「仕事辞めて結婚しようと思う」。七菜の考えに既婚者の愛理は激怒して……!? 【連載お仕事小説・第28回】ブラックどんまい! わたし仕事に本気です
燃えるお仕事スピリットが詰まった好評連載、第28回。主人公の七菜(なな)は、いつも仕事に全力投球! 朱音の事務所をあとにした七菜は、取引先へ謝罪に行くため都内をかけずり回っていた。多忙な1日を乗り切った七菜はメイクチーフの愛理と会うことになった。限界を感じていた七菜は「辞めようと、思うんだ」と胸の内を明かすが……!?
【前回までのあらすじ】
大麻パーティーに行ったが“吸ってない”と証言した聖人は、本当にやりたかったことを隠し、母である朱音に言われるがままの人生を送ってきた。そんな聖人の本当の気持ちを初めて聞いた朱音は、ずるずると床に崩れ落ちてしまい、七菜に謝罪する憔悴ぶり。自分にできることは何もないと悟った七菜はその場を立ち去った。
【今回のあらすじ】
朱音の事務所をあとにした七菜は、取引先へ謝罪に行くため都内をかけずり回っていた。精神的にもすり減った七菜のもとにメイクチーフの愛理から連絡があり、会うことに。仕事を辞めて、恋人・拓と結婚しようと、胸の内を明かした七菜だったが、愛理は激怒して……!?
【登場人物】
・時崎七菜(ときざき なな):テレビドラマ制作会社「アッシュ」のAP(アシスタントプロデューサー)、31歳。広島県出身。24歳で上京してから無我夢中で走り続け、多忙な日々を送っている。
・板倉頼子(いたくら よりこ):七菜の勤める制作会社の上司。チーフプロデューサー。包容力があり、腕によりをかけたロケ飯が業界でも名物。
・小岩井あすか(こいわい あすか):撮影が進行中のテレビドラマの主演女優。
・橘一輝(たちばな いっき):撮影が進行中のテレビドラマの主演俳優。
・佐野李生(さの りお):七菜の後輩のAP。26歳で勤務3年目。
・平大基(たいら だいき):七菜の後輩のAP。今年4月入社予定の22歳の新人。
・野川愛理(のがわ あいり):メイクチーフ。撮影スタッフで一番七菜と親しい。
・佐々木拓(ささき たく):七菜の恋人。大手食品メーカーの総務部に勤めている。
・上条朱音(かみじょう あかね):ドラマ『半熟たまご』の原作者。数々のベストセラーを持つ小説界の重鎮。教育評論家としても名高い。
・岩見耕平(いわみ こうへい):チーフプロデューサー。七菜の上司。
【本編はこちらから!】
夜七時過ぎ、七菜は中野駅に戻ってきた。重い足を引きずりながら自宅へと向かう。
ロケ先、出版社、キャストの事務所。午後じゅう七菜は謝罪のため都内を走り回った。
七菜たちの気持ちを汲み、同情的に迎えてくれるところもいくつかは存在したが、多くの関係先で露骨な嫌味や叱責、さらには感情的な怒りをぶつけられた。
仕方のないことだとはわかっている。今回の件で、みな多大な損失を受けているのだ。けれども厳しい対応の数々は、疲弊しきったこころを粗いやすりみたいに深く削り取り、七菜の消耗は激しくなるばかりだった。
疲れた。もう、疲れた。
その一念が全身を支配する。その思いと対になるように、拓の笑顔が目の前にちらつく。
自宅まであと数分というあたりでスマホが振動を始めた。ディスプレイには「愛理さん」の文字が浮かんでいる。
「……はい」
「七菜ちゃん? もう家?」
愛理の気遣わしげな声が聞こえてくる。
「まだです。でもあと少し」
「そっか。あのね、いまあたし中野にいるの。ほんの少しだけ部屋に行ってもいいかな」
つかの間、七菜は
七菜のこころを推し量ったのだろう、愛理の声が低くなる。
「無理しなくていいよ。七菜ちゃんのいいほうで」
ひとり、暗い部屋に閉じこもるより、愛理と話したほうが気がまぎれるかもしれない。
「だいじょうぶです。来てください」七菜がこたえると、
「ありがとう。じゃこのまま向かうね」言って、愛理が通話を切った。
自宅マンションの前に着く。ほぼ同時に、反対方向から愛理が小走りで近づいてきた。肩に大きめのトートバッグをかけ、両手に重そうなコンビニの袋を提げている。
愛理のさきに立って階段を上り、部屋の鍵を差し込む。ドアを開けると、一日じゅう閉め切った部屋の淀んだ空気が外に流れ出した。ソファを愛理に勧め、七菜自身はラグに直接座り込む。腰を落ち着けたとたん、疲労感がどっと押し寄せてきた。もうなにをするのも億劫だった。
「ごめん、愛理さん、お茶出したいんだけど」
「あ、だいじょうぶ。買ってきたから」
七菜の状態を予想していたかのように、愛理はレジ袋から次つぎと品物を取り出してテーブルに並べ始めた。
「飲む? ビールとサワー、それにハイボールも買ってきたよ」
「ありがとう。でもやめとく。このあとまだ仕事あるから」
「じゃあ温かいお茶は? コーヒー、カフェラテ、あと甘いもの」
チョコレートの大袋をどん、と、置く。
「疲れたときには甘いものがいちばんだよ」
「ありがと、こんなにたくさん。愛理さん、忙しいのに」
「全然平気。撮影ないから暇だし」
言ってしまってから、はっと口もとに手をあてた。七菜は俯いてつぶやく。
「……ごめんなさい。仕事、なくなっちゃって」
「違うの、そういう意味じゃないの。こっちこそごめん、よけいなことを、つい」
あわてたように何度も小刻みに手を振った。これ以上愛理に気を遣わせたくなくて、七菜はテーブルの上からカフェラテを取り上げる。
「これ、いただくね」
明るい声で言い、キャップを回す。ほっとしたように愛理が頷いた。
「……大変だったでしょ、今日は」
緑茶に手を伸ばしながら愛理が尋ねる。甘いカフェラテをひと口、飲み下してから、七菜は今日一日のことをぽつぽつと愛理に語った。
愛理がソファを滑り降り、七菜の横に座った。
「よくがんばったね、七菜ちゃん。えらい、えらいよ」
愛理の手が、七菜の背中をゆっくりと上下に擦る。
「辞めようと、思うんだ」
ぽろりと転がり出たことばに、じぶんで驚いてしまう。話すつもりはなかった。けれどもこころの奥底では、誰かに聞いて欲しかったのかもしれない。
「え」
愛理の手が一瞬止まった。だがすぐにまた動き始める。
「辞めるって仕事を?」
「……うん。いまのままじゃ辛すぎて……あたし……」
「……そっか」
横に座った愛理が、なにごとか考えている気配が漂ってくる。ふたり、無言のまま、幾ばくかの時が流れた。
「辞めて、どうするの?」
沈黙を破って愛理が問いかける。
「結婚しようと思う」
「結婚て、拓ちゃんと?」
七菜は首をかくんと折った。愛理なら理解してくれると思った。拓のことをよく知っていて、なおかついまの七菜の状態を把握している愛理なら。
愛理の手がふたたび止まる。すっと七菜の背中から離れてゆく。
「……ふざけるんじゃないわよ」
低く掠れた愛理の声に、七菜は驚いて顔を上げる。愛理の顔に、先ほどまでの温かさはなかった。強張った頬、綺麗なカーブを描く眉がすっと吊り上がっている。きついまなざしが七菜の目を射る。
「愛理さん」
「それって逃げるってことだよね。仕事から結婚に逃げるってことだよね」
七菜は頷くしかない。愛理のまなざしがますます硬質な光を帯びる。
「七菜ちゃん、なんか誤解してない? 結婚すればすべて解決すると思い込んでない?」
「それは」
「だとしたら大間違いだよ。結婚はゴールじゃない。どころか新しい葛藤や苦しみのスタートなんだよ」
「でも愛理さん、幸せそうじゃない。優しい旦那さんと可愛い子どもに囲まれて」
「はた目にはそう見えるかもしれないね。でもいくら結婚したとはいえ、夫はしょせん他人なんだよ。些細なことばに傷つくこともあれば、互いの意見がぶつかって怒鳴り合いになることもある。付き合っていたときには見えなかった面が、ぽろぽろぽろぽろ飛び出して……こんなはずじゃなかったって何度、いや何十度思ったことか。子どもだってそうだよ。もちろん愛してはいるけれど、言うことを聞かないときや泣き喚いて手のつけられないとき、こっちが泣きたくなってしまう。実際何度も泣いたよ。なんで、なんでこんな目に遭うの、あたしがって」
たたみかけるような愛理のことばに、七菜はただ黙って聞き入るしかない。
愛理がふっと七菜から視線を外した。髪を掻き上げながら、空の一点を見つめる。
「それにね七菜ちゃん。仕事と違って家族からは簡単には逃げられない。どんなに辛くても、相手を憎く思ってもその場にとどまるしかないときがある。苦しさやしんどさを共有しながら、ね」
「……家族なのに?」
「違うよ、七菜ちゃん」
愛理がゆっくりと首を振る。
「家族だからこそ、なんだよ。それからね……」
愛理が視線を七菜に戻した。切りつけるような表情はいくらか和らぎ、代わって大きな瞳に
「……逃避のための結婚って、結局はうまくいかないものだよ。きっと後悔することになる。そういう友だちを何人も見てきた。言っておくけど拓ちゃんと結婚することじたいに、あたしは反対してるわけじゃない。ただ、本気で拓ちゃんを愛しているのなら……いまのような状態で決めないほうがいいと思うの。いつもの前向きで明るく、笑っている七菜ちゃん、そんな七菜ちゃんに戻ってから、決めるべきだと思う」
いつものあたし。前向きで笑っているあたし。
七菜は愛理のことばを
「……そんなあたしに、いつ戻れるのかなぁ」
腰を落としたまま、ぼうっと中空を眺めた。愛理が無言で七菜を見つめる。
「……逃げ出すことができないなら、しばらくはこんな生活がつづくんだよね。謝っては怒られて、事態の始末をつけるために駆けずり回って。なにも生み出さない、ただただ消耗するだけの仕事が……」
こころのなかに黒くて厚い雲が広がってゆく。絶望感があらためて込み上げる。沈んだ声で愛理がつぶやいた。
「きついことを言ってごめん。でもね……口先だけで『結婚おめでとう。これで幸せになれるよ』なんてあたしには言えない」
「……わかってるよ、愛理さん」
七菜がこたえると、愛理はくちびるを噛みしめ、かすかに頷いた。
テレビでもつけたのだろうか、隣の部屋からにぎやかな音楽とひとの笑い声が漏れ聞こえてくる。
どこかの部屋で電話が鳴りだし、しばらく鳴ってからふいに消えた。
「……なんとかして放映できないかなぁ」独り言のように愛理がつぶやく。「そうすれば一気に問題は解決するのに」
「無理だよ。局側が正式に中止と決めたんだもの」
「それはわかってる。でも不祥事を起こしたのは出演者じゃないでしょ。そもそも吸ってないんだし」
「出演者ならまだよかったのにね。出演シーンのカットとか再撮で乗り切れたかも」
「……出演者じゃない……原作者の息子が起こした不始末。そこを逆手に取ったなにか……」
愛理が考え込む。
それは七菜も何回も考えたことだった。放映中止を回避する、これぞという決定的なアイディア。けれども結局何も思いつかないまま今日まで来てしまった。
と、玄関のチャイムが鳴った。七菜は重い腰を上げ、インターフォンのディスプレイを覗きこむ。宅配業者の制服を着た男性が映っている。
荷物? 頼んだ覚えはないけど。母がなにか送ってきたのだろうか。
訝しく思いつつ、七菜は玄関のドアを開けた。男性が両手でようやく抱えられるくらいの大きな段ボール箱を抱えて立っていた。まだ夜は寒いというのに、額から大量の汗を流している。
「時崎さんですね。ハンコかサイン、お願いします」
差し出された伝票にサインをすると、男性が「よっこらしょ」と声を上げて段ボール箱を上がり
「ありがとうございましたぁ」
一礼し、駆け足で廊下を去って行く。
なんだろう、これ。七菜は段ボール箱をよく見ようと屈み込む。箱の側面に「アタカ食品」という文字とロゴマークが書かれてある。
【次回予告】
恋人・拓の務める「アタカ食品」から届いた段ボールに入っていたのは……!? 100人前はあるであろう差し入れの調理法に悩んだ七菜は3週間ぶりに頼子に会いに向かうのだった!
〈次回は7月31日頃に更新予定です。〉
プロフィール
中澤日菜子(なかざわ・ひなこ)
1969年東京都生まれ。慶應義塾大学文学部卒。2013年『お父さんと伊藤さん』で小説家デビュー。同作品は2016年に映画化。他の著書に、ドラマ化された『PTAグランパ!』、『星球』『お願いおむらいす』などがある。
<中澤日菜子の「ブラックどんまい!」連載記事一覧はこちらから>
初出:P+D MAGAZINE(2020/07/24)