〈第6回〉加藤実秋「警視庁レッドリスト2」

警視庁レッドリスト2

宗教団体・楯の家から届いた脅迫。
慎は対策に動き出す。

CASE2 マインドスイッチ : 駆け出し巡査はストーカー!?(1)


 

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「──東中野署に所属する二十代の男性巡査長が特殊詐欺通報システムを悪用し、管内在住の高齢女性から約三百万円を詐取したものである。発覚の端緒は当庁への匿名での通報であり、監察係が調査を実施し疎明に至った。男性巡査長は詐欺罪で起訴されるとともに免職の懲戒処分が決定し、同日依願退職した」

 書類の文面を声に出して読み、柳原喜一は顔を上げた。向かいに並んだ長机に着いた部下たちも、書類から顔を上げる。

「いいだろう。初めてにしては、よく書けている」

 柳原の言葉に、出入口のドア近くの席に着いた本橋公佳巡査部長が「ありがとうございます」と応えた。整った若い顔が目に見えて輝き、安堵したのがわかる。他の部下数名が「よかったね」というように目配せし、張り詰めていた場の空気が緩んだ。

「問題は文末だ。記者から今回の事案についての所見を訊かれた場合の返答が、『大変遺憾であり、職員に対する一層の指導、職務倫理に関する研修等の充実に努めたい。これらを通じて職員の規律と士気を高め、積極的に攻めの姿勢で、都民の期待と信頼に応える警視庁を確立して参りたい』とある」

 再び文面を読み上げ、柳原は本橋を見た。真顔に戻った本橋は「はい」と返し、場の空気が再び張り詰める。柳原は続けた。

「『積極的』はともかく、『攻めの姿勢』。この文言を記者がどう捉えるか。先月発生した、品川中央署のパワハラ事件と結びつけ、追及される可能性は考えなかったのか?」

「申し訳ありません。浅慮でした。すぐに削除します」

 本橋は立ち上がり、硬い仕草で頭を下げた。それを見返し、柳原はさらに言った。

「人事第一課長は、余計な発言はしない。少しでも口を滑らせれば、記者たちに一斉に追及される。職員の不祥事を極力穏便に済ませ、大事にしないのも我々監察係の職務だ」

「はい」

 本橋、そして長机に着いた二十名ほどの部下全員が神妙な顔で頷いた。

 その日。警視庁本部庁舎十一階にある警務部人事第一課監察係の会議室では、朝から会議が行われていた。議題は三日後に行われる、東中野署の非違事案の発表会見。監察の実務を取り仕切るのは首席監察官である柳原だが、集まった記者たちに相対するのは人事第一課長だ。いわゆるキャリア組で、「監察の顔」とも言える人事第一課長が記者から無用な追及を受けたり、失言をしたりなどは断じてあってはならない。

 柳原が理事官から首席監察官に昇任して、間もなくひと月。前任者の持井亮司は表向きは元部下に対する監督不行き届き、実際は「レッドリスト計画」を巡る騒動の責任を問われ退職した。要は不祥事絡みの訳あり昇任で、柳原はそのイメージを払拭すべく奮起している。非違事案の発表会見で人事第一課長が読み上げるペーパーを自らも読み上げてみせたのも、その一環だ。

 会議が終わりに近づいた頃、ノックの音がしてドアが開いた。「失礼します」と言って入って来たのは、二人の男。前を行くのは書類の束とタブレット端末を抱えた三十代半ばの小太りの男で、後に続くのは二十代後半の痩せてメガネをかけた男。どちらも柳原たちと同じ、冬の制服姿だ。

「総務部情報管理課開発企画係の富田係長です」

 柳原の隣に座った理事官が、小太りの男を指して告げた。富田は、柳原が着いた長机の脇で立ち止まって一礼した。制服の左胸の階級章は警部だ。

「お忙しいところ失礼します。この度、人事第一課のファイルサーバーを新しいものに移行することになりましたので、お知らせに参りました」

 眉根を寄せてぺこぺこと頭を下げながら告げ、「詳しくはこちらに」と抱えていた書類の束から一枚を取って差し出した。

「ああ。そう言えば、そんな話を聞いたな」

 書類を受け取り柳原が返すと、富田はさらに数回会釈し、タブレット端末を机の端に置いてメガネをかけた男に書類の束を渡した。メガネをかけた男は、柳原の部下たちに書類を配っていく。こちらの男の紹介はないが、恐らく警察庁の情報通信局から出向して来た技官で、移行作業の実務の責任者だろう。

「作業は二カ月先ですし、週末に二十四時間で終了する予定です。ただし、移行中はシステムにログインできなくなるので、データの閲覧や入力は行えません。ファイルの破損など不測の事態に備え、機密情報などは各自バックアップを取って下さい」

 首を振って柳原と部下たちを交互に見ながら、富田は説明した。部下たちの一人が、挙手して問うた。

「セキュリティは大丈夫ですか? 少し前に、ロシアから本庁のサーバーへの不正アクセスが検知されたと聞いていますが」

「もちろん万全を期しますが、移行中はシステム自体が不安定になります。それを含め、準備をお願いします」

 身振り手振りを含めて富田が答えると、部下は「わかりました」と手を下ろした。富田はほっとした様子で、「他に質問などがあれば、書類の連絡先にどうぞ」と早口で告げ、メガネの男を連れて会議室を出て行った。部下たちに会議の終了を告げようとした矢先、柳原は机の端のタブレット端末に気づいた。

 落ち着きのない男だな。柳原が呆れていると、再びノックの音がした。富田が忘れ物を取りに来たのかと、柳原はタブレット端末に手を伸ばした。が、ドアが開く音に続いて耳に届いた、

「失礼します」

 という声は、富田のものではなかった。はっとして、柳原は顔を前に向けた。会議室に入って来たのは、阿久津慎だった。部下たちもはっとして、動きを止める。

 慎は壁際の通路を進み、まっすぐ柳原に歩み寄って来た。

「おはようございます。突然申し訳ありません。少しお時間をいただけますか?」

 一礼してからそう告げ、メガネの奥の目で柳原を見下ろした。背が高く痩せた体を、ダークスーツに包んでいる。柳原の隣の理事官が身を乗り出し、尖った声で返した。

「おい、いきなりなんだ。会議中だぞ」

「重ねて申し訳ありません。しかし本日は第二火曜日ですので、首席監察官はこのあと方面本部監察官との定例調査報告会に出席されるはずです。移動と休息の時間を考慮しても、十分ほど猶予があるかと」

 淀みなく返し、慎はメガネにかかった前髪を片手で掻き上げた。室内の全員から視線を向けられ、不穏な空気も漂っているが動じる様子はない。

 勝手知ったるということか。柳原は心の中で呟き、理事官はうろたえたように黙った。

 監察係時代、慎は柳原の直属の部下だった。極めて優秀な監察官だったが、何を考えているのかわからない。するとレッドリスト計画を巡る騒動が起き、結果的に柳原は首席監察官のポストを得た。一方、誰もが監察係に戻ると考えていた慎は職場環境改善推進室に留まり、職務をこなしている。柳原はそこが不気味で警戒を覚えた。

「わかった。十分だけ話を聞こう」

 心を決め、柳原は返した。「ありがとうございます」と慎が再び頭を下げ、柳原は会議の終了を告げた。部下たちが立ち上がり、会議室を出て行く。何か言いたげな理事官に、柳原は「大丈夫だ」の意味で頷いて見せた。理事官はドアに向かったが、入れ替わりで本橋が近づいて来た。緊張と興奮が入り交じったような表情で、大きな目はまっすぐ慎を見ている。と、慎が後ろを振り返った。

「本橋さん、聞きましたよ。警部補の昇任試験の筆記試験に合格したそうですね。おめでとうございます」

 口調は優しく微笑んでもいるが、眼差しは強い。不意を突かれ、本橋は足を止めて「ありがとうございます」と返した。

「残るは口述と術科試験。あなたは優秀ですが、合格率約五パーセントの狭き門です。気を緩めず、覚悟して臨んで下さい」

 笑みはキープしながら眼差しをさらに強め、慎は告げた。それに気圧されたように、本橋は「はい。失礼します」と小さめの声で返し、会釈して身を翻した。目に見えてしゅんとしている小さな背中を柳原が見送っていると、慎は言った。

「柳原さんにも、お祝いを申し上げなくては……首席監察官ご着任と、警視正へのご昇任。おめでとうございます」

 後半は口調を改まったものに変え、背筋を伸ばして深々と一礼した。柳原は苦笑し、室内に慎と二人きりになったのを確認し、こう返した。

「威嚇、あるいは嫌みのつもりか? レッドリスト計画の騒動の後、お前が俺を訪ねて来るのは初めてだ。やり方はいくらでもあるのに、わざわざ監察係の主要メンバーが顔を揃える会議に乗り込んで来た。目的は何だ?」

 


「警視庁レッドリスト」シリーズ連載アーカイヴ

 

加藤実秋(かとう・みあき)
1966年東京都生まれ。2003年「インディゴの夜」で第10回創元推理短編賞を受賞し、デビュー。『インディゴの夜』はシリーズ化、ドラマ化され、ベストセラーとなる。ほかにも、『モップガール』シリーズ、『アー・ユー・テディ?』シリーズ、『メゾン・ド・ポリス』シリーズなどドラマ化作多数。近著に、『渋谷スクランブルデイズ インディゴ・イヴ』、『メゾン・ド・ポリス5 退職刑事と迷宮入り事件』がある。
◎編集者コラム◎ 『閉じ込められた女』著/ラグナル・ヨナソン 訳/吉田 薫
◎編集者コラム◎ 『警視庁殺人犯捜査第五係 少女たちの戒律』穂高和季