初めて明かされる「非戦平和」を訴え続けた「良識派」軍人の思想と生涯
ベストセラー『置かれた場所で咲きなさい』などの著作で知られる渡辺和子の父・渡辺錠太郎は、近代日本史上最大のクーデター未遂事件「二・二六事件」でただ一人標的とされた陸軍軍人でした。日本が戦争へと突き進む中で「非戦」の信念を貫いた渡辺錠太郎とは、いったいどのような人物だったのでしょうか。『多田駿伝 「日中和平」を模索し続けた陸軍大将の無念』で、第26回山本七平賞奨励賞を受賞した歴史研究者・岩井秀一郎が自著について語ります。
岩井秀一郎
『渡辺錠太郎伝
二・二六事件で暗殺された
「学者将軍」の非戦思想』
月刊 本の窓 2020年3・4月合併号
「二・二六」に斃れた“非戦派”軍人
平成二十八(二〇一六)年十二月の年の瀬、一人の修道女がこの世を去った。彼女の名は、渡辺和子。ノートルダム清心女子大学の学長などをつとめ、著書『置かれた場所で咲きなさい』は平成を代表する大ベストセラーとなった。テレビ出演などもあり、知っている人も少なくないだろう。その和子の人生を変えた出来事が昭和史の画期として有名な「二・二六事件」であり、その時和子の目の前で斃れた人物こそ、実の父である陸軍大将渡辺錠太郎である。
渡辺錠太郎は明治七(一八七四)年愛知県小牧町(現・小牧市)に和田武右衛門・きのの長男として生まれた。やがて母の実家渡辺家の後継となり、隣町の岩倉へと移る。
渡辺家は裕福ではなく、錠太郎は小学校も満足に通うことができなかった。それでも生来学問が好きで、努力家だった錠太郎少年は養父の畑仕事を手伝う傍ら勉強を続け、やがて陸軍士官学校を志す。小学校もろくに通えなかった渡辺は見事、地区第一位の成績で士官学校に合格し、やがてエリート将校の登竜門である陸軍大学校へも合格する。しかも陸大卒業の際は首席であり、まさしくトップ中のトップの頭脳を誇ったのであった。
その後渡辺は日露戦争に従軍して負傷、さらには明治陸軍の大御所である山県有朋の副官を務める。軍のみならず政治の世界にも強い影響力を及ぼす山県は用心深く神経質で、これまでの副官は大変な苦労を強いられた。しかし渡辺はこの山県の副官の任務を見事に務め上げたことから山県本人にも気に入られ、欧州留学を挟んで二度も仕えることになる。
そして渡辺にとって大きな転機となったのが、史上初の「総力戦」となった第一次世界大戦だった。渡辺はこの戦争が終結した後に再びドイツを始めとした欧州各国をめぐるのだが、戦争がもたらした惨禍に強い衝撃を受けた。このショックが渡辺を非戦論者にし、以後の思想や行動にも影響を及ぼす。
その後の渡辺は二度の航空本部長や台湾軍司令官などを経て、ついに陸軍大将に昇り詰める。しかし、渡辺の軍歴はこれで終わらなかった。
昭和初期の日本は内外に様々な問題を抱えていた。外に張作霖爆殺事件や満洲事変、内に血盟団事件や五・一五事件などのテロが勃発し、政治が腐敗する傍らで、貧困に喘ぐ農村では食うにも事欠く人々が多数いた。
軍内部でもクーデター未遂事件などが相次いだ。軍の一部は派閥的行動を取り、青年将校らは世を憂いて過激な行動を策した。渡辺はこれらの動きとほとんど無関係だったが、乱れた軍の統制を取り戻すため、ついに立ち上がることになる。
そして起きたのが、様々なテロ事件の総決算とも言うべき二・二六事件だった。日本を震撼させたこの事件で、ただ一人標的とされた陸軍軍人が渡辺錠太郎であった。
権力抗争と無縁だった渡辺は、なぜ事件の標的となってしまったのか。渡辺が軍内部の統制回復に乗り出した時、彼はすでに死を覚悟していた。陸軍屈指の読書家と称されながら、強い信念と闘志を持った渡辺錠太郎とは何者か。渡辺和子が父から受け継ぎ、そして現代の我々にまで残したものは何か──。
筆者は、渡辺の親族や、今でも敬意を抱く地元の人々の助けを借りながら、未公開史料を探り、渡辺錠太郎の姿を追い求めた。あの時代に「非戦」の信念を貫いた軍人の生き様を、拙著『渡辺錠太郎伝』を通じて読み取っていただければ幸いである。
『渡辺錠太郎伝
二・二六事件で暗殺された
「学者将軍」の非戦思想』
岩井秀一郎/著
定価:本体1,800円+税
小学館・刊 四六判 338ページ
大好評発売中
ISBN 978-4-09-388747-2
プロフィール
岩井秀一郎(いわい・しゅういちろう)
歴史研究者。一九八六年九月、長野県生まれ。二〇一一年三月、日本大学文理学部史学科卒業。以後、昭和史を中心とした歴史研究・調査を続けている。著書に『多田駿伝』(小学館/第二十六回山本七平賞奨励賞)、『永田鉄山と昭和陸軍』(祥伝社新書)がある。
豪華執筆陣による小説、詩、エッセイなどの読み物連載に加え、読書案内、小学館の新刊情報も満載。小さな雑誌で驚くほど充実した内容。あなたの好奇心を存分に刺激すること間違いなし。
初出:P+D MAGAZINE(2020/02/22)