退院し、逃げ出したくなる気持ちを必死に抑えて歩く七菜。起きてしまったトラブル解決に向けて誠心誠意立ち向かうが……!? 【連載お仕事小説・第11回】ブラックどんまい! わたし仕事に本気です

燃えるお仕事スピリットが詰まった好評新連載、第11回。主人公の七菜(なな)は、いつも仕事に全力投球! 退院し、現実を突きつけられる七菜。解決しなければならない難題が山積みだった。起きてしまったことはやむを得ないが、できない理由を探しても意味はない! 上司の耕平の言葉にも背中を押され、七菜は今日も困難に立ち向かう――!

 

【前回までのあらすじ】

二日酔いが祟って、体調が最悪の七菜。何とか仕事場で踏ん張っていると、そこになんと盗撮犯が現れる! 七菜が慌てて捕まえようとした時、転倒し頭を打って倒れてしまう。病院に運ばれ、目が覚めた時、七菜の中に少しずつ記憶が蘇る。一体何をしてしまったというのか、激しい後悔の念に苛まれるが……。

 

【今回のあらすじ】

頭を強打して入院していた七菜だったが、事なきを得て退院。待ち構えていたのは、起こしてしまった大トラブルの処理だった。関係する各社への謝罪はもちろん、それだけでは済まされない現実。思わず心が折れそうになる七菜。「無理だとか、簡単に言うな。」上司の耕平の熱い言葉に、反省し前に進もうと気合いを入れる!

 

【登場人物】

時崎七菜(ときざき なな):テレビドラマ制作会社「アッシュ」のAP、31歳。広島県出身。24歳で上京してから無我夢中で走り続け、多忙な日々を送っている。

板倉頼子(いたくら よりこ):七菜の勤める制作会社の上司。チーフプロデューサー。包容力があり、腕によりをかけたロケ飯が業界でも名物。

小岩井あすか(こいわい あすか):撮影が進行中のテレビドラマの主演女優。

橘一輝(たちばな いっき):撮影が進行中のテレビドラマの主演俳優。

佐野李生(さの りお):七菜の後輩のAP。26歳で勤務3年目。

平大基(たいら だいき):七菜の後輩のAP。今年4月入社予定の22歳の新人。

野川愛理(のがわ あいり):メイクチーフ。撮影スタッフで一番七菜と親しい。

佐々木拓(ささき たく):七菜の恋人。大手食品メーカーの総務部に勤めている。

上条朱音(かみじょう あかね):ドラマ『半熟たまご』の原作者。数々のベストセラーを持つ小説界の重鎮。教育評論家としても名高い。

岩見耕平(いわみ こうへい):チーフプロデューサー。七菜の上司。

 

【本編はこちらから!】

 
 青山一丁目で地下鉄を降り、七菜は地上に出た。向かって右手に国道二四六号が走っている。スマホで位置を確かめてから、二四六を背に、七菜は外苑東通りを乃木坂方面に向かって歩き始める。
 繰り出す足が重い。こころも重い。逃げ出したくなる気持ちを必死に抑えて七菜は歩く。
 平日の昼過ぎだが、外苑東通りは車の途切れることはない。行き来する車は、青山という土地柄か、高級外車が多い。
 冷たい風が広い通りを吹き抜けていき、七菜は思わずコートの襟をきつく合わせた。朝からどんよりとした厚い雲が広がり、いまにも雨が降り出しそうな雲行きだ。
 いっそ雪ならいいのに。そう思ってから、いや、と七菜は首を振る。
 ドラマの設定は初夏だ。雨ならまだしも雪に降られてはどうにもならない。
 今日の午後から撮影を再開すると、朝方頼子からLINEが入った。とりあえずあすかの出ないシーンを先撮りすることに急きょ決まったらしい。合わせて午後一時に、あすかの所属する大手芸能事務所「スケイリーン」の本社で、先方の責任者と耕平(こうへい)の話し合いが持たれると書いてあった。
「わたしも同行してもいいでしょうか」
 すぐさま返すと、折り返し頼子から返信が届いた。
「異常なく退院できたらOK。『スケイリーン』のビル前に一二時五〇分集合と岩見さんより」
 直接謝罪できる。七菜はほっと胸を撫でおろした。が、すぐに緊張と不安が襲って来、みぞおちがぎゅっと絞られるような痛みを感じた。
 午前十時の診察で医師から退院の許可を取りつけた七菜は、大急ぎで私物をまとめ、精算を済ませて病院を出、自宅へと向かった。
 自宅にいた母に事情を話し、なかば喧嘩別れするかたちでタクシーに押し込み、じぶんは青山に向かったのだった。
 外苑東通りを五分ほど直進し、銀行の角を左に曲がる。目指すビルは曲がったすぐそばにあった。ガラスを多用した十五階建ての(しょう)(しゃ)な作り。その十階から最上階までが「スケイリーン」のオフィスだ。
 覚悟はだいぶ固まって来ているものの、やはり実際にオフィスを見ると、朝方感じたみぞおちの痛みがぶり返してきた。腕時計で時間を確かめる。十二時四十五分。耕平はもう来ているだろうか。磨き抜かれた大理石のエントランスをこっそり覗きこむ。
「なにやってんだ時崎」
 いきなり背後から降ってきた声に驚いて、七菜は危うくつんのめりそうになる。いつものぴらぴらのコートを羽織った耕平が歩道に立ち、こちらを眺めていた。肩に黒い鞄をかけ、左手に紙袋を提げている。
「お、おはようございます」
 なんとか体勢を立て直し、頭を下げる。
「具合はどうなんだよ」
 寒そうに肩を(すく)めて耕平が尋ねる。
「大丈夫です。ご心配おかけしました。それから――今回のこと、本当にすみませんでした」
「まったくだよ、ほんとによぉ。このクソ忙しいときによぉ」
「すみません……」
「とにかくやっちまったことは仕方ねえ。ほれ」
 耕平が左手に持った紙袋を差し出して来た。
「なんですかこれ」
「菓子折りだよ菓子折り。常識だろうがよ」
 そっか、そうだよな。なんで思いつかなかったんだろう。七菜は歯がゆさを噛み締める。
「さて、じゃあまあ行くか」
 耕平がふらんふらんと歩きだす。あわててその背を追った。
「あの、あたしはどうすれば」
「ひたすら頭下げてろ。よけいなことは言うんじゃねえぞ」
 前を向いたまま耕平がこたえる。七菜は神妙に頷いた。
 厳重なセキュリティチェックを幾度もくぐって通されたのは、十一階にある狭い会議室だった。長方形のテーブルにパイプ椅子が六脚。壁という壁はすべて「スケイリーン」所属の俳優やアーティストが出演するポスターで埋まっている。案内してくれた若い女性が去り、耕平とふたり、固い椅子に座って待つ。
 心臓の脈打つ音がどんどん高まって来る。口のなかがからからに乾き、両の手にじわりと粘っこい汗が浮いてきた。
 七菜は右横に座る耕平をちらりと見た。いつもの、なにを考えているのかわからぬ表情のまま耕平は四方に貼られたポスターを眺めている。無言の時間が過ぎてゆく。七菜は、部屋の壁がどんどんこちらに向かって狭まってくるような錯覚を覚える。
 約束の時間を五分ほど過ぎたころだろうか、ドアが開き、男性がふたり部屋に入ってきた。
 ひとりはあすかのマネージャーである村本、そしてその前に立つのは七菜の知らない男性だ。中肉中背、引き締まったからだをしている。ゴルフ焼けだろうか浅黒い顔に、意志の強そうな太い眉とすっと通った鼻すじが印象的だ。
 ふたりが入って来るなり耕平がさっと立ちあがる。わずかな間をおいて七菜も席を立った。
山崎(やまざき)部長。お忙しいところをわざわざ申し訳ありません」
 耕平が首を垂れる。七菜は耕平よりさらに深く頭を下げる。
「こちらこそご足労いただきまして。さ、どうぞおかけください」
 張りのある低音で山崎がこたえ、右手で椅子を指し示した。山崎と村本が腰かけるのを待ってから、耕平、そして七菜の順で席に座り直す。耕平が(あご)を引き、目だけを動かして七菜を見る。膝に置いた紙袋を七菜はそっとテーブルに置いた。
「つまらないものですが」
 耕平が言うと、山崎が口もとをわずかに緩ませた。
「これはこれは。お気遣いいただきまして」
 山崎が言い終えるや村本が紙袋を手繰り寄せ、空いている椅子に置く。
「こちらの方は?」
すっと目を細め、山崎が七菜を見た。
「アシスタントプロデューサーの時崎と申します」
「初めまして。いつもたいへんお世話になっております」
 七菜は両手で名刺を差し出した。受け取った山崎が口角を歪めて名刺を見る。
「ああ、例の」
 こたえようとした七菜の気勢を制して耕平が口を開く。
「このたびは当方の不注意により、多大なご迷惑をおかけしてほんように申し訳ございませんでした。こころより反省いたしております」
 テーブルに額がつく勢いで耕平が頭を下げる。両手を膝に置き、七菜も耕平に倣った。山崎の声が頭上に降って来る。
「だいたいの経緯は村本から聞いております。困りますよね。アーティストの安全を守るのがなによりも大切ですから」
「仰る通りです」
「特に小岩井はね、ほらアイドル出身でしょう。熱狂的というか、まあ目に余る行動に出るファンもけっこうおりまして」
「それはもう、よく。なんといっても若手女優の人気ナンバーワンですから」
 小刻みに何度も耕平が頷いた。七菜はくちびるを噛みしめ、(うつむ)いてテーブルを見つめる。どんなに叱られようが罵倒されようが仕方がない。じぶんが招いてしまった事態なのだから。
 山崎が、こつこつと爪でテーブルを叩いた。
「ああ見えて小岩井は繊細なところがありましてね。今回の件でかなり精神的なショックを受けて、いまは食事も喉を通らないような状態ですよ」
 隣で村本が盛大に頷く。
 え、あのあすかが!? さすがにそれはないんじゃ。思わず頭を跳ね上げた七菜の足を、耕平が軽く蹴飛ばす。
「当然ですよね。あれだけの目に遭われたんですから」
「今回のドラマはうちとしてももちろんですが、なにより小岩井自身がとても気合いを入れて臨んでいましてね。なにせ初主演ですし、このドラマに賭けるという気迫がひしひしと伝わってきていました。ですので、こういうかたちで出鼻を(くじ)かれるのは、なんと言いますか……残念というか、不本意極まりないというか」
 こつこつこつ。テーブルを叩く音が七菜の耳に響く。
 確かにあすかの頑張りには並々ならぬものがあった。「このドラマに賭けている」という山崎のことばに嘘はないだろう。そんなあすかの信頼を踏みにじってしまったんだ、あたしは。心臓に無数の針を刺されたような痛みを七菜は感じる。
「本当に申し訳ありませんでした」
 耕平が、テーブルに両手をつき、再度深く頭を下げる。
「申し訳ありませんでした」
 小声で言い、七菜も首を垂れた。ふう、と山崎が大きな息をつく。
「いくらことばで謝罪されてもねぇ。誠意を見せていただかないことには、わたしとしても上を説得するのが難しいんですよね」
「誠意、と申しますと」
「それはアッシュさんが考えるべきことなのではないですか」
 山崎が鋭く言い放った。村本がまたしても盛大に頷く。
 耕平が腕を組み、眉間に(しわ)を寄せ、目を瞑って黙り込む。パーツのすべて垂れ下がった顔が泣き笑いのような表情に見える。
 誠意。七菜は必死に頭を働かせる。
 土下座すべきだろうか。でもそれでは謝罪のつづきにしかならない。もっと他になにか誠意を伝えるすべは。ああ、こういう場合、どうしたらいいんだろう。
 こつこつこつ。こつこつこつ。
 沈黙が支配する場に、爪の音だけが響く。
 こつこつこつ。こつこつこつ。
 脳内深くに音がじわりと入り込み、広がってゆく。考えがまとまらない。まとまらないどころか、思考が停止してしまう。もう七菜には、こつこつという音以外なにも感じられない。
 と、耕平がまぶたを上げ、山崎の背後を指さした。
「そちらに貼られているポスター、あれですよね、御社所属の岡本(おかもと)(ひろ)()さんが準主役で出てらっしゃる、この春公開の話題の映画……」
 半身を(ひね)り、山崎が後ろを見る。
「ああ、そうです。棚山(たなやま)監督の『ラスト・ラン』」
「じつはわたくし、試写で拝見いたしまして。岡本さんの若々しく溌溂とした素晴らしい演技に、いやあこころの底から感服いたしました」
「それはそれは。ありがとうございます」
 ずいっ。耕平が上半身をテーブルの上に乗り出した。
「いかがでしょう。今回のドラマに、岡本さんにキーパーソン役としてご出演いただく、というのは」
「キーパーソン。それはまたどんな」
 山崎の両目が光る。空咳をひとつついてから、耕平が話しだす。
「じつはですね、後半の山場に、小岩井さん演じる(たま)()の元カレが、よりを戻そうとあらわれるシーンがありまして」
 耕平のことばで、ようやく七菜は我に返った。息を呑んで耕平の横顔を見る。いま現在、そんな役もシーンもシナリオにはない。どころか原作にもいっさい存在しない。
「い、岩見」さん、と言いかけた七菜は、またしても足を蹴られてしまった。
「ほう。それはなかなか面白そうな役ですね」
 ようやく山崎の指が止まった。耕平がさらに身を乗り出す。
「悪役ではないんです。というより視聴者に好感を持たれるような役でして。環子と別れたのもお互いの誤解とすれ違いがもとで」
「なるほど。で、結論としてはやはり別れるんですか」
「いえ、ラスト近くでよりを戻します。ですからね山崎さん、もしもこのドラマが高視聴率で、続編が制作されることになれば必然的にこの元カレも登場することになるわけで」
「それはいい展開ですねぇ」
 山崎が椅子ごと背後に向き直った。
「いえね、岡本は当社としてもこれからちからを入れて売り出していきたい若手で。見た目も演技力も申し分ないんですが、いかんせんデビューしたばかりで知名度がね、いまひとつでしてね」
「もったいないですよね、こんな素晴らしい俳優さんが」
「そうか、小岩井の恋人役……そうですか……」
 椅子に背を預け、山崎が視線を上に這わせる。その姿勢のまま、たっぷり一分は考えていたろうか。やがて目を耕平に戻し、おもむろに口を開いた。
「なるほど、アッシュさんのお気持ちはよくわかりました。いまのお話を持って上と相談してみますよ。小岩井も後輩と共演するとなったらきっと気持ちも前向きになると思います。なあ村本くん」
「ええ、ええ。その通りです」
 村本が猛烈な勢いで頷く。
「山崎部長、ありがとうございます!」
 貧相なからだのどこから出たのか不思議に思えるくらいの大声で耕平が叫んだ。一連の出来事をただただあっけに取られて見ていた七菜は、みたび足を蹴られて、はっと正気に返る。
「ああありがとう、ごございます」
 舌を縺れさせながら頭を下げる。視界の端に、満足げなようすでくちびるを舐める山崎のすがたが映った。

「どうするんですか、あんなこと言っちゃって」
 ビルを出、外苑東通りを青山一丁目駅に向かって歩く耕平の背中に七菜は声をかける。相変わらず、ふらんふらんと左右に揺れる不安定な歩きかただ。
「どうもこうもねえだろ。今から大至急で変更するんだよ」
 前を向いたまま耕平がこたえる。
「で、でもシナリオにも原作にも」
「シナリオはなんとかなる。悪いがライターに頑張ってもらう。スタッフにはあらかじめ連絡しとく。問題は――」
 強い風が吹き、耕平のコートがぴらりと翻った。
「――原作、だな」
「そうですよ、無理ですよ。あの(かみ)(じょう)先生がこんな変更、許してくれるわけが」
「そこをなんとかするんだよ」
「なんとかって、いったいどうやって。だいたいどうしてこんな大事なことをいきなり」
 突然耕平が足を止めた。勢いあまって、七菜は耕平の背中にぶつかってしまう。耕平がゆっくりと振り向いた。垂れた目が射るように七菜を見つめてくる。
「時崎。おまえのやるべきことはなんだ」
「え?」
 唐突な問いに七菜は面食らう。耕平がいつもより一段低い声を発した。
「おまえが、今やらなくちゃいけないことは何だって聞いてるんだよ」
「え、あ、あの……ドラマを完成させること、です」
「そのためには?」
「え……撮影をつづけることです」
「そのためには?」
「……小岩井さんに戻って来てもらうこと、です」
「そのためには?」
「……『スケイリーン』に許してもらうことです」
「そのためには?」
 七菜は、両の拳をきつく握りしめた。
 立ち止まったふたりを避けるように、人びとが横を歩きすぎてゆく。
「……無理だとか、簡単に言うな。できない理由なんて探し出しても意味がねえ。まず動くんだよ、前だけを見て。やれることをやれ。目の前の仕事に全力で取り組め。そうしているうちに――動かねえと思ってたもんが動き出したりするもんなんだ」
 耕平の、細い目が強い熱を放つ。こんな耕平を見るのは初めてだ。なかば無意識に七菜は頷く。
「わかったら現場に行け。おれは事務所に戻って上条先生に連絡を取る。おまえはおまえのできることを精一杯やれ」
 耕平が(きびす)を返した。ひとの群れを器用にかわしながら、駅の出入り口目指していっしんに歩いてゆく。
 やれることをやれ。目の前の仕事に全力で取り組め――
 耕平のことばが頭のなかでこだまする。
 七菜は、出入り口の階段を下りてゆく耕平の背中に向かってひとつ頭を下げた。
 スマホを出し、JR信濃町駅の位置を確認してから、七菜は急ぎ足で二四六号の交差点を渡り始める。

 タクシーが到着するのとほぼ同時に、ロケバスが公民館に戻ってきた。
 厚い雲の切れ間から弱い西日が射し込んでくるなか、タクシーを飛び降りた七菜は、バスの出入り口めがけ全力で走る。
 最初にステップを降りて来たのは塾長役の(たちばな)一輝だった。七菜を認めると、おや、というように軽く右の眉を上げた。
「橘さん、今回はご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」
 膝に手をあて、直角に腰を折る。
 もともと寡黙な性質の一輝は、わずかに顔を(しか)めたあと、なにも言わずそのまま公民館へ入っていった。
 つづいて降りて来たキャストやマネージャーたちに、七菜はひたすら頭を下げる。
「お、七菜坊。もうだいじょうぶなのか」
 野太い声が響く。首にタオルを巻いた撮影監督の田村を真ん中に、矢口監督と照明の諸星が並んで立っていた。
「はい。ご迷惑ご心配をおかけしてすみません」
 さすがに今日は「七菜坊」と呼ばれても口ごたえできない。
「ますます嫁の貰い手が減るな」
 ちょんとじぶんの右の額をつついてから、田村が豪快に笑う。
「それセクハラだよ、タムちゃん」
 丸い腹を(さす)りながら諸星が横から口を挟む。
「これくらいでセクハラかよ」
「そうだよ今日び『可愛いね』って言っただけでセクハラなんだから」
「なんだよそれ。馬鹿じゃねぇの」
 くちびるを尖らせる田村を「まあまあ」と手であやしてから、
「とにかく大した怪我でなくてよかったですね、時崎さん」
 矢口が落ち着いた口調で言う。
「はい。ありがとうございます」
 七菜は素直に頭を下げた。矢口が、穏やかだが鋭い視線を七菜に投げかける。
「でも今回のようなことは二度と仕出かさないように。このチームはみんな良いひとだからよかったものの……もしも現場が違ったら……」
 そこでことばを切る。軽口を叩き合っていた田村と諸星も、いつのまにか真剣な顔で七菜を見ていた。七菜は神妙なおももちで頷く。
 矢口監督の言うとおりだ。このチームは主要キャストはじめスタッフみんな心根の温かいひとたちばかり。陰険ないじめや陰湿な雰囲気はまったくない。これがもし他のチームだったら――想像しただけで、七菜の背筋が凍る。
「肝に銘じます」
 七菜がこたえると、矢口監督がゆっくりと首肯した。
「行こうか、タムちゃん、モロちゃん」
 監督が公民館の玄関に向かって歩いてゆく。その背を諸星が追う。七菜の横を通るとき、田村がぽんぽんと軽く七菜の肩を叩いた。
 このチームのために全力を尽くそう。あたしに「帰るべき場所」を残しておいてくれたみんなのために。改めて七菜はこころに誓い、三人の後ろすがたに最敬礼をした。と、
「あれ、時崎さん、もう無罪放免ですかぁ」
 (だい)()の甲高い声が背後から降って来た。振り返る。李生と大基がちょうどバスのステップを降りてくるところだった。大基の言い草にむっとしつつも七菜はなんとか笑顔を作る。
「うん、いろいろごめんね。ありがとう」
 李生がかすかに顎を引き、なにも言わずに公民館へ入って行った。大基が最後の段をぴょんと飛び降りる。
「やっちゃいましたねー時崎さん!」
 なんだその言い方は。半分はおまえの責任だろうが。こころのなかで七菜は叫ぶ。
「ほんとにね。これからは気をつけようね、お互い」
 お互い、にちからを込めて言い返す。大基がぽかんとした顔をした。
「はあ? てか、おれなんも悪くないっすよ。見逃したのは時崎さんの責任でしょ」
 のほほんとしたもの言いに、七菜の頭でばちんとなにかが弾けた。
「あのねえ、平くん」
 言い募ろうとしたそのとき。
「なにやってるの二人とも! 早く仕事に戻りなさい」
 頼子の、澄んだ声が(とどろ)いた。振り向くと、仁王立ちになった頼子が両腕を組み、玄関先に立っていた。
「ふぁーい」
 大基がそそくさとその場を離れる。七菜は頼子のもとに走り寄る。
「頼子さん、あたし、あの」
「だいたいのことは岩見さんから電話で聞いたわ。いいから七菜ちゃんはロケ飯作りを手伝ってちょうだい」
「え? この時間に、ですか?」
 驚いて聞き返す。すでに四時を過ぎているはずだ。頼子が軽く頷いた。
「今日は午後からの撮影だったから、ロケ弁を夜に回したの」
「あ、そか。はい」
 歩き出した頼子の横に並ぶ。
「体調はどう? 怪我は平気なの」
「大丈夫です。傷もほとんど痛みません」
「そう……よかった」
 頼子の声に、ほっとしたような響きが混じる。
 動き回るスタッフをよけながら廊下を進んでいく。控え室の八畳間を過ぎ、メイク部屋の前まで来た。ちらりと視線を飛ばすと、一輝の髪を整えている愛理と鏡越しに目が合った。愛理のくちびるが素早く動き、声には出さずに「ごめんね」と伝えて来た。七菜は笑顔で首を振る。愛理さんのせいじゃない。じぶんの管理不行き届きだもの。
 その先、給湯室から、スパイスのよい香りがぷぅんと漂ってきた。オリーブオイルで炒めたにんにくの、食欲をそそる匂いも混じっている。
 七菜はコンロにかけられた寸胴鍋(ずんどうなべ)を覗きこんだ。かりっと炒めたにんにくと刻んだ唐辛子、それに適度に脂ののった牛肉が真っ赤なスパイスをまとって鍋のなかに収まっている。
「頼子さん、にんにく……」
「今日のキャストは男性ばかりだから、少しくらい入れてもいいかなと思って」
「献立はなんですか」
「チリビーンズスープ」
 頼子がガスのスイッチを捻った。鍋がじゅうじゅうと小気味のよい音を立て始める。頼子が葉を取りよけたセロリの束を指さした。
「七菜ちゃん、セロリの筋を取って。それから一センチ角に刻んでくれる? それが終わったら玉ねぎ。できるだけ同じ大きさに切ってね」
「はい」
 七菜の横で、頼子はピーマンを刻み始めた。相変わらずスピーディでテンポがよい。時おり長い木べらで鍋を()き回しては、こまめに火加減を調節している。
 セロリを切り終わり、七菜は皮を剥いた玉ねぎに取り掛かる。野菜をすべて刻み終えると、ピーマンだけを抜いて、頼子はセロリと玉ねぎを鍋に投入した。火を強め、全体をぐるっと回すように炒め合わせる。
「ピーマン、入れないんですか」
 不思議に思って尋ねると、
「火を通し過ぎるとピーマンは色が悪くなるし、歯ごたえもなくなっちゃうからね。最後に入れるのよ」
 明快な返事が返って来た。つづけて頼子は目で調理用に持ち込まれた長机を指し示す。
「七菜ちゃん、チリパウダーの袋取って」
「はい」
 業務用の大袋を頼子に手渡す。長机の上にはほかに大小合わせて二十個ほどの缶詰と、オレガノ、バジルの袋が置いてあった。
 チリパウダーを受け取った頼子は、袋の口を開け、中身をざっと鍋に回し入れた。焦げつかないようにだろう、木べらを忙しく前後左右に動かす。
「もう入ってますよね、チリパウダー」
「さっきのは味を素材に()み込ませるためのもの。いま入れた分はさらに香りとコクを出すため」
「これは最後じゃないんですか」
「スパイスは炒めたほうが香りが立つの。チリだけじゃなく、カレーや麻婆豆腐なんかにも炒めてから使うといいわよ」
 なるほど、ピーマンは炒め過ぎない、逆にスパイスはしっかり炒めるのか。七菜は感心して頷いた。
 頼子がいったんガスの火を消した。長机に並べた十缶ほどのトマトの水煮缶を木べらで指す。
「蓋開けてどんどん渡してくれる?」
「これ全部ですか?」
「そう」
 開けたそばから頼子に手渡すと、勢いをつけてトマトの水煮を鍋に放り込んでいく。トマトをすべて入れ終えると、ふたたびガスの火を点けた。木べらで掻きまわさずに強火で一気に加熱する。
「焦げちゃいませんか」
 心配になって尋ねると、鍋を(にら)んだまま頼子がこたえる。
「沸騰する直前までは大丈夫。こうやって火を入れるとトマトの赤が鮮やかになるのよ」
 またまた知らなかった事実だ。いったいどうやって頼子はこんな知識を身につけたのだろう。
 トマトがふつふつと煮立ち始める。ようやく頼子は木べらを動かし始めた。
「次はマッシュルーム缶。あ、缶の汁は捨てないでね。鍋に入れるから」
「え、なんで」
「いいお出汁(だし)が出るのよ」
 頼子は渡されたマッシュルーム缶を、これまた景気よく鍋に入れていく。マッシュルームの次は大豆の水煮缶。これはしっかり水を切るように言われた。トマトの残り缶に張った水を入れ、コンソメとローリエを加える。火を中火に落とし、お玉で浮いてきたあくを(すく)う。掬い終えるとさらに火を弱め、鍋に蓋をした。満足げに頼子が頷く。
「あとは野菜が柔らかく煮えるのを待つだけ」
「え、バジルとオレガノは?」
「これはピーマンと一緒に最後に。沈まず、表面に浮くようにね」
 よっこらしょ。声を上げて椅子に座ってから、頼子が苦笑した。
「やあね。おばさんみたい。というかおばさんだけどね」
「頼子さんはおばさんじゃないですよ。永遠のお姉さんです」
 お追従でもなんでもなく、本心から七菜は言う。頼子がかすかにほほ笑んだ。この二日間の騒動で疲れているのだろうか、目の下にうっすら(くま)が浮き、肌も荒れている。
 あたしのせいだ。隣の椅子に腰かけながら七菜は思う。あたしがいっぱい心配かけちゃったから、頼子さん疲れて――
 謝ろうと向き直ったとき、長机に置いた頼子のスマホが震えだした。すかさず頼子が手を伸ばし、タップする。
「はい……あ、はい……はい、はい」
 こたえながら、ちらりと七菜を見た。数度、あいづちを打ってから七菜にスマホを差し出す。
「岩見さんからよ」
 受け取り、耳にあてる。
「代わりました、時崎です」
「上条先生に連絡ついたぞ」
 挨拶もなにもなく、耕平が用件を切り出した。どくんと七菜の心臓が跳ねる。
「あ、はい。それで」
「会ってくださるそうだ。明後日三時に赤坂の先生の事務所。時崎ひとりで来いと先生のご指名だ」
「え? あ、あたしひとりですか」
「ああ。おれも行くと言ったんだが」
「あたしなんかがひとりで伺っていいんでしょうか」
 不安が声に滲み出てしまう。ピーマンを鍋に入れていた頼子が、目だけでこちらを見た。
「先方がそう言うんだから仕方ねぇだろう。ずいぶん気に入られたようだな、え? 時崎」
「はあ……」
 嬉しさ半分、心細さ半分で七菜はこたえる。
「とにかく誠心誠意、先生の説得に努めろ。ヘマすんじゃねぇぞ。明日にでもライター入れて具体的な打ち合わせをしよう。また板倉(いたくら)に連絡する。じゃあな」
 言うだけ言って電話は切れた。大きく息をついてから、七菜はスマホを長机に戻す。
「ひとりで行くの、七菜ちゃんが」
 おたまで全体を掻きまわしながら頼子が問う。
「……はい。正直、気が重いです」
 真っ赤なスープに目を落として七菜はこたえる。
「いいじゃない。それだけ先生の信頼が厚いってことよ」
 七菜は無言で俯いた。先生の気持ちは嬉しいし、なによりありがたい。頭ではわかっている。わかってはいるのだが。
「しっかりしなさい。失敗を挽回する絶好のチャンスじゃないの」
 頼子がすっと視線を七菜に投げる。プラスチックのカップを取り、ひと混ぜしたチリスープをはんぶんほどよそう。
「できた。味見してみて」
 スプーンとともに差し出されたカップを受け取る。表面に浮いたバジルとオレガノの香りが鼻腔をくすぐる。赤いスープにピーマンの緑があざやかだ。
「いただきます」
 七菜はスプーンで掬ったスープに息を吹きかけてから、口に含んだ。トマトの甘みと酸味に、チリパウダーの辛味が絶妙に絡む。大豆は舌でつぶせるほど柔らかい。朝からほとんどなにも食べていない胃に、スープの温かさが沁みわたる。ほどよい辛さとあいまって、食べればたべるほど食欲がわいてくる。口にしてすぐには感じなかった辛さが、あとから追いかけて来、額にぷつぷつと汗が浮いてきた。
「美味しいです。この辛さがちょうどいいアクセントになってて」
 すべて平らげ、頼子に告げる。
「どう? すこしは頭がしゃっきりした?」
「はい」
「よかった。気持ちを切り替えるのに、スパイスはとても役立つからね」
 頼子が顔じゅうに笑みを浮かべる。
 ようやく七菜は気づく。誰のためでもない、じぶんのために、今日頼子はこのスープを作ってくれたのだと。

 

【次回予告】

現場に復帰し、チームのメンバーにも平謝りの七菜。現場で頼子の作るロケ飯はやはり温かく、美味しい。トラブルの処理のため、いよいよ上条朱音に面会できる機会を掴んだ七菜だったが、どんな展開が待ち受けるのか!?

〈次回は4月3日頃に更新予定です。〉

プロフィール

中澤日菜子(なかざわ・ひなこ)

1969年東京都生まれ。慶應義塾大学文学部卒。2013年『お父さんと伊藤さん』で小説家デビュー。同作品は2016年に映画化。他の著書に、ドラマ化された『PTAグランパ!』、『星球』『お願いおむらいす』などがある。

<中澤日菜子の「ブラックどんまい!」連載記事一覧はこちらから>

初出:P+D MAGAZINE(2020/03/27)

藤田 田『ユダヤの商法 世界経済を動かす』/47年の時を経て、読み継がれるベストセラー
芥川賞作家・花村萬月が書き下ろし! 新感覚時代小説【くちばみ 第19回】