【SM小説】美咲凌介の連載掌編「どことなくSM劇場」第54話 パソコン騒動てんまつ記――どえむ探偵秋月涼子の見え透いた企み
人気SM作家・美咲凌介による、書き下ろし掌編小説・第54回目は「パソコン騒動てんまつ記」。「どえむ探偵涼子」とSのお姉さま・真琴さんがまだ出会って間もない頃のお話。預かったパソコンを落とすふりをして真琴さんを試す涼子だったが、真の目的はほかにあって……?
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真琴さんは、ノートパソコンのキーボードの上に指を置いている涼子に声をかけた。
「それで終わり? 助かったよ」
「お役に立てて光栄です」
肩越しに真琴さんのほうを振り返ると、涼子はちらりと微笑をひらめかせる。
「このアプリ、とっても使い方が簡単で便利なんです。これでお姉さまも、PDFの編集がぐっと楽になるはず」
「まあ、今のところ、あんまり使うことはないと思うんだけどね。でも、なにかのときに役立ちそうだし」
涼子は今、PDFに字や記号などを書き入れることのできるフリーアプリを、真琴さんのノートパソコンにインストールしてくれたのである。学校の勉強はよくできる真琴さんだが、実はパソコンにはそれほどくわしくない。インターネットの閲覧やメールのやりとり、文字中心の文書作成や表計算のごく基本的なところ――そのくらいならなんとかなるが、ちょっと特殊な作業になると手に負えなくなってしまう。
いっぽう涼子のほうはといえば、妙にパソコンなどの電子機器に強いのだ。先月、二人が所属するミステリー研究会の夏合宿があったのだが、そのときの写真やパンフをPDFにし、文字コメントや色とりどりの記号などをあしらって、なかなか立派な電子アルバムを作ったのも、この涼子だった。それを見た真琴さんが――
「写真に文字を書き込むのって、どうやったらできるんだ?」
「簡単です。専用のアプリがあるんですの」
「そのアプリは、はじめからパソコンに付属してるのか。それとも、どこかから買うの?」
「ただですわ、お姉さま。フリーアプリを、ネットからダウンロードすればいいんです。ほら、スマホでも、無料で使えるアプリがいろいろあるでしょう? あれと同じです。お望みでしたら、お姉さまのパソコンにも入れてさしあげます」
そんな会話があったのが、後期授業が始まってすぐに、部室で二人が顔を合わせた先週のこと。そして、後期授業が始まって十日ほどが過ぎた今日、真琴さんは自分のノートパソコンを涼子の部屋まで持参したというわけ。
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新宮真琴さんは、聖風学園文化大学文学部国文科の二年生。サークルはミステリー研究会(略してミス研)に属している。今年の四月に、学年が一つ下の秋月涼子と知り合ったのも、そのミス研の部室でのことだった。
涼子は真琴さんのことを「お姉さま」と呼ぶが、もちろん本当の姉妹ではない。この夏休み、妙にグイグイと迫られて――いや、もちろん真琴さん自身も大いに乗り気だったのだが――ベッドの上で抱き合う関係になって以来、涼子から「お姉さま」と呼ばれるようになったのである。
まだ慣れなくて、呼ばれる度にふわりと宙に浮いたような気分になる。
「涼子、こう見えて変にプライドが高いんですの。ですから、ほかの人たちから呼び捨てになんかされたらとっても不愉快なんですけど、お姉さまからだけは、涼子って呼び捨てにされたいんです。それも、冷たい蔑んだ口調で呼んでいただけたら、きっとうっとりしてしまいます」
そんなことを言われたので、涼子のことは呼び捨てにするようにしているのだが、これにもまだあまり慣れていない。
ともあれ、この夏休みのあいだに、二人は同性ながら、ただならぬ仲になってしまったのだ。真琴さんは高校二年生くらいから自分をバイセクシャルと認識していたが、涼子はさらに同性愛寄りの性的指向を有しているらしい。しかも、自称によればかなりのM気質なのだという。
「涼子って、SかMかでいえば、典型的なM気質なんです。ドMといっても過言ではありません。ですから、中学生のころから、美しい年上の女性にお仕えするのが夢だったんですの。ただ、理想の女性ってなかなか見つからなくって。――でも、あの日、お姉さまのお姿を一目見たとき、ああ、この人だって、一瞬でわかったんですの。このかたこそ、涼子の探し求めていたお姉さまにちがいないって」
本当だろうか。真琴さんは、かなり疑わしいと思っている。涼子には少々、話を大げさにしたがる癖があるのだ。
「お姉さまがミス研の女王って呼ばれていらっしゃることを知って、その確信はますます深まりました」
たしかに真琴さんは、そんなあだ名を頂戴している。自分では美貌・長身・S気質のせいだと思っている――いや、思おうとしているのだが、実はがさつな言動を揶揄されているだけなのかもしれない。そんな気もする。
二人が通う聖風学園文化大学は、妙に学生のお行儀に厳しい。学生には付属の中・高からエスカレーター式に上がってきた富裕層の子女が多く、学力は大したことはないのだが、皆とにかく上品なのだ。
庶民――しかもかなり貧乏人の部類――の娘である真琴さんがこの大学に入れたのは、学費全額免除の特待生制度があったからである。
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そんなことをぼんやりと思い返していた真琴さんだったが、涼子から問いかけられて我に返った。
「お姉さま? 使い方をご説明しましょうか」
「そうだね。ざっと聞いておこうか。細かい点は、さっきお気に入りに入れたサイトを見ればわかるんだよね」
涼子は、「ええ」とうなずいて――
「ただ、いちばん初めの基本的なところが、案外わかりにくいんですの。いきなりPDFのファイルを開いてもダメなんです。先に、このアプリを開いて……はい、開きました。次に、ほら、ここ……この『ファイル』っていうボタンから、『開く』を選択して……あっ」
突然、指の動きを止める。
「どうした?」
「あの……この『開く』を選択すると、お姉さまのパソコンの中のファイル名が表示されてしまうんですけど、大丈夫でしょうか。もし、見たらいけないものがあったら……」
「大丈夫。だいたい勉強関係のものしか入っていないから……それに、涼子は探偵になるんだろう? 私のこと、どんどん探偵すればいいと思うぞ。ほら、このあいだ私のことを尾行したときみたいにさ。パソコンの中身も調べちゃっていいよ」
探偵? そうなのだ。涼子は大学を卒業したら、私立探偵になるつもりだという。ミス研に入部したのも、その探偵修業の一環であるそうな。しかも、夏休みのあいだに、友人たちと海水浴に出かけた真琴さんをこっそり尾行する、という暴挙に走った過去もあるのだ。(「第35話 青いUSBメモリの事件――どえむ探偵秋月涼子の予行演習」参照)
バカ? バカなのか?
ただし、そのとき涼子が真琴さんには解けなかった謎を見事に解き明かしたというのも、否定できない事実である。
「また、そんな意地悪なこと、おっしゃって。あの尾行の件は、涼子、とっても反省しておりますの。親しき仲にも礼儀あり、ですわ。ですから今も、お姉さまのお許しをきちんといただかなくてはいけないって思いましたの」
「では、許します。そのパソコンの中には、見られて困るものはなにもないから、安心していいよ」
「では……ほら、こうすると、ドキュメント内のファイル名が表示されますね? この中から、編集したいPDFファイルを一つ選んで開きます。どれにします?」
「どれでも。じゃあ、そのいちばん上にあるやつでいいよ」
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そんな感じで、一通りの説明を受けたあとのこと。
涼子は、まだパソコンの画面から目を離さずに――
「お姉さま? この日本文学概論答案後期っていうファイルですけど」
見ると、涼子はドキュメントを開いて、ずらりと並んだファイル名を眺めている。
「吉塚先生の日本文学概論の後期試験の答案。涼子も、今年履修してるんじゃなかった? あの先生の試験って、半分は問題を先に教えてくれるだろ? だから、あらかじめ答案を作って、それをだいたい覚えていけばいいんだよ」
日本文学概論は教養課程の科目で、ほとんどの学生は一年生のときに履修する。前期で上代から近世までのいわゆる古典作品、後期で近現代の作品を扱って、年間を通じて日本文学史をざっと辿ることになっている。試験は前期も後期も、半分は大学入試に出るような選択式の文学史の問題、残りの半分はあらかじめテーマが明らかにされた論述問題となっている。そのテーマは後期試験の場合、たしか「講義の内容を踏まえ、近現代文学の潮流のうち少なくとも二つのものを選び、相互の関係について述べよ」といったものだったはずだ。
「でも、どうして1から5まで、五つもあるんですの?」
「ああ、それはね」と、真琴さんは少し自慢げな口調になった。
「1は、私用の答案。いちばんいいやつね。2から5は、友達のために作ってあげた答案なんだ。一つ一万円で売りさばいて、けっこう儲かったよ」
「お姉さま、さすがです」
「なんだったら、涼子もコピーしていいよ。きっと役に立つと思うぞ。だって、吉塚先生って毎年同じ講義をして、毎年同じ問題を出すってことで、有名だからね。九月になって最初は、落語を聞かされただろ? 近代文学といえば夏目漱石。漱石といえば、落語から影響を受けたといわれています。そこで、本日はみんなで落語を聞いてみましょうって。そして感想文を書かされただろ?」
「ええ。その通りです」
「やっぱり、去年と同じだ。あの先生、後期授業の初めはエンジンがかからないから、学生には落語を聞かせて、自分は休んでるってことらしいよ。その聞かせる落語も、毎年同じだって……なにを聞かされた?」
「たしか」と、涼子は少しのあいだ考えこんで――
「なんとか火事っていう……」
「厩火事(うまやかじ)だね。やっぱり同じだ。だとしたら、きっと、これからの講義内容も試験の問題も、去年と同じだよ。涼子、その答案、コピーしてもいいよ。涼子にはただでコピーさせてあげる」
「そんなこと言われると、涼子……困ってしまいます」
「どうして?」
「だって……正解がとっても難しくって。お姉さまのご好意を素直に受け取って、コピーさせていただきますっていうのが正解なのか……それとも、自分の試験なんですから、自分だけの力で頑張りますっていうのが正解なのか……お姉さま? どっちの涼子がお好みです? 涼子、お姉さまのお好みに合わせてお返事いたします」
「ええっと」
かえって、真琴さんのほうが困ってしまった。涼子なら、どう答えたところで可愛いと思えてしまうのだ。だが、持ち前のS的気質が顔を出すのも、こんなとき。
「私に答えを聞いたらダメだよ。よく考えて、自分でお返事しなさい。私の好みに合っていたら誉めてあげる」
「では、ちがっていたら、優しく叱ってくださいます?」
「お望み通りに」
涼子は、おかしなくらい長々と考えこんで――
「涼子、やっぱり自分の力だけで試験に挑戦いたします」
「正解。涼子は偉いなあ」
真琴さんは腕を伸ばして、涼子の頭を撫でてやった。そうされるのが好きなのを、もうよく知っているのだ。
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その辺りまでは、ごく普通で平穏な展開だったのだ。ところが、このあと少しばかり妙な感じになってきたのである。
「ところで、お姉さま? お姉さまがいちばん大切にしていらっしゃるものって、なんですの?」
あとから考えると、この時点で真琴さんは既に「変だな?」と感じていたように思う。なぜ唐突に、そんなことを聞くのだろう。
「大切にしているもの? それは……涼子との関係かな」
「ありがとうございます。でも、涼子が今お聞きしたいのは、そういうことではなくって……たとえば涼子でいえば、あのオルゴールのようなもののことですわ」
「なるほど」
先日、涼子が宝物にしているというオルゴールを見せてもらった。金色のねじを巻くと、ベートーヴェンの「エリーゼのために」が流れ出す。同時に、オルゴールの上にある小さな人形たちが、ガラスのドームの中で踊り出すのである。十歳の誕生プレゼントに親戚の誰かからもらった品で、大のお気に入りらしい。週に一度はきれいな布で磨きあげているそうな。
「どうだろう? 私には、あまりそういうものはなさそうな気がするけど」
「あの……このパソコンは?」
「それは、もちろん大切だよ。大学入学以来の学業の成果が、全部その中に詰まっているわけだしね」
「それに、このパソコン、特待生の試験に合格した記念に、大学から贈られたものですものね」
たしかに、その通り。学費全額免除の特待生として入学する学生に、記念というのか褒賞というのか――とにかくそういった意味合いで、大学が贈ってくれたものなのだ。その証として、天板の隅には小さな大学のマークも刻印されている。
「お姉さまがこのパソコンを大切にするお気持ち、涼子にもよくわかります」
「まあ……そうだね。たしかに、大切にしているかな」
なんとなく誘導されているような気がして、真琴さんは用心深くそう答えた。
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「この液晶モニター、少し曇っているような……それから、キーボードも磨いたら、もっときれいになるかも」
涼子は、そんなことを言い出した。真琴さんはいよいよ「変だな」と思った。なにか魂胆があるらしい。
「あっ。もちろん涼子、汚れているって、申し上げているわけではありませんのよ。ただ、パソコンのモニターって、お手入れがとっても難しいものですし。お姉さま、どんなふうにお手入れされてます?」
「手入れって、ときどき乾拭きしたり、ウェットティッシュで拭いたり……」
「やっぱり。でも、それではいけませんわ。乾拭きだけでは曇りはとれませんし、ウェットティッシュの湿りはただの水ですから、不純物が入っています。ですから、どうしても拭き跡が残ってしまうんです。お姉さま、涼子にお任せください」
「お任せくださいって、なにを?」
「涼子、パソコンのモニター専用のクリーニング剤を持っておりますの。あちらの部屋にありますわ」
このマンションの部屋は、3LDK。涼子の秋月家は県下で一、二を競う資産家なので、なかなか贅沢な住まいである。今二人がいるのは寝室。隣にあるキッチンの向こうには、さらにもう二つ、六畳の和室と、本棚や大きなデスクが置いてある洋間がある。涼子が今「あちらの部屋」といったのは、その洋間のほうだろう。例のオルゴールも、そこにある立派な棚の上に飾ってあるのだ。
「そのクリーニング剤で拭いたあと、オルゴール磨きに使うあの布で磨けば、曇りはすっかり取れましてよ。それからキーボードの掃除にも、専用のお道具がありますの」
涼子は突然、勢いよく椅子から立ち上がった。クリーニング剤や布を取りに洋間へ行くのかと思ったら、そうではなく、パソコンをそちらに持って行こうということらしい。
「この机、少し狭すぎますから、あちらの部屋の机で……」
そんなことを言いながら、電源アダプターを外しにかかっている。
「別にそんなことしなくても」
「ご遠慮なさらないで……あっ、お姉さまは、そのままゆっくりお待ちください。それほど時間はかかりませんわ。お姉さまの大切なこのパソコン、涼子が完璧にきれいにしてさしあげます!」
涼子はパソコンを抱えて、机から離れた。真琴さんはベッドに腰かけたまま、その様子を疑わしげな視線で見送っていた。
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まさか――ね?
そのとき真琴さんの脳裏には、ひょっとするとこうなるのではないか? という漠然とした考えが浮かんでいたのだが、あまりにバカバカしい気がして、自分で否定してみたのである。だが、結果としては、その否定した考えがほぼぴったり当たっていたのだった。
寝室を出てキッチンに向かった涼子の姿が、真琴さんの目にはまだ見えていた。直接にではない。壁にかかっている縦長の大きな姿見に映っていたのだ。
ちなみに、真琴さんはこの姿見をSM遊びに使ったことがある。ミス研の女王と呼ばれるS気質の真琴さんと、ドMを自称する涼子。この二人が親密になったのだから、その性的な戯れがSM遊びへと進むのに無理はない。といっても、今のところそれほど本格的なものではなく、涼子だけを裸にしてその姿を鏡に映して楽しむ、といった程度だが。
鏡を見ていると、涼子は両腕でパソコンを胸の前にしっかりと抱えたまま、トコトコと歩を進めている。――と、突然立ち止まると、そのままの姿勢でストンと尻を落とした。尻もちをついて――それだけでは足りないと思ったのか、片手で拳を作ると、床をドン! と叩いた。そして、わざとらしく「キャッ」と大きな声をあげた。
さて、どうしよう、と真琴さんは考えこんだのである。
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涼子が望んでいることは、たぶんわかっている。その涼子の希望通りに振る舞ってやったほうがいいのか。だが、それだと自分が間抜けすぎるような気がする。では、「お前の考えていることはわかってるんだよ」と、最初から潰しにかかるか。そのほうが涼子のM的な嗜好を満足させるかもしれない。いや――それはやはり危険だ。もし自分が間違っていたら、引っ込みがつかなくなってしまう。
さんざん迷った末――といっても、数秒のあいだにすぎないが――真琴さんはとりあえず、いったんは涼子の企みに乗ってやることにした。
キッチンで、涼子がわざとらしく叫んでいる。
「ああっ、どうしましょう。お姉さまの大切なパソコンが……」
「大丈夫?」
そう問いかけながら、真琴さんはおもむろに立ち上がった。
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「どうした。転んじゃったのか? けがはない?」
「あっ。お姉さま、ごめんなさい。お姉さまの宝物のパソコンを、涼子、落としてしまって……大丈夫でしょうか」
だが、涼子がパソコンをしっかりと胸に抱えたままだったことを、真琴さんはよく知っている。床が鳴ったのは、涼子が小さな拳をわざとぶつけたからだということも知っている。
「そんなこと、気にしなくていいよ。それよりも、けがはないか。足をくじいたりしてない? そっちのほうが心配だ」
実は、ちっとも心配なんかしていない。けががないよう、涼子が上手に尻を落とした様子も見ていたからだ。
「まあ、お姉さま。パソコンよりも、涼子のことを心配してくださるの?」
「もちろんだよ。涼子」
真琴さんは笑いをこらえ、ごく真面目な顔で答えた。
「さっきも言っただろ? 私がいちばん大切に思っているのは、涼子のことなんだから」
「ありがとうございます。涼子、とってもうれしいです」
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感謝の言葉が一段落すると、真琴さんは再び寝室に戻り、ベッドに腰かけた。
「実は私、涼子に聞いてほしい話があるんだ」
「あの……パソコン、壊れてないでしょうか」
「パソコンのことは、しばらく放っておきなさい。そのキッチンのテーブルの上にでも置いておけばいいよ。それよりも、ほら……ここに座って。私の隣に……」
そう言って、ベッドを軽く叩いてやる。しかし、涼子は寝室に戻ってくると、真琴さんの足もとにお行儀よくひざまずいた。
「涼子、粗相をしてしまいましたから、こうしていますわ。よろしいでしょう?」
「そうしたければね」
「ええ。涼子、叱られること、覚悟しています。ですから、こうしていたほうが落ち着きます」
「別に叱るつもりはないけど。ただ、ちょっとした話を聞いてほしいんだ。その話というのはね……昔、唐土(もろこし)に、孔子という学者がいたのね」
――と、真琴さんは静かに語り始めた。
「その孔子さまは、一頭の白馬をたいそう可愛がっていました。ところが、外出中に馬小屋が火事になってしまったのです。孔子さまのお弟子たちは、なんとか馬を救い出そうとしましたが、名馬ほど火を恐れるの喩え――馬はどうしても、小屋から出ようとしません。そのまま焼け死んでしまったのです。お弟子たちは、どんなにひどく叱られるだろうかと、びくびくしておりました。やがて孔子さまがお帰りになりました。お弟子たちは、恐れながら――と事の次第を申し上げます。すると、孔子さまはただ、お前たちにけがはなかったか、そうか、けががなければなによりだ――とだけおっしゃって、あれほど可愛がっていた白馬のことについては、一言もお弟子たちを責めたりはしなかったのです」
そこでいったん間をとる。
「涼子は、このお話、どう思う?」
涼子は、どことなくかぼそい声で、「とってもいいお話だと思います」と言った。それから、取ってつけたように――
「今さっきのお姉さまも、その孔子さまにそっくりですわ。粗相をした涼子のことを少しも責めずに、とっても寛大なご対応をしていただいて、涼子、すごく感謝しています」
「お世辞は要らない」
ぴしゃりと黙らせて――
「また、別の話もあるんだ……まあ、聞きなさい。こっちは本邦の江戸時代のお話。ある旗本のお殿様が、皿をたいそう大切にしていました。ある日、お客があったので、自慢の皿に酒の肴を盛ってもてなしました。おや、これは見事な皿ですなあ、と会話も盛り上がり――さて、お客様がお帰りになったあと、奥方がその皿を片づけようとしたときのこと。どうした拍子か奥方は皿を抱えたまま、階段を滑り落ちてしまったのです。しかし、そこは武家の奥方、皿をしっかりと胸に抱いたまま、お尻で階段を滑り落ちたため、大事には至りませんでした。物音に驚いた殿様が駆けつけて、どうした、皿は無事か、皿は割れなかったか、皿は、皿は、皿、皿、皿……と、百回ほども繰り返したそうです。奥方が、皿は大事ございませんと答えると、うむ、大切な品であるから気をつけなくてはならんぞ、と――その日はそれで済みましたが、さて翌日になると奥方の姿が見えない。やがて奥方の親元から使いが来て、離縁をしていただきたいというのです。どうしたわけで、と殿様が尋ねると、奥方の体より皿のことを心配するようなご亭主では、先が思いやられる、とうてい大切な娘を預けてはいられない――という返事。あの旦那は不人情だという噂もたって、ついにその殿様は再婚もできず、一生を寂しく暮らしたということです」
涼子は、少しうつむいている。
「どうしたの、涼子。ちゃんと私の顔を見なさい」
「はい」と、視線を上げる。その視線をしっかりとらえて、真琴さんは――
「このお話、涼子も知ってるね?」
「はい」と、涼子はもう一度そう答えた。
「そうだよね。だって、吉塚先生の日本文学概論で聞いた落語の話だものね。なんていう落語だったっけ」
「厩火事――です」
「正解。じゃあ、続きは涼子が話してごらん。上手に話せるかな」
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「今の二つのお話は、ある男の人が、その男の人のところに相談に来た女の人に、話して聞かせたお話なんです」
――と、涼子はやわらかな声で語り始めた。真琴さんは、涼子の声が大好きだ。音程が高く、しかし尖った感じは少しもなくて、まろやかで深い響きをもっている。
「その女の人は髪結いで、自分でお金を稼いでいます。そして、無職の男の人と結婚していて、いつも夫婦喧嘩が絶えません。そのご亭主である無職の男の人は、女房の髪結いさんの稼ぎを当てにして、昼間っからお酒を飲んでいるような怠け者なんですね。でも、だからといって、ずっと仲が悪いというわけでもなくって……その男の人は、喧嘩をしたあとに、お前が憎くてぶったわけじゃないとか、俺はお前がいないと生きていけないんだとか……まるで現代のDV男性みたいなことを言ってくるんです。それで、髪結いの女の人は、この人は本当に私をずっと大切にしてくれるのかしら、それとも私の稼ぎを当てにして甘い言葉をささやいているだけなのかしらって、とっても迷って相談にきたわけなんです」
「そうそう。しっかり覚えているじゃないか。じゃあ、その続きは?」
「それで、相談された男の人――その夫婦の仲人さんですけど――その仲人さんは、さっきの二つのお話を聞かせてあげて、それから髪結いさんに、こう言うんです。お前の亭主も皿を大切にしているんだって? それならちょうどいい。お前がその皿をわざと壊してみて、亭主がどんなことを言うか、試してみたらいいじゃないか。もし皿のことばかり言うようなら、別れてしまえ。反対に、皿よりもお前の体のことを心配したなら、きっと真心があるんだろうから、添い遂げることにしたらどうだって」
そこで、涼子は恥ずかしくなったのか、口をつぐんでしまったので、真琴さんが先を促してやった。
「そこまで話したんだから、最後まで話してしまいなさい。それから、どうなったの?」
「その髪結いさんは、言われた通り、家に帰ると男の人が大切にしていた皿を、きれいに洗ってあげると言って持ち出すと、転んだふりをして、どこかにぶつけて割ってしまったんです。すると、男の人が、どうした? けがはないかって、心配して駆け寄ってきたので、髪結いさんはもう、とってもとっても喜んで、あんたは皿よりもそんなにあたしのことが心配なのかいって……」
「そうそう。すると、男は? ちゃんとオチまで言いましょうね」
「男の人は、当たり前じゃないか、お前にけがなんかされたら、昼間っから酒を飲んでいられなくなるって」
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真琴さんは、涼子の目をしっかり見つめながら言った。
「それで、さっきの涼子は、その髪結いさんの真似をしてみたんだね」
「お姉さま、さすがです。涼子の企みを、すっかり見破っていらっしゃったんですね」
「お世辞は要らない」と、さっきと同じ言葉をもう一度繰り返す。
「見破るもなにも――あまりにも見え透いてるだろ? 直前に吉塚先生が落語を聞かせるっていう話をしたばかりだし、涼子は変に、『大切なもの、大切なもの』ってこだわるし、あげくにパソコンをきれいにしてやるってさ――皿をきれいに洗ってやるっていうのと、まるっきり同じじゃないか。あれだけヒントをばら撒かれて、わからないはずがない」
「そんなことありませんわ、お姉さま。涼子は、お姉さまだからこそ、おわかりになったんだと思います。普通の人だったら、絶対に気づきません」
「まさか」
「お姉さまは、ご自分が優秀な頭脳をお持ちだから、そんなふうに思われるんです。普通の人だったら、あれくらいのヒントでは、けっして気づけないと思います。もちろん、傍で見ているだけなら別です。それだと冷静になれますものね。でも、実際に自分の持ち物が壊されたかもって状況で、お姉さまみたいに冷静で的確な判断はできるはずはありません」
涼子は、ごく真剣な顔で話している。本気でそう思っているのか、それともなんとかおだてて逃げ切ろうとしているのか、どうもよくわからない。真琴さんは、その点にはこだわらないことにした。
「まあ、涼子がそう思いたいのなら、そう思っていればいいけど。ただね……」
それとは別に、言いたいことがあるのだ。
「涼子は、オチまでちゃんと覚えていたんだよね。それで、あのオチのどこがおもしろいと思ってるんだ?」
「もちろん、髪結いさんが、これで男の実意が証明できたと喜んだ途端に、男の返事を聞いて、その答えがまたわからなくなってしまうっていうところに、おもしろさがあるんですわ」
「もう少しくわしく解説すると?」
「つまり、こういうことです。髪結いさんは、ご亭主が金目当てで自分と夫婦でいるんじゃないかと疑っていました。それで、皿を割って反応を見るという手段で、男の実意を探ろうとしたわけです。皿のことばかり心配するようなら、男に実意はなく、金目当てなんだ。でも、もし自分の体のことを心配してくれるのなら、単なる金目当てじゃない、やはり本当の愛情がどこかにあるんだっていう理屈です。そして、男は髪結いさんの体のほうを心配してくれた。よかった、この人はお金目当てじゃなかったんだって、髪結いさんは喜びました。でも、最後の男の返事――お前にけがなんかされたら、昼間から酒を飲んでいられなくなるっていう返事を聞くと、じゃあやっぱり、あたしが稼ぐお金が目当てなのかしらって――結局は、お話が最初に戻ってしまう。そこがおもしろいといいますか――おかしみがあるんだと思います」
ふむ――と、真琴さんはうなずいた。
「ちゃんとわかってるんだね。だとすると……変だなあ」
「なにがです?」と、涼子はきょとんとしている。さっきまでは恥ずかしそうにうつむきがちでいたのに、もう気分が変わったらしい。この美少女は、もともと気分の切り替えが実に早いのである。
「涼子、なにか変なこと、言ってしまったんでしょうか」
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「だって、皿を割ってみたところで、男の真意はわからないっていう話だろう? ということは、涼子が私のパソコンの壊すふりをしてみたところで、私の心はわからないってことになるじゃないか。もし、涼子が私の愛情を試そうとしても、そもそもそんなことは無理だっていう話なんだからさ、あの落語は」
「あら」と、涼子は少し驚いたような顔をした。
「ん? どうした?」
「あらあらあら」
「だから、どうした?」
「お姉さま、少しだけ勘違いなさっていますわ」
「勘違い? 私が?」
「ええ。涼子が、ある意味でお姉さまを試そうとした、そのために落語のお話を下敷きにした――その点では、お姉さまのお考えは当たっています。でも、涼子が試そうとしたのは、お姉さまの愛情が本物かどうかっていうことではありませんの」
「というと?」
「そもそも、涼子、お姉さまの愛を深く信頼しておりますし、それにお姉さまが涼子の体のことを先に心配なさっても、パソコンのことを先に心配なさっても、どちらでもよかったんです。もちろん、さっきお姉さまから、大丈夫か? 足をくじいてないか? って、お声をかけていただいたとき、涼子、とっても幸せを感じました。でも反対に、いったい私のパソコンになにをしたんだって、叱られたとしても――」
「それだと、嫌だろ?」
「いいえ、いいえ」と、涼子は、首を妙に力強く横に振った。
「それでも涼子、ある種の幸せを感じたと思います。だって涼子、ドMですもの……時にはお姉さまから厳しく叱られてみたいって、そんな願望を抱いていますの」
「私は、涼子のことを、そんなふうにヒステリックに怒ることはしたくないなあ」
「そこがお姉さまの素晴らしいところです。そのこと、涼子もちゃんとわかっています。ですから、やさしく声をかけていただいて、やっぱりとっても嬉しかったですわ」
「それじゃ、涼子?」
真琴さんは、本心から尋ねた。
「お前はいったい、私のなにを試そうとしたんだ?」
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「実は……」
涼子はひざまずいた姿勢のまま、両手の指を絡ませながら、しばらくのあいだもじもじしていた。真琴さんが黙って待っていると、やがて意を決したように――
「お姉さまの聡明さを、試してみたかったんですの」
「私の……聡明さ?」
「もちろん、お姉さまが成績優秀な秀才であるってことは、涼子もよく存じています。なんといっても、学費全額免除の特待生で入学なさったかたですもの。でも、単に勉強ができるっていうこととは別の知性というか……推理力っていうのか……ほら、涼子……将来は私立探偵になるつもりでしょう? ですから、お姉さまもある程度の推理力をお持ちだったら、とっても嬉しいなって……」
「それで、その推理力っていうのについて、結果はどうだったんだ?」
「もちろん合格です、お姉さま。だって、落語をもとにお芝居をするっていう涼子の企みを、ズバリと見破ってしまわれましたもの」
「あれが? あんなの、誰にでもすぐにわかることじゃないか」と、真琴さんはさっきと同じことを繰り返した。それに答えて、涼子もさっきと同じ回答を繰り返す。
「いいえ、そんなことありませんわ」
「そうなのか」
「そうですとも。だって、同じようなこと――つまり、本心を隠して、ちょっとしたお芝居をするっていうようなこと、涼子はいろいろな人に試してみるんですけど――あっ。もちろん、お姉さまには二度と、そんなこといたしませんけれど」
どうだろう、怪しい――と、真琴さんは思った。これからも、用心だけはしておいたほうがよさそうだ。
「それで、そんなお芝居をして見せても、たいていの人は、ちっともそんなことに気づいてはくださいませんの。それなのに、お姉さまは見事に、涼子の企みを見破ってしまわれました。素晴らしいです」
「そうかな。見え透いていたけど」
「それが、お姉さまの才能ですわ。お姉さまにはきっと、探偵の才能がおありになると思います。この涼子にだって負けないくらいの!」
「なんだか生意気」
「ごめんなさい、お姉さま」
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涼子はひざまずいたまま、両手をベッドにかけて――
「ね、お姉さま。涼子をやさしく叱ってくださいませんこと? 不遜にもお姉さまを試そうとした、このいけない涼子を」
「たとえば、どんなふうに?」
「なにか罰をくださるとか」
「罰ねえ。そうだなあ……とりあえず、さっきの続きをしてみたら?」
「続き?」
「私のパソコンのお掃除。でも、普通にするんじゃなくて……」
なんだか変に楽しくなってきた。
「少しだけ、恥ずかしい格好でやってみるっていうのは、どうだろう?」
「それって、つまり……」
「涼子だけが、下着姿になるとか。本当は素っ裸のほうがいいけど、それはまだ難しいかな。そしてね、涼子がパソコンのお掃除をしているあいだ、私が後ろにいて監督をしてあげる。ちょっとでも手を抜いたら、お前は怠け者だねって、恥ずかしいところをくすぐるっていうのは、どうだろう」
「あの……あの……」
涼子の頬が、次第に上気してきた。
「お姉さまがお洋服、脱がしてくださるのなら……」
「わがままだなあ」
そう言いながら、真琴さんは涼子の体を抱き寄せると、そのシャツのボタンに指を伸ばした。まだ触れられていないのに、涼子はくすぐったそうに、小さな笑い声を漏らした。
◆おまけ 一言後書き◆
これは、真琴さんと涼子が知り合って、まだそれほど時間が経っていないころのお話。時系列順だと、第3話か第4話あたりになるでしょうか。まだ二人とも初々しい感じですね。
2023年3月19日
美咲凌介(みさきりょうすけ)
1961年生まれ。福岡大学人文学部文化学科卒業。在学中、文芸部に所属し、小説や寓話の執筆を始める。1998年に「第四回フランス書院文庫新人賞」受賞。SMを題材とした代表作に『美少女とM奴隷女教師』『Sの放課後・Mの教室』(フランス書院)など。他に別名義で教育関連書、エッセイ集、寓話集など著書多数。
初出:P+D MAGAZINE(2023/03/23)