【SM小説】美咲凌介の連載掌編「どことなくSM劇場」第19話 ヘパイストスの見えない檻

人気SM作家・美咲凌介による、書き下ろし掌編小説・第19回目は、「ヘパイストスの見えない檻」。美咲凌介流・ギリシア神話をSM的に読み解きます。こんなに刺激的な設定、解釈があったとは……!

ヘパイストス……古代ギリシアの神。オリュンポス十二神の一柱で、炎と鍛冶の神。ゼウスとヘラの子。生まれつき両脚が醜く曲がっていたため母に疎まれたという。妻は美と性愛の神アプロディテ。アプロディテが軍神アレスと浮気していることを知ったヘパイストスは、見えない網で二人を絡めとり、他の神々の前に晒し者にしたと伝えられる。

春も終わりに近づいた、ある晴れた朝のこと。ヘパイストスは、美しい妻アプロディテに言った。

「仕事場へ行く。しばらく戻らないかもしれぬ。ヘルメスが空飛ぶサンダルを欲しがっているが、なかなか上手くできないのだ」

「あんな者のために、あなたがそんなに働かなくてもよいではありませんか」

アプロディテは、ようやく寝床から起き上がりながら言った。ヘルメスは伝令と旅の神。だが、たいへんな悪戯者で、嘘と泥棒の神でもある。

「あなたのいらっしゃらないあいだ……」

アプロディテは、もう外に出ようとしているヘパイストスの背中に問いかけた。

「あたくしは、どうすればよいのです?」

「好きにするがいい」

「好きに?」

「そうだ。お前の好きにするがいい。私も自分の好きなようにする」

ヘパイストスは、家を出て歩き出した。片手に仕事道具を入れた袋を提げ、曲がった脚を不器用に前後させながら、ひょこひょこと体を揺らして進んでいく。アプロディテは、小さな、しかし洒落た家の玄関まで出て、夫の後ろ姿を見送った。

仕事場は、ずいぶん遠い。オリュンポス山の中腹、大きな祠の中にある。ヘパイストスは、他の神々のためにさまざまな物を作ってやるが、自分のためにはあまり物を作らない。仕事場まで行き来するための車など、作ろうと思えばすぐにも作れるはずなのに、そうはしないのである。この男は、不自由な脚を使って歩くのが好きなのだ。自分の醜い姿を、他の神々に見せつけるのが好きなのである。

午前中、アプロディテは、体の手入れをして過ごした。沐浴し、髪を洗って乾かし、肌にクリームを擦り込み、爪を磨いた。好きにしろと言われたので、そうしたのである。アプロディテは、美しい自分の体をより美しくするのが好きだった。

正午を少し過ぎたころ、戦の神アレスがやってきた。下品な乱暴者として、神々の間でも忌み嫌われている男である。だが、姿は美しい。その美貌はアポロンに劣らず、四肢の力強さはゼウス、ポセイドンをも凌ぐか。

「ヘパイストスは、出かけたのか」

野卑な笑顔を浮かべ、アプロディテに問いかける。

「しばらく戻らないかもしれぬとのこと」

「では、ともに楽しめるな」

「ともに?」

アプロディテは、無邪気に問いかけた。

「あなたは楽しめましょう。でも、あたくしを楽しませることが、あなたにできますか」

「試してみるがいい」

アレスは、裸になった。股間の物は既に十分に昂り、獣じみた匂いを放っていた。アプロディテは、それを見ると微かにほほえんだようだった。

「さあ、お前も」

そう言うと、アプロディテの着ている薄物を荒々しく剥ぎ取る。絹の裂ける高く細い音が鳴り響いた。アレスはそのまま女神を引きずって、寝台の上に放り出した。アプロディテは、少しも抗わなかった。寝台の上に仰向けに横たわると、アレスの重い体がのしかかってくるのを、じっと待っていた。

「怖くはありませんか」

無遠慮に乳房を揉みしだくアレスの耳元に、アプロディテがそっと囁く。

「あなたは、ヘパイストスが、怖くはありませんか。アポロンもヘルメスも、そしてデュオニュソスも、心のうちにあたくしを求めながら手を出さないのは、ヘパイストスを怖れるがため。あなたは、ヘパイストスが怖くはありませんか」

「馬鹿な。俺がどうして、あんな出来損ないを怖れるものか。俺は戦の神、狂乱と破壊の神だぞ」

「そして怯懦と敗走の神。それが、あなた」

アレスは、乾いた声で笑った。

「戦では、逃げるのも大切なこと。俺は逃げ足も速い。脚曲がりのヘパイストスには、とうてい追いつけぬ」

アレスは、何度もアプロディテの中に突き入ろうとした。だが、その度にアプロディテは身をかわした。女神の腰はしなやかに動いて、決して相手の欲望のままにはならなかった。

「あせってはなりません。あたくしは、まだ十分に楽しんではおりません」

「もう我慢できぬ」

「口ほどにもない」

「黙れ」

アレスが、再び突き入ろうとしたときである。不思議なことが起こった。寝台がふわりと浮き上がり、部屋の中をするすると動きだしたのだ。そのまま、大きな窓のほうへ進んでいく。同時に、アレスの体とアプロディテの体は、別々に何かに絡み取られて、引き離されていく。

窓がひとりでに大きく開いた。見えない鎖に吊られたように、寝台はゆらゆらと揺れながら、窓から外へと運ばれていった。気がついたときには、アプロディテもアレスも、丸裸のまま、透明な見えない網に絡めとられ、往来に晒し者になっていた。

最初に見つけたのは、ヘルメスである。

「これは面白い。姦夫姦婦が、空中に裸で縛られているぞ」

ヘルメスは、笑いながら去って行った。やがて、そのヘルメスに連れられて、神々がぞろぞろと見物にやってきた。文芸と疫病の神アポロン。その双子の妹、処女神アルテミス。豊穣の女神デメテル。いつも酔っぱらっている、ワインの神デュオニュソス。知恵の女神アテナ。果ては神々の女王ヘラまでが顔を出した。主神ゼウスは、こんな下らないことに構うのは恥辱と心得てか、さすがに姿を現さなかったが、きっとどこか遠くからその全能なる力で全てを見通していることであろう。

神々は、声高に語り合った。

「これはまた、近頃珍しい見せ物だ」

「どちらも丸裸ではないか」

「なんとも恥知らずなこと」

「なんて汚らわしいんでしょう」

アレスは、しばらくのあいだ網を破ろうともがいていたが、どうにもならないとわかったのか、もぞもぞと体を動かして神々に背をむけ、縮こまってしまった。

アプロディテは、ほんのりと笑みを浮かべ、膝を抱えてうずくまっている。

最後にやってきたのは、ヘパイストスだった。例によって曲がった脚を引きずりながら、ひょっこりひょっこり歩いてくると、集まった神々のあいだを掻き分けるようにして、一番前、中空に吊り下げられた二人の裸のすぐそばまでやってきた。そして、持ち前の少ししゃがれた声で言った。

「おお、立派な獲物がかかっている!」

アレスがわめいた。

「ヘパイストスよ、どういうつもりだ。ほどけ。この網をほどけ」

「ほどいてほしいのか」

ヘパイストスは、にやにや笑うと

「では、ほどいてやろう」

急に体の自由がきくようになったらしい。アレスは急いで逃げ出そうとした。だが、すぐに何かにぶつかって跳ね飛ばされ、尻もちをついた。今度は別の方向に走り出したが、また同じことが繰り返された。

「どういうことだ?」

「網はほどいてやったが、出してやるとは言ってない」

ヘパイストスが答えた。

「今、君は、檻の中にいるのだ。網といっしょで、その檻も目に見えないのだよ」

「出せ。檻から出せ」

「ちゃんと礼儀正しく頼めば、出してやる」

「底意地の悪い奴だ。……わかった。頼む、出してくれ。俺は恥ずかしい」

「よかろう。」

その声が終わらぬうちに、アレスはすとんと地に転げ落ちた。一声、短い悲鳴をあげると、素っ裸のまま背をかがめ、走り去っていく。

「なるほど、逃げ足だけは速い」

ヘパイストスがそう言うと、神々はそろって忍び笑いをした。

ヘパイストスは、うずくまっているアプロディテに声をかけた。

「わが妻よ、いつまでそうしている? 網はもう、ほどいてある。立ち上がるがいい」

アプロディテは、静かに立ち上がった。相変わらず、ほんのりと笑みを浮かべている。

「どうだ? お前も外に出たいか?」

「あなたのお気の召すように」

「お前の好きにするがいい」

「あたくしは、あなたのお気の召すようにしたいのです」

「そうか」

ヘパイストスはぐるりと一度、神々を見渡すと、また檻の中のアプロディテのほうを向いた。

「では、こうして神々も集まっていることでもあるし、お前の裸をじっくりと見てもらうといい。さあ、アプロディテよ。もっと胸を張れ。お前の桃色の乳首が、斜め上を向くように。両腕は、頭の上に。そう……頭の上で壺を持つようにしてみよ。右足を少し前に出して……おお、美しい。いつ見ても、お前は美しい」

ヘパイストスは、背後に居並ぶ神々の方へ振り返った。

「神々よ、わが妻、アプロディテの姿をよくご覧あれ。女神たちのうちで、このアプロディテと、美を競い合おうという方はおられるか?」

誰も答えない。

「わが母、ヘラはいかが? お美しさをいつも自負しておられるが、さすがにお年を召されすぎたか? 知恵の神アテナよ、あなたは? 裸になって、アプロディテの隣に並ぶ勇気をお持ちではないのか? 処女神アルテミスよ、君のような小娘では、とうてい太刀打ちできそうもないな」

女神たちは、一様に口の中でぶつぶつと呟いたようだった。だが、はっきりと口に出して、この挑戦に応える者はいなかった。

ヘパイストスは、今度は男の神々に問いかけた。

「デュオニュソスよ、どんなワインも、わが妻ほど君を酔わせてくれることはあるまい。ヘルメスよ、お前は人間の娘をだまくらかすことはできても、私のアプロディテの相手にはなれそうもないな。アポロンよ、君はさっきからずいぶん澄ました顔をしているが、股間の一物はどうなっているか。なだめるのに苦労しているのではないか」

男の神々も女神たちと同様、誰もはかばかしい返事はできなかった。

やがて神々は、ぞろぞろと帰って行った。ただ、来た時とは違って、なんとなく足取りが重かったようである。

その夜。

ヘパイストスは寝台に腰かけ、足元にひざまずいているアプロディテに言った。

「愛しいわが妻よ。今日の趣向は、どうであった?」

「本当に……」

アプロディテの頬は、うっすらと上気している。

「本当に、心が躍りました。今でも胸の鼓動がやみませぬ。わが夫、ヘパイストスよ、どうぞこの火照りを静めてくださいませ」

アプロディテはそう言うと、ヘパイストスの曲がった、毛むくじゃらの脚にすがりついた。

◆おまけ 一言後書き◆
もともとのギリシア神話では、アプロディテはヘパイストスが大嫌いということになっているようです。しかし、私の(勝手な)ギリシア神話では、ご覧のようにアプロディテはヘパイストスにぞっこんという設定になっております。次回もギリシア神話を題材にする予定(あくまで予定)です。

2020年4月18日

美咲凌介(みさきりょうすけ)

1961年生まれ。福岡大学人文学部文化学科卒業。在学中、文芸部に所属し、小説や寓話の執筆を始める。1998年に「第四回フランス書院文庫新人賞」受賞。SMを題材とした代表作に『美少女とM奴隷女教師』『Sの放課後・Mの教室』(フランス書院)など。他に別名義で教育関連書、エッセイ集、寓話集など著書多数。

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