酔わせるところがあるのですね。
この作品の内容を、ただのリアリズムで書いたとしたら、精神に障害のあるふうがわりな女の子とかかわりあいになってしまったために、いろいろ困った事態になってしまった話……ということになってしまいそうです。そんなもの、誰も読みたくないですよね。

純文学の手法としての耽美主義

スタイルとは、ただの「困った話」を、一流ブランドの包装紙で包み込むようなものです。最初の一行から、これは何やらすごい小説らしいと思わせ、未知の世界に引きずり込んでいく。リアリズムのように見せながらも、ここには異様な美があります。

川端康成が芸者のかっこうをした小学生に恋をしたように(『伊豆の踊子』)、谷崎潤一郎がただのわがままな琴の先生をまぶたの奥にやきついた美しい幻影として描いたように(『春琴抄』)、ただの日常のほころびにすぎないものを、耽美というパッケージで商品化するような、まさにこれは純文学の手法といっていいのでしょう。

この『杳子』という作品は、芥川賞の歴史の中で燦然と輝き続ける、特異な文体をもった作品です。この文体を愉しんでいただければと思います。この作品は、スタイルだけで成立した作品だということもできますし、スタイルしかない、といってもいいのです。これが純文学なのですし、これが芥川賞なのです。
簡単に真似のできる作品ではないのですが、無理をして真似をしないようにしてくださいね。あなたの作品を、昔の芥川賞作品の包み紙でパッケージしても、何の意味もないことですから。

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