【新連載】SM小説家美咲凌介の名著・名作ねじれ読み<第1回>
新連載がスタート!SM小説家の美咲凌介が、名だたる名著を独自の視点でねじれ読み!第1回目は『赤毛のアン』。今まで知らなかった、新しい世界が覗けます!
『赤毛のアン』――わたしはなぜSM小説を書いてしまったのか?
美咲凌介
美咲凌介という筆名は、これまでSM小説(と、わたしが認知しているもの)を書くときにだけ使ってきたもので、それ以外のものを書くのに使うのは、今回が初めてである。なぜ、ここにそんなものを持ち出してきたのか。
実は、わたしが今から始めようとしているのは、うかうかとSM小説なるものを書いてしまうような、ある一人の人間(つまりわたし)は、本を読むときに「一種の妙な身構えやこだわり、飛躍する連想、時には引け目といった、いわば一種のねじれのようなもの」を感じてしまうものだ、という話なのである。したがって、やはりここは「SM小説」の作者である美咲凌介という名前を出したほうがよかろう、と思ったわけ。
そんなわたしは、時々、知人から「なんでSM小説なんか書こうと思ったの?」という質問をされることがある。この質問にごく簡単に答えるならば、「『赤毛のアン』を読んだから。」ということになるだろうか。
と言っても、なかなか話は通じないと思うので 、まずは、わたしが若いころに読んだSM小説(あるいはそれに類するもの)が、ちっとも面白くなかったという話から始めよう。わたしは、十代から二十代にかけて、谷崎潤一郎のいくつかの作品を皮切りに、団鬼六や千草忠夫 の諸作品、マルキ・ド・サドの『新ジュスチーヌ』、ポーリーヌ・レアージュの『O嬢の物語』、果ては沼正三の『家畜人ヤプー』まで読んだが、ついに「これは文句なくおもしろい!」という作品には出会えなかった。 ただし、これは、今挙げた数々の作品がどれも凡作だ、と言っているわけではない。むしろ、どれもわたしが傑作と思うものばかりなのだ。ただ留意していただきたいのは、SM小説の評価の基準というものは尽きるところ嗜好、下世話な言葉で言えば性癖にある、という点である。たとえ芸術的に完璧な作品であったとしても、それが読む者の性癖に合わなければ面白いとは感じられない、というのがSM小説というものではないか。
さて、面白い、言いかえると自分の性癖にぴったり合うSM小説がないとなると、どうすればよいか。自分で書くしかない――のである。だからわたしは、「いずれ自分で、自分の嗜好にぴったりと合うSM小説を書くことになるだろう。」と思っていた。しかし、実際には、そう思い始めてから十年以上、わたしはそれを書かなかった。なぜか。
そのころ、わたしが心に思い描いていた理想のSM小説には、ある少女が登場しなければならなかった。SMと言えば、必然的にSの立場の人物とMの立場の人物が必要なわけだが、わたしが空想するその少女は、SでもありMでもある という設定で、小説世界のどこにでも顔を出し、物語を切り回して先へ進める原動力となるはずだった。ところが、その少女の具体的なイメージが、今一つはっきりしない。それで、いつまでも(十年近くも)書き始められなかったのである。
そんなあるとき、仕事の関係で『赤毛のアン』を読み返したのだが、読み始めて三十分もしないうちに、わたしは「ああ、これだ!」と確信した。そして読み終わったときには、長らく求めていたSM小説のヒロイン(のうちの一人)のイメージが、頭の中にすっかり完成していたのである。 と言って、別にわたしは、「赤毛のアンに鞭を持たせて、他の女の尻をひっぱたかせたら面白かろう。」とか、「赤毛のアンを裸にひん剥いたら興奮しちゃうぜ。」などというお下劣な空想に浸っていたわけではない。ただ、アンの際限のないおしゃべり、そのおしゃべりが場面を制圧する力を見て、わたしがぼんやりと夢想していたヒロインもまた、このようにその場を支配しなければならない、と確信したわけ。
言うまでもなく『赤毛のアン』は、カナダの大自然の中で暮らす一人の少女、アンの成長の物語である。アヴォンリーの村に住む初老の兄妹、マシュウとマリラは、農作業の手伝いをしてもらおうと、孤児院から男の子を引き取ることにした。ところがちょっとした手違いがあり、駅まで迎えに行ったマシュウを待っていたのは、真っ赤な髪とそばかすだらけの顔をした、やせっぽちの十一歳の少女だった。 舞台となったのは作者モンゴメリの故郷プリンス・エドワード島。『赤毛のアン』には随所にこの島の美しい自然が描写される。以下は、アンがマシュウの馬車に乗せられて、これから自分が暮らすことになる家――グリン・ゲイブルス(緑の切妻)という呼び名の家――に向かうときの一場面。
ニューブリッジの人々が「並木道」と呼んでいるこの道は長さ四、五ヤードで、何年か前に、ある風変わりな農夫が植えた巨大なりんごの木が、ぎっしりと枝々をさしかわして立ちならんでいた。頭上には香り高い、雪のような花が長い天蓋のようにつづいていた。枝の下には紫色の薄暮が一面にたちこめ、はるかさきのほうに、寺院の通路のはずれにある大きなばら形窓のように、夕やけ空が輝いていた。(村岡花子訳。以下引用部分は全て村岡花子訳。)
モンゴメリはプリンス・エドワード島の自然をよほど愛していたらしく、こうした簡潔で美しい情景描写は、『赤毛のアン』全編を通じて数えきれないほど散りばめられている。 この自然描写と並ぶ『赤毛のアン』のもう一つの特徴は、言うまでもなくアンのおしゃべりである。自分がもらわれてきたのは手違いで、ひょっとすると明日にも孤児院に送り返されてしまうかもしれないと知ったアンは、「絶望のどん底」に落ち、食事も喉を通らない。だが、そんなときでも、彼女はおしゃべりだけはやめないのだ。
アンはため息をついた。 「食べられないの。あたし、絶望のどん底に落ちてるんですもの。小母さんは絶望のどん底にいるときものが食べられて?」 「わたしゃ、絶望のどん底になんか、いたことがないから、なんとも言えないね」マリラは答えた。 「ないの? それじゃ絶望のどん底にいるときのことを想像してみたことがあって?」 「いいや、ないね」 「なら、どんなものかわからないでしょうね。それはほんとにいやな気持ちよ。食べようとすると、のどにかたまりがつきあがってくるもんで、何にも、のみくだせないの。たとえチョコレート・キャラメルだってだめよ。二年前に一度チョコレート・キャラメルを一つ食べたけれど、何ともいえなくおいしかったわ。それからはよく、たくさんのチョコレート・キャラメルを持った夢を見るけれど、ちょうど食べようとする、いつも目がさめてしまうの。あたしが食べないからって、わるく思わないでください。口当たりはとてもおいしいんですけれど、それでも食べられないの」
チョコレート・キャラメルへと話がずれていくところに、微かなおかしみがあって、思わず頬が緩む会話だが、アンはこうしたおしゃべりで、出会う人を次々と魅了していく。このおしゃべりをマリラは「魔法」と呼んだ。初めのうちアンを孤児院に送り返そうと考えていたマリラは、兄のマシュウにこう言うのである。
「マシュウ、きっとあの子に魔法でもかけられたんだね。あんたがあの子を置きたがっているってことが、ちゃんと顔に書いてありますよ」
また、少しあとの場面では、彼女はこんなふうにも考えている。
「マシュウの言うとおり、たしかにおもしろい子ではあるね。わたしまでも、あの子がつぎに何を言うかと待ちかまえるしまつだもの。わたしにも魔法をかけるつもりだろうよ。(…略…)」
つまり、アンは、おしゃべりの力で、常にその場、そこにいる人々を支配してしまうのだ。あたかもサディストがマゾヒストを支配するように、あるいは、マゾヒストがサディストを支配するように――などと言うと、なにか突然、とんでもないことを言いだしたように聞こえるかもしれないが、そのあたりの機微は、わたしがたどたどしく説明するよりも、もう少し『赤毛のアン』から引用したほうが、よくおわかりいただけるかと思う。以下は、最初に引用した「並木道」を通る場面のあと、アンが語った言葉。彼女は、美しいものを見たときに感じる胸の痛みについてこう言う。
「あたしは何回あったかしれないわ――しんから美しいものを見るたんびに。だけどあそこを並木道なんて呼んじゃいけないわ。そんな名前には意味がないんですもの。こんなのにしなくては――ええと――『歓喜の白路』はどうかしら? 詩的でとてもいい名前じゃない? 場所でも人でも名前が気にいらないときはいつでも、あたしは新しい名前を考えだして、それを使うのよ。孤児院にヘプジバー・ジェンキンズという名前の女の子がいたけれど、あたし、その子のことをいつもロザリア・ディビエと考えていたの。(…略…)」
ここで注意してほしいのは、アンが並木道に自分で勝手に「歓喜の白路」という名をつけたり、女の子に「ロザリア・ディビエ」という名をつけたりしている点である。(アンは、このほかにも、いろいろなものに独自の名前をつける。)
世界の認識とは、要するに世界の解釈にほかならない(とわたしは思う)が、事物にそれぞれ名前をつけることは、解釈の基本となる行為だと言えるだろう。そして、実はこれこそが、サディズムの最も本質的な部分に重なるのではないか。
もちろん、「並木道」を「歓喜の白路」と呼ぶこと自体は、まだサディズムではない。しかし、ある人間が他の人間をつかまえて、「お前の名前はこれまで〇〇だったかもしれないが、これから俺はお前をポチと名づけるよ。」と言い出したとしたら、これはサディスティックな 行為に(冗談ではなく)かなり近い。だから、あだ名をつけることが、しばしば「いじめ」につながってしまうわけである。
――というような理屈をこねるとなんとも興ざめだが、アンはそんな理屈を並べるのではなく、ただ可憐なおしゃべりによってサディズムの基本を見事に表現してくれている。少なくとも、「ひとつ自分もSM小説とやらを書いてやろう。」と考えていた当時のわたしには、そう感じられたのである。 アンはわたしに、サディズムの要諦を教えてくれただけではない。マゾヒズムというものの構造も、きわめて明確に示してくれた。以下は、アンが近所に住むレイチェル・リンド夫人に無礼な態度をとってしまったため、謝らされたときの場面。
ひと言も言わずにいきなりアンは、びっくりしているレイチェル夫人の前にひざまずいて、哀願するように両手をさしのべた。 「ああ、小母さん、わたくし、このうえなく、わるうございました」とアンは声をふるわせ、「わたくしがどのくらい悲しんでいるか、とても言いつくせません。それはただ想像してくださるよりはほかにしかたがないのです。(…略…)小母さんがほんとうのことをおっしゃったのをおこったりして、とてもわるうございました。小母さんが言ったことはみんなほんとうでした。わたくしの髪(かみ)は赤いし、そばかすだらけで、やせっぽちで、みっともないんです。わたくしが小母さんに言ったこともほんとうだけれど、でも言ってはいけないことでした。ああ、小母さん、どうぞ、どうぞ許してくださいな。(…略…)」 アンは手を組み合わせて、頭をたれて、判決を待った。 アンが真剣なことはたしかで、その一語一語にあふれていた。疑う余地のない真実の響きを、マリラもリンド夫人もみとめた。しかしマリラのほうは、アンが明らかにこの屈辱の瞬間を大いに楽しんでおり――この完全なへりくだりに陶酔しているのを見てとってあきれかえってしまった。
アンの謝罪の言葉は、サディストの求める要素を完璧に満たしている。自分の非を認め、事態に関する相手の解釈を受け入れ、相手の放った自分への侮辱を復唱し、許しを乞う。しかもそれは、「明らかにこの屈辱の瞬間を大いに楽しんでおり――この完全なへりくだりに陶酔している」行為なのである。これはマゾヒスト の最も基本的な心得ではなかろうか。
というわけで、アンはサディズムとマゾヒズム両方の要素を見事に併せ持つ存在として、わたしの前に現れたのである。わたしは、この『赤毛のアン』を読んですぐ、長年胸に温めていたSM小説の執筆に取りかかった。そして、約三か月で、原稿用紙七百五十枚ほどの長編を書きあげてしまった。
もっとも、このとき書いた小説は、結局はまだ出版されていない。わたしが書いたSM小説で出版されたのは、このあとに美咲凌介という筆名で書いた六作品と、別の筆名を使って書いた二作品の計八作品である。
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