【SM小説】美咲凌介の連載掌編「どことなくSM劇場」第45話 オルゴール

人気SM作家・美咲凌介による、書き下ろし掌編小説・第45回目は「オルゴール」。小さな街のミニチュアが乗ったオルゴールを見つめる黒髪の少女。オルゴールをくれた少年は別の人と別の街に行ってしまった。悲しみに明け暮れた少女がオルゴールに“止まらないで”と願うと……? 美咲凌介のどこか不思議なSM世界をお楽しみください。

少女は、机の上のオルゴールをじっと見つめた。黒いまっすぐな髪が、首をかしげたその左目を少しだけ覆っている。部屋に満ちた光は青白い。夜。目覚まし時計の秒針が、かつて一度として休んだことのない時の行列を刻んでいく。どこかで犬が鳴いている。

少女の目を何にたとえればよいだろう。アーモンドの実の形をした、中央が黒く光る宝石。生まれたばかりの暗闇。さらさらとした目に見えない粒子を吸い込んで輝く小さな星。ふいにその目がかたく閉じられる。涙がぽろぽろとこぼれ出す。

(もちろんこれは、終わってしまった何かについての物語です。)

オルゴール。この単純な玩具を最初に作り出したのは誰だろう。その名前は、しかし今は聞かなくていい。知りたいのは、その人がその小さな箱に閉じ込めようとしたものが何であったのか、ということ。

そこにあるのは、一辺が十センチほどの黒い木の箱だった。箱の上面には円形の台が載せてあり、その上に小さな街のミニチュアが作られていた。郵便ポスト、パン屋、赤い屋根の家、青い屋根の家、映画館、そして通りを行くさまざまな人。

少女は、箱の裏の金色のねじをゆっくりと巻く。ゼンマイの締まる音がする。それから彼女は、箱の横から飛び出した小さなつまみをひねる。白い指。軽やかな音楽が流れ始める。古い時代の音楽。黒い箱の上にある小さな街の通りを、人形たちが歩き始める。郵便ポストを過ぎ、パン屋の前を過ぎ、赤い屋根の家を過ぎ――人々は同じ歩調でぐるぐると歩きまわる。

やがて音楽はしだいに緩やかになり、人形たちの歩みは遅くなる。途切れそうなひとつの音。もうひとつ、別の音。そして――いや、それでおしまい。街のミニチュアの上で、人形はもうじっと立ち止まっている。

少女は苛立ったような仕草で、もう一度ねじを巻き始める。さっきと同じように、ゼンマイの締まる音が鳴る。白い指が小さなつまみをひねる。流れ出す古い音楽。

(あのとき、あの人は言ったのでした。)

「君にこれを贈りたい。受け取ってください」

でも、もうその少年は、この街にいない。少年は別の人と、別の街に行ってしまった。残されたのは、あのとき贈られた黒いオルゴールと、一人の少女。

(いつだって取り残されるというのは、やりきれないものです。)

音楽はもう止まろうとしている。ひとつひとつの音が、途切れがちに響き、風にゆれる古い扉がきしむような、微かな金属の音がそれに混じる。心が思わず叫び声をあげる。

止まらないで。止まらないで、オルゴール。

(そのとき、気がつくと少女は、見知らぬ街にいたのです。)

一度も来たことのない、そのくせなぜか見慣れたような風景が広がっている。不思議な街。風が吹いている。空はとてもよく晴れているようだけれど、少女はそれをたしかめることができない。理由はわからないが、少女の目はすぐ前を歩く少年の背中から離れないのだ。あの少年かもしれない。そうだ、あの人かもしれない。ここは、あの人が住んでいる街なのかもしれない。

どこからか音楽が流れてくる。古い時代の音楽。どこで鳴っているのだろう、と少女は心の中で首をかしげる。聞いたことがある。たしかに、いつも聞いていた。オルゴール。そうだ、あの黒い小箱。

少女は、目の前を歩く少年に追いつこう、と思う。すぐそこなのだ。手を伸ばせば届きそう。でも、追いつくことはできなかった。いつまでも。

音楽がしだいにゆるやかに、そして途切れがちになってきた。なんだかすごく疲れたみたい、と少女は思う。もう歩けない。少年も立ち止まっている。赤い郵便ポスト。オルゴール、そう――止まらないで、オルゴール。

(ふと気づくと、やっぱり少女は見知らぬ街にいるのです。)

一度も来たことがないはずの、そのくせなぜか見慣れたような――目の前を歩く少年。音楽が鳴っている。古い時代の――そうだ、オルゴール。あのオルゴール。何を思い出そうとしているのだろう、あの人に追いつかなければ。追いつきさえすれば、わかると思う。たぶん何もかも、わかると思う。途切れがちになる音楽。どこかで鳴っている――古い――なんだか、とても疲れているみたい。もう歩けない。青い屋根の家、映画館――止まらないで。止まらないで、オルゴール。ああ、どこかで犬が鳴いている。

(夜。オルゴールは、静かに鳴りやんだのでした。)

次の日、家族が目を覚ましたとき、少女はどこにもいなかった。人々は、すべての場所を探しまわったが、見つけることはできなかった。彼らが見つけたのは、机の上に置いてある黒いオルゴールだけ。少女の思い出の品として、それは大切に保管された。しかしその箱の上に並ぶ人形の数がひとつだけ増えていることに、誰も気づかなかった。

◆おまけ 一言後書き◆
非常に不確かな記憶なので、あまり本気にせずに聞いてください。たしか吾妻ひでおのマンガだったと思うのですが、作者自身と思われる人物が、テレビのドラマか(あるいはマンガ本か?)なにかを見たあと、「ああ、○○ちゃんは今回も不幸だった!」と、幸せそうに叫ぶ場面がありました。今回の話は、そんな気持ちで書いたものでありまして、まあ、そのあたりがSMですかね。

2022年6月15日

美咲凌介(みさきりょうすけ)

1961年生まれ。福岡大学人文学部文化学科卒業。在学中、文芸部に所属し、小説や寓話の執筆を始める。1998年に「第四回フランス書院文庫新人賞」受賞。SMを題材とした代表作に『美少女とM奴隷女教師』『Sの放課後・Mの教室』(フランス書院)など。他に別名義で教育関連書、エッセイ集、寓話集など著書多数。

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初出:P+D MAGAZINE(2022/06/21)

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