〈第17回〉加藤実秋「警視庁レッドリスト」

■連載小説■ 加藤実秋「警視庁レッドリスト」

みひろが訪ねたアパート。
そこには思いも寄らぬ先客がいた。

 13

 午前七時になり、通行人が増えてきた。慎は電柱の陰から顔を出し、通りの向かいの二階屋を窺った。警視庁の上級幹部用の宿舎で、JR代々木(よよぎ)駅まで徒歩十分ほど。狭くて古いという欠点を補っても余りある立地の良さだ。 

 ぽつりと、水滴が慎の頰に当たった。見上げた空には、鉛色の雲が立ちこめている。天気予報通りなら、間もなく雨が降りだすはずだ。 

 浦安のアパートの前で三雲みひろと別れて二日。あの晩三雲は、俺が自分を見失っていると言った。確かに俺は変わった。だがそれは、自分で望んだことだ。データと中森を見つけ出せば、失ったものを取り戻せる。全て元通り。いや、俺はもっと上に行ける。そう確信し、慎は高揚感を覚えた。 

 と、宿舎の門が開いて男が出て来た。スーツ姿でネクタイを締め、ビジネスバッグを提げている。慎は身を引いて男が通りの先まで行くのを待ち、電柱の陰から出た。

「おはようございます」 

 声をかけて横に並ぶと、伊丹は小さな目を見開いた。

「阿久津さんか。どうした?」

「見ていただきたいものがあって、お待ちしていました。お時間は取らせませんので」 

 笑みをつくって告げ、通りの端を指す。「なに? 会議があるんだよ」と怪訝な顔をしながら、伊丹は移動する慎について来た。 

 通りの端で伊丹と向かい合うと、慎は話を始めた。

「単刀直入に申し上げます。警備実施第一係に抜き取られたデータを持ち込み、後に消去したのはあなたですね。データ消去ソフトの作成者は、宮地陸久(みやじりく)と麻尾工(あさおたくみ)。六年前、コンビニATM不正引き出し事件で、あなたが逮捕したハッカーです」

「何の話だ。誰に命令されて――」

「僕の独断です。宮地と麻尾に会い、証言と証拠を得ました。こちらがデータ消去ソフトのコピーで、こちらは、あなたと宮地たちとのやり取りです」 

 言いながら、慎はバッグからUSBメモリと書類を出して伊丹の眼前に差し出した。書類は伊丹と宮地、麻尾のグループLINEのトーク履歴を印刷したものだ。視線を上下させてトーク履歴の内容を確認し、伊丹は絶句した。 

 二日前。堤からみひろが伊丹に辿り着いたいきさつを聞いてすぐに、慎はハッカー集団について調べ始めた。宮地と麻尾の関係者をピックアップし、アパートの前でみひろと別れたあと会いに行った。そして昨日一日かけて宮地と麻尾を見つけ出し、「力になる」と説得してデータ消去ソフトのコピーと、LINEのトーク履歴を手に入れた。 

 USBメモリと書類を差し出したまま、慎は続けた。

「宮地と麻尾は出所して別の仕事に就いていましたが、あなたに『お前らは今でもネットの人気者だ。SNSや掲示板にヒントを書き込めば、あっという間に職場や自宅を突き止められて晒されるぞ』と脅され、仕方なくデータ消去ソフトを作成したと話していました。このトーク履歴にも、それを証明するやり取りが残っていますね」

「……目的は? 独断で動いたってことは、何か企んでいるんだろ」 

 余裕を見せるつもりか、伊丹はバッグを持ったまま胸の前で腕を組んだ。慎は差し出していたものを下ろした。

「さすがに話が早いですね。僕の質問に答えれば、このUSBメモリとトーク履歴を渡します。宮地たちの証言も、なかったことにしましょう」

「質問って?」

「なぜあなたの手にデータが渡ったんですか? そして、データの正体と目的は? 東京プロテクトとの関係も話して下さい」

「それを知って、どうするつもりだ?」

「質問しているのは僕です。答えるか諦めるか、選んで下さい」 

 突きつけた慎を、伊丹は尖った目で見返した。やや間があり、組んでいた腕を解いて低い声で言った。

「データの正体を知ったら、後悔するぞ。殺人犯やヤクザ者と渡り合って、修羅場もくぐり抜けてきた俺でさえ寒気がして、心の底から恐ろしいと思った。なぜなら、あれは――」 

 バタバタという足音が、伊丹の声をかき消した。後ろを振り返った慎の目に、通りの先から駆け寄って来るスーツ姿の男三名と、その後ろに停まった銀色のセダンが映った。

「伊丹係長。ご同行願います」 

 先頭の男が、慎たちの前で立ち止まって告げた。監察係の柳原喜一だ。彼の左右に立ったのも、慎とは既知の監察係の係員だ。 

 やられた。そう思い、慎は心の中で舌打ちをした。監察係を警戒し、宮地と麻尾の情報を集めた際には警視庁のデータベースは使わず、スマホの電源も切った。しかし、どこからか動きを把握されていたらしい。 

 係員たちは伊丹に言葉を発する隙を与えず、両側から腕を取って通りの先に歩きだした。見送るしかない慎に、柳原は言った。

「バカ野郎。悪あがきしやがって。もう手遅れだぞ」 

 振り向いた慎と、柳原の怒りと哀れみに満ちた視線がぶつかる。それが合図のように、雨が降りだした。 

 と、ブレーキの音がして通りの先にもう一台車が停まった。白いセダンで、開いた後部座席のドアから持井亮司が姿を現した。はっとして、柳原はその場を離れた。係員たちに追いつき、伊丹を銀色のセダンに乗せる。 

 雨粒で黒く濡れていくアスファルトを踏んで歩き、持井が慎の前に来た。

「まさか、伊丹だったとはな。よく気づいた。あるいは、それも私の教えか?」

「いえ」 

 伊丹の仕業だと気づいたのは、三雲巡査です。慎はそう続けようとしたが、先に持井が言った。

「だが、ここまでだ。きみは私の警告を無視し、越権行為と規則違反を犯した。本日より自宅待機し、処分を待て。これは日山(ひやま)人事一課長の命令だ」

「はい」 

 日山の名前を出され、慎は反射的に頭を下げて応えた。その視界に、持井が差し出した手が映る。USBメモリとトーク履歴の書類をよこせと言っているのだ。逆らえず、慎は手にしたものを渡した。 

 こうなることは予想できたのに伊丹を攫(さら)われた上、動きを封じられた。だが、まだ策はあるはずだ。思考を巡らす慎を見て、持井は勝ち誇ったように顎を上げた。そのまま身を翻して歩きだす。雨は次第に激しくなり、何ごとかとこちらを見ていく通行人たちは、傘を差している。 

 このまま引き下がる気になれず、慎は頭を上げて言った。

「一つお伝えするのを忘れていました。赤文字リストについて」 

 ぴたりと、持井の歩みが止まった。慎がダークグレーのスーツのジャケットに包まれた背中を見ていると、持井はゆっくり振り返った。

「何の話だ?」 

 胸の内を全く見せない声と表情。さすがだな。そういえば、こういう態度の取り方も持井に教わったんだった。記憶が蘇るのを感じながら、慎も同じ声と表情で答えた。

「ついに僕も赤文字リスト入りですね、と言いたかったんです。失礼しました」

「自分で招いた結果だ。三雲巡査は気の毒だが、仕方がない。きみと行動を共にしていた以上、彼女も赤文字リスト入りだ。無論、職場環境改善推進室は閉鎖。きみには失望させられたぞ」 

 冷ややかに告げ、持井はまた顎を上げた。慎は返事の代わりに口の端を上げ、持井を見た。顔を前に戻し、持井は歩きだした。白いセダンの前で出迎えた部下の男にUSBメモリと書類を渡し、後部座席に乗り込む。 

 ふと、慎は白いセダンの助手席に本橋公佳が座っているのに気づいた。本橋もこちらに気づいている様子だが、強ばった顔で前を見たまま動かない。部下の男が運転席に乗り、白いセダンは走りだした。銀色のセダンも続き、二台の車は走り去った。 

 本橋も、持井たちの監視下に置かれたな。伊丹を確保したことで、俺を泳がせる必要はなくなったと判断したのだろう。データと中森を見つけ出さない限り、俺は潰される。 

 わかりきったことだ。策はある。わかってはいても、慎は動けなかった。雨は一層激しくなり、メガネのレンズに打ち付けた雨粒が慎の視界を遮った。 

 気持ちは冷静で、頭は回転を始めている。それでも慎は立ち尽くしたまま、ぼやけて滲(にじ)んでいくレンズ越しの世界を見ていた。

(つづく)

 


「警視庁レッドリスト」連載アーカイヴ

 

加藤実秋(かとう・みあき)
1966年東京都生まれ。2003年「インディゴの夜」で第10回創元推理短編賞を受賞し、デビュー。『インディゴの夜』はシリーズ化、ドラマ化され、ベストセラーとなる。ほかにも、『モップガール』シリーズ、『アー・ユー・テディ?』シリーズ、『メゾン・ド・ポリス』シリーズなどドラマ化作多数。近著に、『渋谷スクランブルデイズ インディゴ・イヴ』、『メゾン・ド・ポリス5 退職刑事と迷宮入り事件』がある。
文学的「今日は何の日?」【10/12~10/18】
◎編集者コラム◎ 『私はあなたの記憶のなかに』角田光代