届いたのは100人前のレトルトカレー! 悩んだ七菜は、3週間ぶりにあの人のもとへ……! 【連載お仕事小説・第29回】ブラックどんまい! わたし仕事に本気です

燃えるお仕事スピリットが詰まった好評連載、第29回。主人公の七菜(なな)は、いつも仕事に全力投球! 七菜の恋人・拓が務める「アタカ食品」から届いたのは、なんと100人前のレトルトカレー。撮影現場のロケ飯で使用する調理法に悩んだ七菜は尊敬する上司・頼子に会いに向かった……!

 

【前回までのあらすじ】

取引先へドラマ放送中止の謝罪に行くため都内をかけずり回り、精神的にもすり減った七菜のもとにメイクチーフの愛理から連絡があり、会うことに。既婚者の愛理は仕事を辞めて結婚に逃げようとする七菜に激怒して……!?

 

【今回のあらすじ】

七菜の恋人・拓の務める「アタカ食品」から届いた段ボールに入っていたのは、100人前はあるであろうレトルトカレーの差し入れだった。その調理法に悩んだ七菜は尊敬する上司・頼子に会いに行くことに。3週間ぶりにあった頼子は松葉杖をつくまでに病状が悪化していて……。

 

【登場人物】

時崎七菜(ときざき なな):テレビドラマ制作会社「アッシュ」のAP(アシスタントプロデューサー)、31歳。広島県出身。24歳で上京してから無我夢中で走り続け、多忙な日々を送っている。

板倉頼子(いたくら よりこ):七菜の勤める制作会社の上司。チーフプロデューサー。包容力があり、腕によりをかけたロケ飯が業界でも名物。

小岩井あすか(こいわい あすか):撮影が進行中のテレビドラマの主演女優。

橘一輝(たちばな いっき):撮影が進行中のテレビドラマの主演俳優。

佐野李生(さの りお):七菜の後輩のAP。26歳で勤務3年目。

平大基(たいら だいき):七菜の後輩のAP。今年4月入社予定の22歳の新人。

野川愛理(のがわ あいり):メイクチーフ。撮影スタッフで一番七菜と親しい。

佐々木拓(ささき たく):七菜の恋人。大手食品メーカーの総務部に勤めている。

上条朱音(かみじょう あかね):ドラマ『半熟たまご』の原作者。数々のベストセラーを持つ小説界の重鎮。教育評論家としても名高い。

岩見耕平(いわみ こうへい):チーフプロデューサー。七菜の上司。

 

【本編はこちらから!】

 

 アタカ食品。拓ちゃんの会社だ。心臓がとくんと鳴った。
 持ち上げようとした七菜は、その重さに驚く。十二、三キロはあるだろうか。とてもひとりでは持ち上げられない。仕方なく廊下を引きずってリビングに運び込んだ。愛理が荷物を見て目を丸くする。
「どしたの、それ」
「わかんない。たぶん拓ちゃんからだと思うんだけど」
 貼ってある伝票に目を走らせる。差出人の欄に見慣れた字で「佐々木拓」と書いてあった。やはり拓が送ってきたのだ。七菜はガムテープを剥がし、蓋を開けた。中身を見て思わず息を呑む。
「なに? なにが入ってんの?」
 横合いから覗き込んだ愛理が「ふひゃぁ」、感嘆とも驚きとも取れる奇妙な呻き声を発した。
 箱いっぱいに詰まっていたもの。それは拓の会社が半世紀前から販売している、日本人なら誰もが知っているであろうレトルトカレーだった。
「あったかアタカ、あったか家族、アタカのカレー……」
 愛理が箱のなかを凝視しながら、幼いころから聞き慣れたコマーシャルソングを口ずさむ。七菜はぼう然とオレンジ色の外箱を見つめた。ぎっしり詰め込まれたカレーは、ゆうに百人分はあるだろうか。ひと箱取り出した愛理が、つくづくとレトルトカレーを眺める。
「もしかして、これ、差し入れ?」
「……たぶん」
「これを一つひとつ温めて出せって?」
「たぶん」
「え? え? それってすごい大変じゃ」
「……たぶん」
 七菜は想像してみる。寸胴鍋に入った大量のカレー。ひとつ温めるだけでも五分はかかるというのに、これを撮影チームの人数分温めるなんて。しかも一つひとつ封を切り、ご飯にかけてゆくのはどれだけ手間のかかることだろう。
「えらいもの送ってきたねぇ拓ちゃん」同じような想像をしたのだろう、愛理がつぶやいた。「まあ、拓ちゃんらしいっちゃらしいか」
「だね」
 きっと拓なりに、いまの七菜の状況を必死で考えたうえで送ってきた差し入れなのだろう。ああでもない、こうでもないと悩みになやむ拓のすがたが脳裏にありありと浮かんだ。
「ほんと、拓ちゃんらしい……」
 自然と笑みがこぼれた。愛理が笑い声を上げる。いったん笑い始めたら発作のように笑いが止まらなくなり、ふたり、子どものように腹に手をあて、床を転げ回ってひたすら笑った。
 笑い声と重なるように、愛理のスマホのアラームが鳴った。目じりに浮かんだ涙を指で拭いながら愛理がスマホを見る。
「そろそろ帰らなくちゃ」
 愛理が床から立ち上がった。
「ごめん、なんのお構いもせずに。あ、そうだ」
 七菜はカレーを数箱掴んで、玄関に向かう愛理を追う。
「よかったらこれ」
「ありがとう。家族でいただくよ」
 渡されたカレーをトートバッグに押し込んで、愛理がノブに手をかける。回しかけ、ふ、と、動きを止めた。ノブに手を添えたまま愛理が振り向く。
「……カレー、無駄にならないといいね。てかさ」
 愛理が澄んだ瞳で七菜を見上げる。
「無駄にしないよう、じたばたしよう」
「……うん」
 愛理の視線を受け止めて、七菜はしっかりと頷いた。
 ドアが閉まり、愛理が消えたあと、七菜はしばらく廊下に立ちつくした。
 ──出演者じゃない……原作者の息子が起こした不始末。そこを逆手に取ったなにか──
 愛理のことばが頭のなかでこだまする。
 どんな手があるのだろう。ここまで追い詰められて、それでもなお有効な手段──
 考え込みながら七菜はリビングに戻った。散らかり切った部屋のなか、真新しい段ボール箱が場違いに浮き上がってみえる。箱の横に座り込み、七菜はきちんと積まれたカレーをいくつか取り出してみる。中辛中辛中辛。どうやらすべて中辛らしい。せめていろんな味を混ぜてくれればよかったのに。とはいえ拓ちゃんのことだ、これまた迷いにまよったあげく、ぜんぶ同じ味に決めたに違いない。ふたたび温かな気持ちがわき上がってくる。
 それにしてもどうしよう、これ。限られた時間内で、全員分を温めて出すなんてとうてい不可能だ。カレーを睨みながら七菜は考え込む。
 頼子さんだったらどうするだろうか。
 暗闇で光るともしのように、ぽっと頼子の顔が浮かぶ。
 レトルトや冷凍は使わない主義だから、初めから現場には持ち込まないだろうか。いやでも頼子は、こころのこもった差し入れを無視するようなひとではない。だったらどうする? こんなとき頼子さんならどうするだろう。
 静かな笑みを湛えた頼子の顔が、七菜の眼前にまざまざと立ち上がってくる。
 揺るぎない信念を持った頼子。体調が悪くても現場に立ちつづけた頼子。どんな困難が降りかかっても、諦めずに粘り強く乗り越えていった頼子──
 頼子さんに会いたい。強烈な衝動が胸をく。会って話がしたい。こたえなんか出なくたっていい、ただ頼子さんの顔を見て、あの穏やかな声が聞きたい。
 勢いよく立ち上がると、七菜は脱ぎ捨てたコートを拾い上げて袖に腕を通した。

「驚いたわ。七菜ちゃん、連絡もなしにいきなり来るんだもの」
「すみません……」
「いいのよ。わたしも七菜ちゃんに話したいことがあったから」
 よく通るいつもの声で頼子が言う。白木のテーブルに置かれたカップから、ローズヒップの甘やかな香りが立ちのぼる。温かな湯気越しに、七菜は目の前に座る頼子を伏し目がちにそっと窺う。
 ゆったりとした笑みを湛えてはいるものの、頬の肉はげっそりと削げ落ち、もともと細面だった顔の線がさらに鋭く尖っている。くっきり浮き出た頬骨、あらわになった鎖骨が痛々しく映る。
 だがなにより七菜が衝撃を受けたのは、出迎えてくれた頼子の両脇に金属製のつえが挟まれていることだった。
 頼子さん、杖を使わないともう歩けないんだ──
 最後に会ったのは三週間ほど前。たった三週間でそこまで悪くなるなんて。
 七菜の顔色を見て察したのだろう、頼子が淡々とした口調で話しだした。
「前に病院で話したでしょう、乳がんが骨にも転移してるって。それがどんどん進んじゃってね。骨盤や大腿骨だいたいこつのほとんどが壊死えししてしまったの」
「で、でもついこのあいだまでロケ飯、届けてくれたのに」
「主治医が言うには進行性のがんで、しかもまだ若いから……進みかたが速いんですって。さ、いいから上がってあがって」
「……失礼します」
 七菜はなるたけ杖を見ないようにしながら部屋に上がった。
 いままでに何度か、ホームパーティに呼ばれて訪れたことがある頼子の自宅マンション。
 ごく普通の1LDKなのだが、料理が好きな頼子らしく、この規模のマンションにしてはめずらしいアイランドキッチンが備わっている。記憶のなかにあるのと同じ部屋。だがひとつだけ違うのは、真新しい段ボール箱が何枚も畳まれ、ひもでくくられてリビングの壁に立てかけてあることだった。
 ローズヒップティーをひと口啜ってから、七菜は慎重に切りだした。
「あの、頼子さんの話って」
「あとでいいわ。さきに七菜ちゃんの話をして」
 見慣れたストレートの長髪ではなく、ふわりとパーマのかかったショートウイッグを揺らせて頼子が首を振る。唾を飲み込んでから、七菜は口を開いた。
「ご存じだとは思うんですが、あの……ドラマが、『半熟たまご』の放映が」
「聞いたわ。岩見さんから」
 七菜を遮るようにやんわりと頼子が言う。感情を交えぬ、淡々とした声音。けれども厚い雪片が音を立てずに深く降り積むように、かえってその静けさが、頼子の悲しみを無念さをより強く際立たせる。
「……すみません。頼子さんが戻ってくるまで、現場を守ると約束したのに」
 腹の底から絞り出した声は、我ながらか細く、頼りない。頼子はなにも言わず、テーブルの上に揃えたじぶんの指を見つめている。七菜も、節がありありと目立つほどやせ細った頼子の指に視線を落とした。
 風が吹き、窓のガラスが音を立てて揺れる。

 

【次回予告】

頼子が戻るまで現場を守ると約束した七菜だったが、頼子のがんの進行は思っていたよりも早いものだった。頼子は、今まで誰にも見せたことがない姿を見せるほど取り乱して……。

〈次回は8月7日頃に更新予定です。〉

プロフィール

中澤日菜子(なかざわ・ひなこ)

1969年東京都生まれ。慶應義塾大学文学部卒。2013年『お父さんと伊藤さん』で小説家デビュー。同作品は2016年に映画化。他の著書に、ドラマ化された『PTAグランパ!』、『星球』『お願いおむらいす』などがある。

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