第2回【インタビュー】91歳で今なお現役の芥川賞作家・津村節子が語る、夫・吉村昭と歩んだ文学人生

芥川賞をはじめ、多くの文学賞に輝き、91歳になった今もなお現役の作家、津村節子が語る幼年~青年時代。9歳で母を、15歳で父を失った少女時代、14歳で少女小説から始まった文学の道、戦後の混乱期、自立のために学んだ洋裁、生涯の伴侶・吉村昭との出会い……、作家・谷口桂子を相手に、初めて本音を語る。全4回にわたる連載の2回め。

IMG_5146._01jpg

作家・津村節子は、学習院短大在学中に吉村昭と知り合い、卒業後結婚。以後15年にわたる長い窮乏生活を共にしながら、作家としての地位を確立していきます。おしどり夫婦として知られ、吉村の闘病と死を、津村は作品に昇華させました。今回は幼年時代から、吉村と出会って結婚するまでの若き日を、吉村の兄弟たちとのやりとりも交えて語っていただきました。

津村節子(つむら せつこ)
1928年福井市生まれ。学習院女子短期大学文学科卒業。在学中より小説を発表し、64年「さい果て」で新潮社同人雑誌賞、65年「玩具」で芥川賞を受賞。その後90年「流星雨」で女流文学賞、98年「智恵子飛ぶ」で芸術選奨文部大臣賞、2011年「異郷」で川端康成文学賞、「紅梅」で菊池寛賞受賞。日本芸術院会員、文化功労者。
 

 

――今回はご幼少の頃のお話も、聞かせていただきたいと思います。お生まれは福井で、生家は絹織物業をされていました。三人姉妹の真ん中で、お体が弱く、学校も休みがちで、本ばかり読まれていたそうですね。

津村「幼い時から虚弱な体質で外で遊ぶことが少ない私に、母はいくらでも本を買ってくれました。病床についているときは、グリム童話やアンデルセン童話、アラビアンナイトを読み聞かせてくれて。小学館の学習雑誌が毎月書店から届けられましたが、私はもっと大人っぽい『少女倶楽部』や『少年倶楽部』をとってほしいと言っていました。
本ばかり読んでいるので、従業員に「せっ子ちゃんは、小説家になるといいですね」と言われました。そう言われたからでもないですが、こんなに体が弱くてはお嫁にも行けないだろうから、家にいて小説を書いていようと思うようになりました」

――そのお母さまが昭和12年、津村先生が9歳のときに急性肺炎で亡くなり、昭和14年に一家は東京の目白に転居されます。福井と東京を行き来されていたお父さまが心臓麻痺で急死されたのは、昭和19年1月、雪深い勝山で独り暮らしをしていた時。戦時下の女学生時代からご結婚され、作家を目指された日々のことは、『茜色の戦記』『星祭りの町』『瑠璃色の石』の自伝的小説三部作に書かれています。
初めて小説をお書きになったのは、14歳のときですか?

津村「少女時代に松田瓊子の「紫苑の園」を読んだのがきっかけでした。257枚書き上げたのですが、それを誰に見てもらえばいいのか、どこへ持っていけばいいのかわからない。NHKのラジオで、著名な女性作家が新人の作品を紹介するのを聞いて、放送局宛に送りましたが、無論相手にもされませんでした」

私は、思い切って、自分の原稿を村岡花子に送ってみよう、と思った。いつもラジオの放送を楽しみに聞いていること。松田瓊子の「紫苑の園」を読んで、感銘を受けたこと。自分も幼い頃から虚弱で、本を読むこと、物を書くことが好きだったこと。「紫苑の園」に触発されて初めて長編少女小説を書いてみたこと。
こういうものを誰に見て貰ったらよいのか皆目わからず、思い切ってお送りしますので、御多忙とは存じますが、目を通していただけないでしょうか、と言葉を選びながら何度も書き直し、返信用の切手を、自分の住所を書いた封筒に貼って、放送局のレギュラー番組気付で送った。
郵便局へ持って行った時、私は気負い込んでいて、かなり自信があった。それから一週間ぐらいは、一つのまとまったものを書き上げた満足感に浸っていた。
                      

『瑠璃色の石』(新潮文庫)

――戦争中は東京工業専門学校写真科を受験されて合格されています。終戦後は、目黒のドレスメーカー女学院に通われます。これだ、と思われたことに、即トライされる決断力と行動力は驚きの連続ですが……。

津村「作家になってから、グラビア撮影のために家に来られた写真家の林忠彦さんに、戦時中材料がなくて使用済みの乾板やカラーフィルムの膜面を除去して使っていたと話をしたら、へえー、津村さんはそんなことをしていたのですかと驚いておられました。
戦争で夥しい男性が戦死し、男一人に女はトラック一杯といわれた時代です。結婚しようと思っても相手はいませんから、女性も自活しなければいけない。一生できる仕事をするための技術を身につけないといけないと思って疎開先から目黒のドレスメーカー女学院に通いました」

――卒業されて、疎開先だった埼玉県の入間川で始めた洋裁店は繁盛されたようですね。

津村「町は商う商品がないので空き店舗が沢山ありました。せっかくドレメを出ているんだから洋装店をしようと思い立ち、ペンキ屋さんがDRESSMAKERと横文字で書いてくれました。みんなモンペをはいていた時代ですから、どこの家にも着物は沢山ある。シルクのワンピースに仕立直して着たらうれしいでしょう? 豊岡の士官学校がジョンソン基地になって将校夫人も来てくれるようになり、日米学院に通って英会話の勉強も始めました。カメラマンもデザイナーも、才能がなければならないのに、私はいつも自分が向いているかいないか考える前にとびついています。やってみなければわかりませんから」

――それだけ繁盛していた店を閉めて、今度は学習院の短大を受験されますね。

「学習院大学に短期大学部が設置され、第一回生を募集するという新聞の記事を見て、短期大学ってなんだろうと思いました。女学校でちゃんと授業を受けたのは2年生までで、あとは救急看護訓練や農場作業で授業が潰れて、勉強らしい勉強はしていません。女学校2年の学力しかないのがものすごくコンプレックスだったんです。
学習院に電話すると、旧制の女学校卒では受けられませんが、高校卒業の認定試験に受かればみなさんと一緒に受験できますよ、と言われました。私は店を閉めて、1年間勉強して認定試験を受けました。受験生は私一人で、4人の先生が面接のためにいました。その場で、高校卒業の資格があると認めますといわれ、頑張ってくださいと先生の一人が私にオーバーコートを着せかけてくださいました」

P28小_t
入学間もないころ、級友と。右が津村
昭和26年(1951)高等学校卒業の認定試験を受けて入学。「漸くかなった向学の思い」は津村を「勇み立たせ」、一日も休まず通学する。

私は胸がいっぱいになり、深々とお辞儀をしただけで言葉が出なかった。ささくれ立った床の上に、涙が落ちた。苦しい戦中、戦後の生活が続いたが、生きていてよかった、と思った。
その後、挫折感に襲われると、あの寒い日のことを思い出す。遅れてきた一人の娘を励まして下さった先生方の顔を思い出す。

『もう一つの発見 自分を生きるために』(海竜社)

何かやりたいのだが、何が自分に向いているかわからないという人が私の周辺に大勢いるが、私はその気持ちがよくわかる。ただ一つ言えることは、何が向いているかわからないと手をつかねていないで、とにかくやってみることだ。私のように気が移ってどれも大成しないかもしれないが、とにかくやってみなければ何が向いているかわからない。

『女の引出し』(文化出版局)

――学習院に入られて、文芸部を作られます。一方で、少女小説を書いて、出版社に持ち込まれますね。

津村「少女小説というものを書いてはみたものの、誰に読んでもらったらいいかわかりません。まさかいきなり講談社や小学館のような大手出版社に持ち込む度胸はありませんから、書店の店頭で見た「少女世界」という雑誌を出している富国出版社を訪ねてみようと思いつきました。取り合ってもらえなくてもともとと諦めていたんですが、編集長はその場で読んでくださって、採用になり、また次を持っていらっしゃい、と言って下さいました。何作か書いているうちに講談社の「少女クラブ」からも原稿依頼が来て、「ひまわりさん」という戦災孤児の元気な少女が主人公の話が大当たりしました。少女小説を書きながら、同人雑誌に作品を発表したいという気持ちは変わりませんでした。書くことに自信ができて来て、一層書きたい気持ちが募っていました」

tsumura_P46_t
学習院大学文学部の仲間と
昭和26年(1951)ころ
前列右端が吉村、その右上が津村。短大の文芸部に所属していた津村は、活動が盛んな大学の文芸部にも参加したいと思った。部屋を訪問すると、出てきたのが文芸部委員長の吉村だった。

その作品は採用になり、次のものを持って来るように、と言われた。
社を出ると、私はクリーム色の建物を振り返り振り返りしながら、戦中戦後を無我夢中で生きてきた自分の道がようやく開かれたような心のはずみを感じていた」
                     

『合わせ鏡』(朝日新聞社)

――生涯の伴侶となる吉村昭さんとは、学習院の文芸部で出会われます。第一印象は?

津村「やせて頬のこけた、ちょっとひねた感じで、とても学生には見えないほど老けていました。吉村も、助教授に間違えられて守衛が敬礼しやがるのと、部室で面白そうに喋っていて。私も同級生より5歳年上ですが、吉村は結核で中学生の時に休学し、旧制高校の時に喀血して胸郭成形手術で肋骨を5本も取っているので、2年生なのに大学の4年生より年上でした。」

――文芸部では三島由紀夫さんのお宅を訪問したり、古今亭志ん生さんを招いて古典落語会を催したりされてますね。

津村「吉村と二人で鎌倉の中山義秀氏のお宅を訪ねたときは、あなたたちは許嫁者(いいなずけ)ですかといわれました。吉村は骨を5本取ってますから、体育の授業には出られないんです。野球でもテニスでもボール拾いをしたら単位をあげると先生にいわれたようですが、そんな屈辱的なことはできない、と言っていました。」

――それで津村さんが卒業されるのと同時に、吉村さんも中退されてしまいますね。プロポーズはその頃ですか?

津村「それがね、あるとき吉村の弟から手紙がきて、相談したいことがあると」

――ご本人ではなく、弟さんからですか? 肺病の兄を献身的に看病する弟と、手伝いの少女との療養生活を描いた『さよと僕たち』、その弟が亡くなる『冷い夏、熱い夏』など、吉村さんが小説にお書きになっている、特別に仲がよかった弟さんですよね。

津村「そう、その弟に、兄貴のことをどう思っているんですかと聞かれました。つまり結婚する気はあるんですかと。私は小説を書くことしか考えていなくて、小説を書く女なんて男だったら辛抱できないっていわれたと答えました。そしたら兄貴がそんなこと言うわけがない、正確にはどういったのかと聞かれて、小説を書く女など男だったら辛抱できないだろうから、きみが離婚するまで待っていると言われたと。
ほら、兄貴はちゃんとプロポーズしている、と弟は言い、ねえさんも小説を書く人ならその辺のニュアンスをくみ取ってもらいたいと、偉そうに言われました。兄貴は骨がなくて大学中退で、偏屈で癇癪持ちだけど、結婚してくれたら僕はできるだけのことをします、といって弟は頭を下げました。まるで弟に口説かれているようでした」

――逆に吉村さんのお兄さまは、親代わりとして弟の結婚の挨拶に行くときに、お前のような中途半端な者のところへ、嫁に来てくれる人があろうとは思えない。先方は本当にいいと言ってくれているのか、恥をかくのはいやだぜとしきりに心配して念を押されたようで……。

津村「『さよと僕たち』は、吉村の作品の中で最も好きな作品の一つで、弟は兄たちの家を廻って医療費と生活費をもらい、不足分は肉体労働のアルバイトをしながら吉村の面倒をみていました。
吉村に食事に誘われるときはいつも弟が一緒で、会計は弟がしているようでした。私たちが結婚すると半年ばかりで弟も結婚し、子供がいなかったので私たちの子供を大変可愛がってくれて、二人いるんだから一人くれ、というのは弟の本心でもあったようです」

弟がまるで自分の恋を打ち明けるような熱心さで吉村の気持ちを訴え続けた日のこと、放浪の旅に出た留守中に、私が質入れしていた着物や帯を出しておいてくれ、帰京した折、死ぬほど心配したよ、と青い顔で言ったこと、嫂さん、もう一人兄さんの子を産んでくれないかな。ホテルのような産院で贅沢させるから、と言ったことなど、まるで昨日のことのように思い出した。義妹と交替して帰る電車の中で、眼を泣き腫らしている朝帰りの女を見た人は、どう思っただろう。
弟は、昭和五十六年八月の暑い盛りに死去した。吉村は心身共に衰弱して、年末まで体調が回復しなかった。
                            

『ふたり旅』(岩波書店)

インタビュー・構成:谷口桂子

次回に続く
連載記事一覧はこちらから>

書籍紹介

谷口桂子『越し人 芥川龍之介最後の恋人』
https://www.shogakukan.co.jp/books/09386474
越し人_書影

谷口桂子『崖っぷちパラダイス』
https://www.shogakukan.co.jp/books/09386537
ParadiseWeb_2_3

関連記事>谷口桂子、新刊『崖っぷちパラダイス』創作秘話を語る!―「何かになろうとあがいている人を書きたかった」

初出:P+D MAGAZINE(2019/09/26)

古井由吉『杳子』/芥川賞作家・三田誠広が実践講義!小説の書き方【第76回】スタイルだけで成立する小説
映画『宮本から君へ』 池松壮亮スペシャルインタビュー