仕事をするうえで、本当に大切なことに気がついた七菜は、迷うことなく歩み出した! 【連載お仕事小説・第15回】ブラックどんまい! わたし仕事に本気です

燃えるお仕事スピリットが詰まった好評新連載、第15回。主人公の七菜(なな)は、いつも仕事に全力投球! 尊敬する上司・頼子の心のこもった温かい手料理を食べた七菜は再び動き出した! 朱音の怒りを解く方法を考えながら歩いていると、映画館の前にたどり着く。そこで観た一本の映画に感銘を受けた七菜は、迷うことなく“ある場所”へと向かった!

 

【前回までのあらすじ】

トラブル解決のため朱音のサイン会に駆けつけた七菜だったが、決死の行動も空振りに終わってしまった。なんとか帰宅するも、家に来ていた恋人・拓と仕事の話を巡り大喧嘩に……! 何もかもがうまくいかない七菜。そんなとき部屋のチャイムが鳴り、玄関の扉をあけるとそこには頼子がいて……。

 

【今回のあらすじ】

動く気力を取り戻した七菜は、どうしたら朱音の怒りを解くことができるかだけを考え歩いていると、映画館にたどり着いた。とある1本の映画を観て、「大切なこと」に気づかされる。そして、七菜が迷わず向かった場所とは……?

 

【登場人物】

時崎七菜(ときざき なな):テレビドラマ制作会社「アッシュ」のAP(アシスタントプロデューサー)、31歳。広島県出身。24歳で上京してから無我夢中で走り続け、多忙な日々を送っている。

板倉頼子(いたくら よりこ):七菜の勤める制作会社の上司。チーフプロデューサー。包容力があり、腕によりをかけたロケ飯が業界でも名物。

小岩井あすか(こいわい あすか):撮影が進行中のテレビドラマの主演女優。

橘一輝(たちばな いっき):撮影が進行中のテレビドラマの主演俳優。

佐野李生(さの りお):七菜の後輩のAP。26歳で勤務3年目。

平大基(たいら だいき):七菜の後輩のAP。今年4月入社予定の22歳の新人。

野川愛理(のがわ あいり):メイクチーフ。撮影スタッフで一番七菜と親しい。

佐々木拓(ささき たく):七菜の恋人。大手食品メーカーの総務部に勤めている。

上条朱音(かみじょう あかね):ドラマ『半熟たまご』の原作者。数々のベストセラーを持つ小説界の重鎮。教育評論家としても名高い。

岩見耕平(いわみ こうへい):チーフプロデューサー。七菜の上司。

 

【本編はこちらから!】

 

日の暮れた街を七菜は歩く。空気は肌を刺すように冷たいけれど、縺れきった思考をしゃっきりさせてくれる。目的地は決めずに、ただひたすら歩いてゆく。
 どうしたら朱音の怒りを解くことができるだろう。あたしにできることはなんなのだろう。
 人ごみをすり抜けながら、七菜は考えつづける。さまざまな思いが泡のように浮かんでは消える。
 見覚えのある建物が目に入り、七菜は足を止めた。
 クリーム色の壁、うねりをつけた屋根。よく通った早稲田松竹、単館系の映画館だった。いつの間にか中野から早稲田まで歩いてきてしまったらしい。
 映画かぁ。もうずいぶん見てないや。
 吸い寄せられるように窓口へ行き、なにがかかっているか確かめもせずにチケットを買い、場内に入った。ひとつしかないスクリーンはすでに上映が始まっており、七菜はなるたけ気配を殺して最後列の席に座った。銀幕の映像を追い始めてすぐに七菜は気づく。
『ライフ・イズ・ビューティフル』だ、これ。
二十年ほどまえ公開されたイタリア映画。ナチスドイツに迫害され、強制収容所に入れられた親子三人の物語。いたく感動した叔父に小学生のころDVDで見せられたっけ。そのときはどこがいいのか、いまひとつわからなかったけれど、上京したあとたまたま入った映画館で「再会」して、あまりの素晴らしさに終わったあとしばらく席を立てなかった。
懐かしさの混じった気持ちでスクリーンを眺めているうちに、やがて七菜はすべてを忘れ、映画の世界に没入してゆく。
ラスト近く、ナチス兵に銃を突きつけられる父親のグイド。息子であるジョズエを怯えさせないよう、グイドはお道化たように振舞うが、ナチス兵によって銃殺されてしまう。砂ぼこりとともにあらわれる連合軍の戦車に乗せられ、母と再会するジョズエ。最後の最後に映し出される文字――『これが私の物語である』
気づくと、七菜は泣いていた。
エンドロールの流れる薄暗い映画館のなか、とめどなく流れる涙が七菜の頬を濡らす。
そう、この映画を観るたび、あたしは勇気をもらった。生きていくちからをもらった。明日を信じ、歩いていけと背中を押してもらった。この映画に出会えてよかった。この映画が生まれてきてくれて、ほんとうによかった――
 そう感じた瞬間、七菜は心臓を太い杭で打ち抜かれたような衝撃を受ける。
 この映画を観て、生きる希望をもらったひとはあたしだけではないはずだ。きっと世界中で何万、いや何十万ものひとびとが涙し、出会えてよかったと思ったはずだ。
そしてそれは『半熟たまご』も同じではないのか。
あのドラマが完成し、無事放映されたとき、きっとこころを揺さぶられる視聴者がいるはずだ。わが身を重ねるひともいるだろう。いままで生きてきた世界が違って見えてくるひとだっているかもしれない。大切なのは『半熟たまご』が、この世に生まれ出ることなのだ。あたしがドラマに関わること、それは視聴者にとってどうでもいいことなんじゃないのか。『半熟たまご』を作りたい、その気持ちに嘘はない。けれどそれはあくまでも、あたしのエゴなのではないだろうか。
 本当に大事なことを見失ってはいけない。
 じぶんの幸せと、ドラマの完成をごっちゃにしてはならない。
 いまあたしが守り抜かなくてはならないもの、その原点に立ち返れ――
 七菜のこころに、ちいさな灯がともる。やがて灯は明るさを増し、淀んだ闇を消し去ってゆく。
エンドロールが終わり、客席が明るくなる。観客が次つぎ席を立つ。両足にちからを込めて七菜も立ち上がる。踏み出した一歩に、もう迷いはなかった。

 いまにも雪がちらつきそうな厚い雲の下、七菜は朱音のマンションから道路一本隔てたビルの前で、気配を殺して佇んでいる。まだ昼前というのにあたりは夕方のように薄暗い。
 スマホを眺めるふりをしながら立つ七菜の前を、チワワを抱いた老婦人が横切る。なにごとかチワワに話しかけながら老婦人はマンションのガラス戸を引き開けた。七菜はビルから離れ、すばやく彼女の背後についた。オートロックに鍵を差し込んだ老婦人が、ちらりと七菜を見る。怪しまれないよう、七菜は親しげな笑みを浮かべた。
 居住者だと思ったのだろう、老婦人が笑みを返して来、鍵を回す。開いたドアを彼女につづいてくぐる。エレベーターで八階まで上り「オフィス上条」の前に立った。
 どうか先生がいますように。
 右手を心臓の上にあて、目をつむって祈る。
 不思議と緊張はしていなかった。不安も焦りもない。まるで凪いだ湖のように、こころはどこまでも平らかだった。
 チャイムを押す。ややあってから、朱音の低いひくい声がインターフォンから流れてくる。
「……警察を呼ぶって言ったはずよね、確か」
 いた! よかった! 七菜はインターフォンにぐっと顔を寄せる。
「ご無礼を承知で伺いました。これが最後です。お会いしてくださったら、もう二度と一生先生の前にはあらわれません」
「帰って! 話すことなんかなにもないわ!」
「お願いします! 十分、いえ五分で構いません」
「警察を呼ぶわ」
「先生!」
 かちり。通話の切れる音が廊下にこだまする。
 やはり無理だったか。七菜はくちびるをきつく噛みしめる。どうしよう。このまま退散すべきだろうか。ほんとうに警察を呼ばれたら、ますます会社に迷惑をかけてしまう。七菜のこころに迷いが兆す。
でも、でもでも。これが最後の手段なのだ。じぶんにできることは、もうこれしか残っていないのだ。
覚悟を決め、再度チャイムに腕を伸ばす。と、ほぼ同時にドアが開いた。驚いて身を引く。ドアのすき間から、聖人の青白い顔が見えた。
「……上条さん」
「……お入りください。五分だけなら、と母が申しております」
「もしかして上条さんが先生を」
 七菜と視線を合わせないまま、聖人がかすかに頷いた。
「ありがとうございます!」
「いいから、早く」
 聖人にかされ、七菜はドアをくぐった。広い玄関ホール、そのど真ん中に、両手を腰にあて、瞳を怒りで輝かせた朱音が立っていた。
 顔を伏せたまま聖人がそっと七菜の脇を通り、朱音の背後に回る。朱音が、すうっ、鼻から息を吸い込んだ。
「――ほんとうにこれが最後よ」
 真正面から七菜を見据えてくる。朱音の鋼のような視線を七菜はまっすぐに受け止める。背を正し、直立不動の姿勢で七菜は口を開いた。
「このたびはわたくしの不始末でご迷惑をおかけし、本当に申し訳ありませんでした」
 腰を深くふかく折る。
「しつこいわね。詫びならもう聞き飽きたわ。帰って」
 七菜の頭上を、朱音の冷たい声が通り過ぎてゆく。七菜はゆっくりと顔を上げた。
「いえ、今日伺ったのはお詫びのためだけではありません。上条先生、わたくしは――」いったんことばを切り、乾いたくちびるをそっと舐めた。固めた決意を腹の底から押し出してゆく。
「――わたくしはアッシュを辞めます。今後いっさい『半熟たまご』には関わりません。もちろんほかの制作会社にも勤務いたしません。ドラマの制作現場から永久に去ろうと思っております」
 朱音のまぶたがぴくりと震えた。聖人の息を呑む気配が伝わってくる。朱音の目を見つめたまま七菜はつづける。
「『半熟たまご』は素晴らしいドラマです。先生の原作が優れていらっしゃることがもちろん最大の要因ですが、現場のスタッフもキャストもみなこの作品を愛し、全力を傾けて撮影に取り組んでおります。完成し、放映された暁には、きっと視聴者のこころをがっちり掴んで離さないでしょう。こんな魅力に充ち溢れた作品を、たったひとり、わたくしのせいでなかったことにはしたくないのです。だから先生、どうか撮影をつづけさせてください。『半熟たまご』を世に出させてください。この通りです、お願いいたします」
 七菜は膝をつき、両手をそろえて額を三和土に擦りつけた。冷たく硬い石の感触が、すねから手から、そして額から伝わってくる。
沈黙が場を支配する。朱音の荒い呼吸だけが耳に届く。
「……辞めるって……本気ですか、時崎さん」
 かすれた声で聖人が問う。
「はい。辞表も書いて参りました」
「でも、前に言ってましたよね。『仕事にやりがいを感じている』って。『ほんの少しでも誰かのこころを動かすことができたら幸せだ』って」
「その通りです」
「それなのに」
「それだからこそ、なんです」
 聖人が押し黙る。ややあって、細いが芯の通った声を発した。
「……母さん。ここまで言ってるんだ。許してあげたら、もう」
「まあちゃんは黙ってて」
「いや黙らない」
「まあちゃん」
 朱音が驚いたように言う。かすかに顔を上げて七菜はふたりを見上げた。聖人の白い頬にわずかな赤みがさしている。瞳にちからを込め、朱音をしっかりと見返していた。
「……部外者のぼくが口を出すべき問題ではないことくらいわかってる。でも……時崎さんの仕事にかける情熱をぼくは素晴らしいと思う。尊敬に値すると、思うよ」
 朱音の眉間に深い皺が寄っていく。長いまつ毛が震える。
ひとつ大きく息を吸ってから、聖人がつづける。
「その情熱を踏みにじってはいけない。熱意を無にしてはならない。わかるはずだよ、母さんなら。だって……時崎さんと同じ『ものを生み出すひと』じゃないか、母さんは……」
 朱音に正対したまま、聖人がひと言ひとことを空に刻み込むように告げる。そんな聖人を、朱音が瞬きもせずに見つめている。思いもかけぬ展開に、七菜はついていくのが精いっぱいだ。
 朱音が聖人から視線を外し、七菜に向き直った。あわてて顔を伏せる。
「……そこまでこの作品を愛しているのね」
「はい」
「だったらなぜ、辞めるなんて言えるの?」
 伏せていても届くように、七菜は精いっぱい声を張る。
「わたしがいなくてもドラマは完成します。逆にわたしが関わることでドラマが中止になるなら、わたしは去ったほうがいい。ようやくわかったんです、ほんとうに大切なことはなんなのか、が」
「ほんとうに大切なこと?」
「大切なのはわたしの自己満足じゃない。『半熟たまご』が完成すること、その一点だということが――」
 ふたたび沈黙が降りてくる。濃密で、呼吸すらはばかられるような、沈黙。
「……顔を上げなさい」
 どれほどの時が経っただろうか。沈黙を破って、朱音が告げる。七菜は恐るおそる額を三和土から離した。心臓を射貫いぬくような鋭い朱音の視線。
「……わかりました。あなたの熱意に免じて、原作の引き上げは撤回しましょう」
「母さん」
「ありがとうございます!」
「ただし! ひとつだけ条件があります」
「条件?」
「――会社を辞めず、最後の最後までちからをつくし『半熟たまご』を立派に完成させること。いいわね?」
 朱音のことばがゆっくりとこころに沁み渡ってゆく。七菜は無我夢中で頷いた。
 硬い氷が溶けるように朱音の視線が緩む。
 聖人のくちびるがわずかに開き、真っ白な歯が覗く。初めて見る、聖人の笑顔だった。

 

【次回予告】

原作引き上げを撤回してもらうことに成功した七菜。ドラマの撮影は再開され、朱音からは心からの信頼を寄せられるまでになっていく。恋人・拓とも和解の兆しが見え、全てが順調に進んでいたそんな最中、突然、頼子の様子が……。

〈次回は5月1日頃に更新予定です。〉

プロフィール

中澤日菜子(なかざわ・ひなこ)

1969年東京都生まれ。慶應義塾大学文学部卒。2013年『お父さんと伊藤さん』で小説家デビュー。同作品は2016年に映画化。他の著書に、ドラマ化された『PTAグランパ!』、『星球』『お願いおむらいす』などがある。

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初出:P+D MAGAZINE(2020/04/24)

◇自著を語る◇ 上田秀人『勘定侍 柳生真剣勝負〈一〉 召喚』
【著者インタビュー】又吉直樹『人間』/喜劇にも悲劇にもなれる“状態”を書く