▽▷△超短編!大どんでん返しExcellent▼▶︎▲ 辻堂ゆめ「旧友の取り調べ」

壁のマジックミラーに、灰色のスチールデスク。殺風景な取調室で、私は次の展開を観念し、目を伏せて身を縮めていた。
「……高瀬、雛実?」
目の前のパイプ椅子に座る、背広姿の男の声が揺れる。気づかれずに取り調べを乗り切りたいと願っていたのだが、身分証の提示を求められては誤魔化しようがなかった。
「そう、雛実です……お久しぶり、悠馬くん」
「顔を見て、まさかとは思ったが……」
松井悠馬が、曲線の美しい眉を寄せる。小学校の頃、私が好きでたまらなかった、近所の一軒家に住む一つ年上の男の子。彼もひどく困っているようだけれど、私だって、何もこんなところで再会したくはなかった。
「嬉しいな。ずっと、会いたかったんだよ」と、それでも私は勇気を出して続ける。「私、母子家庭だったでしょう。二年生の冬休みにお母さんが突然倒れて、急遽親戚に引き取られることになっちゃって……お別れも言えずに転校したのが、心残りだったん──」
「お前、よくそんなことを言えたな。自分が何をやったか分かってるのか?」
悠馬の声が尖る。なぜ強い口調で責められなければならないのか理解できず、私はいっそう萎縮して彼の凛々しい顔を見上げた。
「私が……何をやったか?」
「しらばっくれるな。窃盗だよ。人の財布を持ち逃げしたじゃないか。何だ、そのピンときてないような顔は」
「財布? ああ……でもあれはボロボロで、もう捨てようかなって言われてたし……」
「俺はガワの話をしてるんじゃない、中身だよ。カードが何枚も入ってたろ。たとえ現金が入っていなくても、貴重品だってことは一目見れば分かったはずだ」
「窃盗だなんて……そんなつもりはなかった。だって、私の前に置いて、どこかへ行っちゃったから。もらっていいものだと思って……」
「すごい言い訳だな。人が置き忘れた財布をネコババしたら、犯罪にならないのか? 違うだろ。窃盗じゃなくても、ほら──」
占有離脱物横領罪。彼と向き合った視線の先で、鉄格子の嵌った窓がぼやけた。私の行為は犯罪だったのだと、今になって自覚する。
「不正に手に入れた三十万円分の食い物は美味かったか? 高い服が買えたか? 常識的に考えて、おかしいと思わなかったのかよ」
「三十万円? 私、そんな」
「時間が経ったから忘れたとは言わせないぞ」
彼がこちらを睨みつけてくる。取調室の空気は想像以上に重く、苦痛のあまり胸を掻きむしりたくなった。財布を家に持ち帰ったことは事実だが、本当に悪気はなかったのだ。三十万円というのも何のことか分からない。そのことを、どうか悠馬に信じてもらいたい。
長い沈黙ののち、彼が嘆息した。
「まあ──いいよ。公園のベンチなんかに置いていった被害者側にも落ち度はあるもんな。あのことはもう、不問にする」
「……うん。すみませんでした」
「もう帰っていい? 仕事に戻らないと」
彼の問いに、私は力なく頷く。回転式のオフィスチェアごと振り返ると、メモを取っていた補助立ち会いの若手刑事が慌てて立ち上がるのが見えた。若手刑事がドアを開け、松井悠馬が大股で取調室を出ていく。
私はスチールデスクに向き直り、悠馬が座っていたパイプ椅子を呆然と眺めた。その向こうには鉄格子の嵌った窓がある。被疑者の逃亡阻止のため、取調室では常に刑事が扉側に座ることになっていた。そのルールは、事情聴取用の応接室が空いていないときに、参考人をここへ案内する場合にも適用される。
「あの……高瀬部長? 今の、何の話ですか? 酔っ払いの喧嘩の目撃者と、まさか知り合いだったとは……」
「小学生の頃のこと。当時、カードゲームが流行ってて……貧乏だった私を不憫に思ったのか、近所に住んでた一つ年上の彼が、よく私にカードを分け与えてくれたんだ。最後に会ったときも、私が座ってた公園のベンチに、トゲモンカード入りの子ども用の財布を置いていったの。優しい彼のことだから、周りの子たちに気づかれないように、またカードを譲ってくれたんじゃないかと思って……」
「ああ、トゲカっすか。もしかしてあの人、お金持ちの家の子でした?」
「そうだったかも。家もすごく広かったし」
「レアなカードは一枚ウン万円とかで取引されますからね。いつもは部長にザコいカードばかりあげてたんすよ、きっと。まあ、占有離脱物横領って言っても、子どものやったことだし、とっくに時効ですしねぇ……」
スーツの胸ポケットに手を当てる。この警察手帳さえ確認されなければ──甘酸っぱい初恋の思い出に浸りながら、事情聴取を終えるまで、他人のふりを貫き通せたのに。
長年温めてきた恋心が、砕け散った音がした。
辻堂ゆめ(つじどう・ゆめ)
1992年神奈川県生まれ。東京大学卒。第13回「このミステリーがすごい!」大賞優秀賞を受賞し『いなくなった私へ』でデビュー。2021年『十の輪をくぐる』で第42回吉川英治文学新人賞候補、2022年『トリカゴ』で第24回大藪春彦賞を受賞した。他の著作に『コーイチは、高く飛んだ』『悪女の品格』『僕と彼女の左手』『卒業タイムリミット』『あの日の交換日記』『二重らせんのスイッチ』など多数。最新刊は『ダブルマザー』(幻冬舎)。