【連載お仕事小説・第6回】ブラックどんまい! わたし仕事に本気です

燃えるお仕事スピリットが詰まった好評新連載、第6回。主人公の七菜(なな)は、いつも仕事に全力投球! 順調に進行するドラマの撮影現場に、なんと、原作者・上条朱音が現れた! 原作者は絶対的な存在。何か間違いが起きれば大変なことになる。スタッフの間に緊張が走る――。

 

【前回までのあらすじ】

早朝から始まる撮影。緊張感に包まれた現場だが、先輩の頼子が心を込めて作る温かい生姜湯が疲れを癒やしてくれる。もちろんイレギュラーな事態も多発。その度に七菜は機転を利かせ、主演女優のケアにつく。そして順調に撮影は進むが、なんとそこにあの人物が現れた……!

 

【今回のあらすじ】

撮影現場に、予定外に姿を現したのは、なんとドラマの原作者・上条朱音だった! 想定していなかった事態に、緊張と焦りに包まれる現場。朱音の機嫌を損ねることがないよう、細心の注意を払いながら進む撮影。そんな空気の中、後輩のアシスタントプロデューサー・大基が無神経な発言をし、七菜は思わずカッとなるが……。

 

【登場人物】

時崎七菜(ときざき なな):テレビドラマ制作会社「アッシュ」のAP、31歳。広島県出身。24歳で上京してから無我夢中で走り続け、多忙な日々を送っている。

板倉頼子(いたくら よりこ):七菜の勤める制作会社の上司。チーフプロデューサー。包容力があり、腕によりをかけたロケ飯が業界でも名物。

小岩井あすか(こいわい あすか):撮影が進行中のテレビドラマの主演女優。

橘一輝(たちばな いっき):撮影が進行中のテレビドラマの主演俳優。

佐野李生(さの りお):七菜の後輩のAP。26歳で勤務3年目。

平大基(たいら だいき):七菜の後輩のAP。今年4月入社予定の22歳の新人。

野川愛理(のがわ あいり):メイクチーフ。撮影スタッフで一番七菜と親しい。

佐々木拓(ささき たく):七菜の恋人。大手食品メーカーの総務部に勤めている。

上条朱音(かみじょう あかね):ドラマ『半熟たまご』の原作者。数々のベストセラーを持つ小説界の重鎮。教育評論家としても名高い。

 

【本編はこちらから!】

 
 何故、なぜ朱音がここに。もともとそういうスケジュールだったっけ。七菜は必死に今日のスケジュールを思い浮かべる。
「上条先生、ご紹介いたします。このドラマの現場責任者である、プロデューサーの板倉頼子です」
 責任者、に、必要以上のちからを込めて耕平が頼子を指し示す。
 ぎろり。白目がちの、巨大な目だまが動き、頼子を捉える。
「初めてお目にかかります。アッシュの板倉です。いつもたいへんお世話になっております」
 頼子が深々と首を垂れる。七菜もあわてて頼子に倣う。
 七菜はもちろん、プロデューサーである頼子さえ原作者に会うことはできない。会えるのはさらに上の耕平だけだ。台本はもちろん、どんな()(さい)なことがらもすべて耕平から版元である出版社の担当者に送られ、しかるのち朱音に届く。七菜たちにとって朱音は、いわば雲の上の存在だった。
「初めまして。上条です」
 ふたりの頭上に、きん、とよく響く高音が降って来る。テレビで聞くよりずいぶん甲高い声だなと七菜は思う。
佐野(さの)くん、椅子をこちらに。さ、先生、どうぞおかけください」
 李生がさっとチェアを広げた。朱音は李生を一顧だにすることなく、落ち着き払ったようすで椅子に腰かける。
「板倉さん、すぐにみんなをここに集めて。先生、お寒いでしょう。なにやってんだ、時崎くん、早く先生にカイロをお渡しして」
 ふだんはゴムの伸びきったパンツのような、だれんとした雰囲気の耕平が、めずらしくきびきびと指示を出す。頼子がマイクに向かって短く囁いた。腰につけたポーチに手を伸ばす七菜を、
「要らないわ。暑いくらいよ」ぴしりと朱音が制する。
 確かにこの寒さのなか、厚いファンデーション越しに朱音の頬にはうっすら汗が浮いている。
「失礼いたしましたッ」
 七菜が返答するよりさきに耕平が言い、腰を直角に曲げた。急いで七菜も最敬礼する。
 視界の隅に、スタッフや俳優たちが、ものすごい勢いでこちらに向かって駆けてくるのが映る。どの顔も緊張のためか引き攣って見えた。
 原作者。このやっかいな生きもの。
 ドラマや映画において、原作者は絶対的な存在だ。原作者が首を縦に振らない限り、どんな案件も進行しない。よしんば一度は通った企画でも、万が一原作者に機嫌を損ねられたら、すべてひっくり返る可能性すら在りうる。苦労に苦労を重ねて撮ったシーンがまるごと消えるなんて日常茶飯事だ。それを考えれば、みなの緊張ぶりも当然のことだと七菜は思う。しかも。
 ようやく頭を上げた耕平にやや遅れて、七菜も面を上げる。しかも今回の相手はあの上条朱音だ。この業界では知らぬものなどいない、あの。
「上条先生、初めまして。今回、(たま)()役をやらせていただきます小岩井あすかと申します。どうぞよろしくお願いいたします」
 最初に駆けつけたあすかが椅子の真ん前に立ち、髪のさきが地面につくくらい深く頭を下げた。
「よろしく。よくテレビで見てるわよ」
「え、ほんとうですか。すごい光栄です。わたし、ずっと前から先生のファンで。ご著作はすべて拝見しております。ですからこの役に決まったときは、もう天にも昇る心地でした」
 頬を紅潮させてあすかがこたえる。目にはうっすら涙さえ浮かんでいる。さすがプロ。七菜はこころのなかで唸る。
 ついで一輝が、監督の矢口が朱音に挨拶をする。その隙をついて、頼子が耕平を脇に引っ張って来た。
「岩見さん、どういうことですかこれは」
 押し殺した声。
「どうもこうも、今朝いきなり言われたんだよ『これからロケ見舞いに行く』って」
 耕平の声も頼子に負けず劣らず低く小さい。
「せめて事前に電話を」
「そんな暇あるかい。とつぜん会社にやってきて、そのまま拉致されたんだから、おれ」
 眉も目も鼻も口も顔面パーツすべてが垂れた耕平が、さらに垂れを増強させて抗議する。
「どうするんですか、今日の撮影、ぱっつんぱっつんなんですよ」
「んなこと言ったって来ちゃったものは仕方ねえだろ。とにかくご機嫌を損ねないよう、せいいっぱいがんばるしかねえ」
 耕平の顔には悲壮感すら漂っている。頼子が、ふぅう、大きく息をついて首をちからなく振った。
「挨拶はもういいわ。さっさと撮影に戻って頂戴。あたくしはロケを見るためにわざわざここまで来たんですのよ」
 苛ついた朱音の声が響きわたり、現場の空気が一瞬で凍りつく。
「ですよねですよね。さあみなさん、仕事に戻りましょう」
 ぱんぱん。耕平が両手を打ち鳴らした。蜘蛛の子を散らすように全員いっせいに駆けだした。
「ささ、先生、どうぞもっと前へ」
 耕平に先導された朱音が、大股でカメラに向かい歩いてゆく。あとを追おうとした七菜を、愛理が呼び止めた。
「七菜ちゃん、えらいことになっちゃったねぇ」
 愛理の眉間には、くっきりとした縦皺(たてじわ)が浮かんでいる。
「まさかいきなり来るとはね、あの上条センセイが」
「うん……」
 ちからなくこたえる七菜の横合いから、無邪気とも思える声で大基が尋ねる。
「え、なんで? そんなにすごいひとなんですか上条先生って」
「そっか、(たいら)くんは初めてよね、センセイに会うのは」
 暗い顔のまま愛理がこたえる。
「へえ。おれ、全然知らなかったです、だってあのひとの本、読んだことないし」
 大基のことばに、愛理がぎょっとしたように立ち竦む。七菜の全身から音を立てて血が引いてゆく。あわてて前を行く朱音を見やる。どうやら幸いにも大基の声は耳に入らなかったらしい。朱音が振り向くことはなかった。
「――近づくな」
 七菜は、じぶんより頭ふたつは大きい大基を(にら)み上げる。
「へ?」
「近づくな、平大基。上条先生の半径十メートル以内に絶対に近づくな!」
「な、なんすかそれ」
 大基が怯えた声をだす。
「落ち着いて七菜ちゃん」愛理が七菜の腕を押さえた。「理由を教えてあげなきゃ。平くん、初めてなんだからさ」
 愛理の声に平常心が少しだけ戻って来る。深呼吸してから、七菜は慎重にことばを選んで大基に告げる。
「上条先生はたいへん神経質で繊細な性質(たち)なの。ほんの些細なことでおへそをお曲げになられる。だから」
「あーつまりクレーマーってことですね。了解っす!」
 おどけたようなしぐさで大基が敬礼のまねごとをした。
 張り倒したい。完膚なきまでに。
 怒りが鬼火のように、ぼっぼっ、七菜のこころに浮かぶ。
 カメラ前のあすかのもとに戻ると、すでにあすかはチェアに座っていた。背すじをぴっと伸ばし、まっすぐ正面を向いている。十メートルほど後方、大きな木のしたに座る朱音を意識しているに違いない。
 日傘を広げようとする七菜を制して「時崎さん、お願いがあるんだけど」あすかが七菜を見上げた。
「なんでしょうか」
「悪いけど事務所に電話してくんない? そんで誰でもいいから空いてるひと、至急ここに寄越してって頼んで」
「わかりました」
 七菜は日傘を置き、スマホを取り出して登録してあるあすかの事務所の番号をタップし、出た相手にあすかの言づてを伝える。
「すぐ手配してくださるそうです」
 スマホを切ってあすかに伝える。
「ありがと。まったくもお、なんでよりによってこんなときにいないのよ、村本(むらもと)ちゃん」
 あすかがぼやく。村本とはあすか専属マネージャーのことだ。
「これじゃ先生に名刺、渡せないじゃん。子役のマネですら渡してるのに」
 苛々した声であすかがつぶやいた。
「ですよね」
 同意を示しながらあすかに日傘を差しかける。
 原作者と繋がりを持っておくのは俳優にとって切実な問題だ。原作者の気に入られれば、次に作品が映像化されるとき、いい役を回してもらえるかもしれない。しかも相手はかの上条朱音だ。あすかにとって、こんな貴重なチャンスは滅多にないだろう。
「シーン18テスト入ります。小岩井さん、お願いします」
 助監督が大きな声で呼ばわる。
「はい!」
 教師にあてられた生徒のように、あすかがはきはきとこたえ、立ち上がって監督の指示した場所へ駆けていく。その背を見送ってから、七菜はそっと背後を(うかが)った。

 

【次回予告】

絶対的な存在であるドラマ原作者の上条朱音の登場に、これまでにないほどの緊張感が張り詰める撮影現場。そんな中、七菜が、チーフプロデューサーの耕平から朱音のケアを任される事態に。どうする!?七菜!

〈次回は2月28日頃に更新予定です。〉

プロフィール

中澤日菜子(なかざわ・ひなこ)

1969年東京都生まれ。慶應義塾大学文学部卒。2013年『お父さんと伊藤さん』で小説家デビュー。同作品は2016年に映画化。他の著書に、ドラマ化された『PTAグランパ!』、『星球』『お願いおむらいす』などがある。

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初出:P+D MAGAZINE(2020/02/21)

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