『ラプンツェル』(グリム童話集)| SM小説家美咲凌介の名著・名作ねじれ読み<第2回>

大好評の連載第2回目。SM小説家の美咲凌介が、名だたる名著を独自の視点でねじれ読み!今回は『ラプンツェル』(グリム童話集)。新しい視点で名作に親しんでみませんか?

カレー心あればSM心あり

 好きな漫画家と言えば、伊藤理佐。この人の『おいピータン』という作品の中に、「カレー心」というものが出てくる。「カレーが食べたい。」という気持ちを擬人化した存在で、インド人風のターバンを巻いた二等身の子どもの姿をしている。「ボクはおとーちゃんのカレー心だよ? なんのうんちくもこだわりも新発売もいらないよ?」と言いながら、カレー心を産み出した本人――カレーを食べたいと思っている若いサラリーマン――に 迫ってくるさまが、なんともほほえましい。

 この「カレー心」に倣って言えば、「SM心」というものも、あるような気がする。ふとした拍子に突然、SM的なものへと連想が飛ぶきっかけとなるようなもの、と言えばいいだろうか。それは、SM的なアダルトビデオを見たり、SM小説を読んだりしているときに現れるものではない。そうした行為はむしろ「SM心」の結果なのであって、そのときには既に「SM心」は 消えつつある。それは、カレーを食べるのが「カレー心」の結果にすぎないのと同様である。

 では、いったいどんなときに「SM心」が湧きたつのか。わたしの場合、最もよくある(過去にあった)ケースは、「童話や昔話を読んでいるとき」である。

 高校生のころ、妙に童話や昔話にはまった時期があって、グリムやアンデルセン、小川未明などの童話集を買いあさっては読み散らしたものだが、それと同じ時期に谷崎潤一郎や団鬼六、サド侯爵などにも興味を持ち始めていたようだ。今から思えば、これはいろいろな童話集を読むことで芽生えた「SM心」のなせる業だったのかもしれない。  

 童話や昔話というものは、妙に「SM心」をかきたてるものなのである。もっとも、「妙に」と言うのは間の抜けた話で、本来は「当然のことながら」とでも言うべきだろうか。というのは、そもそも昔話や童話というものは残酷な面を持っているものだからである。

『本当は』に、だまされた?

 このあたりをうまく衝いたのが、しばらく前にヒットした桐生操の『本当は恐ろしいグリム童話』だろう。この本は、タイトルの付け方も巧妙だった。「本当は」と言われると、「今まで俺の知っていたグリム童話は本当ではなかったのか。本当のグリム童話は、どんなに恐ろしいのだろう。」と興味を惹かれる。それに釣られて、ついついこの本を買い求めたのが、ほかならぬこのわたしである。その結果、どうなったか。  

 だまされた――と思いましたね、わたし。

 いや、もちろん、『本当は恐ろしいグリム童話』が嘘をついていた、というわけではない。問題は「本当は」という言葉の解釈が、わたしの解釈とは異なっていた、ということなのだ。以下は、『本当は恐ろしいグリム童話』の「はじめに」の中にある一節。

そこで私たちは、それら学者たちのさまざまな解釈を参考にして、グリム童話“初版”の残酷で荒々しい表現法を残しながら、その奥に隠された深層心理や、隠された意味を徹底的にえぐり出して、もっと生き生きして生々しい『グリム童話』を、自分なりの解釈と表現法で形作ってみた。 (桐生操『本当は恐ろしいグリム童話』)

 つまり、この本は桐生操(女性二人の共作の筆名ということである)の解釈したグリム童話であり、「(学者たちのさまざまな解釈を参考にした)私たちの解釈こそが本当」という意味での「本当」だったわけである。現在、流布しているグリム童話とは別に、より正当で恐ろしいグリム童話がかつて存在していた、という話ではない。  

 もっとも、一SM小説家として、この「桐生操の解釈によるグリム童話」は、それなりに興味深い面もあった。というのも、こいつはなかなかSM風味に富んでいたのである。

  たとえば、『本当は恐ろしいグリム童話』の白雪姫は、父親である王と近親相姦をしていて、実の母親の王妃とは性愛のライバル関係にある。しかも、父王に自分の足先をしゃぶらせたり、気に入らない小姓や小間使いを鞭打たせたりして喜ぶというSっ気を発揮する。王子のほうはと言えば、なんと死体愛好症で、白雪姫の死体(実は毒リンゴを食べて仮死状態になっている)を何度も犯してしまうのである。

 要するに異常性愛者の見本市のような話になっているわけで、それならSM小説家の美咲凌介は大喜びだろう、と思う人がいるかもしれないが、実はそうではありません。

 興味深いとは思うものの、決して喜ばしい気分にはなれない。 問題は、もう「SM心」をかきたてられる余地がない、という点にある。こうたっぷりSM風味を振りかけられてしまったら、それは他人の「SM心」の結果を見せつけられているようなもので、こちらの「SM心」は出る幕がなくなってしまうからだ。率直に言わせていただければ、いささか「げんなり」してしまうわけ。では、翻ってこの『本当は恐ろしいグリム童話』をSM小説として読めるかと言うと、今度は実に中途半端と言うほかはない。

02

本当に恐ろしいのはどっち?

 それに、グリム童話は別に新しく解釈しなくても、初めからなかなか「恐ろしい」ところをふんだんに持っているのである。

 たとえば、『灰だらけ姫』(シンデレラの原話)に出てくる、意地悪な二人の姉は、最後にはいったいどうなったか。

花むこと花嫁が教会に行くとき、姉は右がわに、妹は左がわについていきました。すると、二羽の白い小鳩が飛んできて、姉たちの片目を一つずつ、つつきだしてしまったのです。 いよいよ式がすんで、ふたりが教会から出ようとすると、姉は左がわに、妹は右がわにつきそっていました。すると、また二羽の小鳩が飛んできて、姉たちの、もう一方の目玉をつつきだしてしまいました。(『灰だらけ姫』植田敏郎訳)

また、『ヘンゼルとグレーテル』の悪い魔女は、パン焼きがまの中で焼き殺されてしまう。

魔女は、ほえはじめました。そのものすごさといったらありません。でもグレーテルは、そのまま逃げだしたので、わるい魔女は、むざんにも焼け死ぬよりほかはありませんでした。(『ヘンゼルとグレーテル』植田敏郎訳)

『白雪姫』のラストは、原作では次のようになっている。

お妃が(白雪姫と王子の結婚式に)行ってみると、お妃にはそれが白雪姫だということがわかりました。心配と驚きのために、お妃はそこに棒立ちになりました。でも、もう鉄のスリッパは炭火の上に置かれ、火ばしで持ってこられ、お妃の前に据えられました。そこでお妃は、真っ赤に焼けたスリッパをはかされました。そして死んで地にたおれるまで踊りつづけるよりほかはなかったのでした。(『白雪姫』植田敏郎訳)

ちなみに、この同じ場面を、『本当は恐ろしいグリム童話』では、次のように叙述している。

執行人が二股の火箸でその上靴をはさんで、王妃の前に運んできた。泣き叫んで抵抗するのも虚しく、王妃は真っ赤に焼けた上靴を無理やりにはかされた。  ……略……  人間の肉の焼けるむかつくような匂いの中で、王妃の肉体は大きく飛びはね、踊って踊って踊りつづけた。そしてついに、力尽きて、その場にばったり倒れたのである。(桐生操『本当は恐ろしいグリム童話』)

原作では、殺される王妃は意地悪な継母。しかし、『本当は恐ろしいグリム童話』では、殺されるのは実の母である。この白雪姫の実の母親は、夫を白雪姫に盗み取られた被害者、ということになっているため、「恐ろしい話」というよりは、なんだか「気の毒な話」になってしまっている。

  グリム童話は、創作ではない。もちろん初めに物語を考えついた誰か、は存在したのだろうが、それは名も知れぬ誰か、である。しかも、おそらく一人ではない。グリム童話とは、無数の語り手が少しずつ削ったり付け加えたり、ときには内容を変えたり しながら伝承してきた「昔話」であり、それをヤーコプとウィルヘルムという二人のグリム兄弟が聞き取り、本にしたものである。  

 わたしには、原作のシンプルな記述のほうが、より「恐ろしい」。悪人は無惨に滅びるがいい――という一途な正義感が恐ろしい。かわいそうな主人公をいじめた悪い魔女や継母が残酷な仕打ちに遭う結末を聞き、安心して眠りにつく子どもたちの、満足しきった邪気のない無慈悲さが恐ろしい。

囚われの美女『ラプンツェル』

 ただし 、恐ろしければ「SM心」が発動するか、と言えば、そういうものでもない。(もっとも、そういうものだ、という人もいるのかもしれないが。)SM小説は、恐怖小説とは、またちょっとだけちがうものなのである。

  目をえぐられたり、足を焼かれたり、あげくの果てには殺されてしまったりすると、わたしの「SM心」はどこかにいなくなってしまう。むしろ、グリム童話で言えば、あまり残酷なところのない『ラプンツェル』のほうが、わたしの「SM心」をかきたてる。  

 『白雪姫』や『シンデレラ』ほど有名ではなさそうなので、ここでごく簡単に『ラプンツェル』の粗筋を紹介しておこう。

昔、ある夫婦がいた。妻は妊娠すると、魔女の家の庭に生えているラプンツェル(サラダ菜のちしゃ)を欲しがる余り、死にそうになった。そこで夫は、魔女の庭に忍び込んではラプンツェルを盗み取り、妻に与えていたが、あるときとうとう魔女に見つかってしまう。魔女は、生まれてくる子を自分に与えることを条件に、ラプンツェルを採ることを許してくれた。

やがて妻は、女の子を産んだ。魔女はその子を「ラプンツェル」と名付け、夫婦から奪い取ってしまった。ラプンツェルが美しい少女へと成長すると、魔女はラプンツェルを森の中にある塔に閉じ込めた。会いたいときには、窓から垂れさせた少女の長い髪を伝って塔に登るのである。あるとき、ラプンツェルの美しい歌声に心惹かれた王子がその秘密を見つけ出し、魔女と同じ方法で塔に登る。王子とラプンツェルは、塔からの脱出を考えるようになるが、二人の逢瀬を知った魔女は、ラプンツェルの髪を切った挙句に、彼女を荒野へ追いやってしまった。そして知らずにやって来た王子に向かって、「お前はラプンツェルに二度と会うことはできない」と嘲りながら宣告した。 塔から飛び降りた王子は、いばらのとげに眼を刺され盲目となり、森の中を何年もさまよい歩く。そしてとうとうラプンツェルを見つけ出す。ラプンツェルの涙で王子の眼は再び光を取りもどし、二人は王子の国で長く幸せに、楽しく暮らした。

と、まあ、『ラプンツェル』というのは、こんな話である。この話がどうして「SM心」をかきたてるかと言うと、これはいわば「囚われの美女」の物語だからである。この「囚われの美女」というモチーフほど、わたしの「SM心」を湧きたたせるものはない。  

 もちろん、このグリム童話には一行も書かれていないが、美少女が監禁されている以上、その密室の中で食事や排泄がなされなければならない。それはいったい、どのように行われていたのか。または、入浴を始めとする、美少女にとって不可欠な身体の手入れはどう処理されたのか。どうしたって、そこにはなんらかの辱めがあったにちがいない。  

 また、脱出しようとした挙句に失敗してしまう、という点にも心惹かれる。一筋の希望が打ち砕かれる無惨さ。これはきわめてSM的ではあるまいか。王子が盲目になってしまうというのも、なかなか胸に迫るものがある。原作では、無事ラプンツェルに出会って、目も再び開き、めでたしめでたしというわけだが、もしそうはならずに、二人そろって再び魔女につかまってしまうとしたら、どうだろうか。ラプンツェルを守って戦うべき王子は、盲目で何の役にも立たない。全くの無力で、美少女ともども惨めな辱めをうけることになるだろう。このぶざまな無力さ、というのも、SM小説に不可欠な要素の一つだ(と、わたしの「SM心」は告げるわけである)。  

  繰り返すが、もちろんグリム童話の原作には、こうしたことは一言も書かれてはいない。だから、以上述べたことは、解釈ではなく空想――妄想である。そして、書かれていないからこそ妄想も自由になるのであって、これが最初からSM的色彩にべっとり彩られていたとしたら、かえって読む側(そして昔話だから、より根本的に言えば聞く側)の「SM心」は発動しない。つまり、グリム童話の原作には、ほどよい空白が残されている、と言うことができるだろう。

グリム兄弟に感謝!

 書かれていない――という点について、もう少し突っ込んだ話をしたい。魔女は、美しい少女へと成長したラプンツェルを森の中の塔に閉じ込めるわけだが、なぜ、そんなことをしたのか。その理由が、グリム童話の原作には一行も書かれていないのである。これは、単に空想する余地があるということ以上に、物語の基本的な構成として、非常に不思議なことのように思える。それまで手元においていた少女を自分の住まいから離れた塔に監禁する、という大転換が生じる場合、近代以降の小説ならば、必ずその理由を書かなければならない。その転換に至るいきさつや、そう決意した魔女の心理についての叙述は、小説家にとってはいわば腕の見せ所になるはずのものだ。 いや、これは小説ではない、ただの昔話だ、と言ったところで、ラプンツェルがなにか粗相をしたから罰として閉じ込めた、とか、ラプンツェルが両親に会いたがるようになったので、それを防ぐために監禁したとか、その他いくらでももっともらしい理由がつけられそうだが――そして、そんな理由は二、三行もあれば、書き足せそうなものだが――実際には一言もその理由には触れていない。  

  おもしろいことに、『本当は恐ろしいグリム童話Ⅱ 』のほうでは、この理由がきちんと説明されている。魔女とは実はかつて男に捨てられた老女であり、男というものに復讐するために、美少女ラプンツェルを利用しようとした。ラプンツェルは、老女の言いつけに従って、犠牲者となる男を呼び寄せるために塔に籠り、美しい歌声で彼らを惑わす、というのである。  

 だが、これではもはや「囚われの美女」の物語とは言えない。わたしとしては、大いに不満足だ。(もっとも、こちらのほうが良いという人がいるだろう、ということは否定しない。)   原作のほうでは、次のように記されているだけだ。

ラプンツェルが十二歳になったとき魔女は、この少女を高い塔にとじこめてしまいました。(『白雪姫』植田敏郎訳)

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 このあと、「なぜなら……」と理由が語られることもない。 実に不思議である。  

 だが、よくよく考えてみると、不思議でもなんでもないのかもしれない。なぜなら、囚われの美女を求める「SM心」の要請にしたがえば、美少女ラプンツェルは当然監禁されなければならない存在だからである。ラプンツェルが監禁されるのは、もう決まっている。となれば、その理由は書く(語る)のも、読む(聞く)のもわずらわしく、面倒なだけではないか。いや、面倒というだけでは済まない。『本当に恐ろしいグリム童話』のように、もっともらしい理由を付け加えられては、囚われの美女を求める「SM心」が発動できなくなるのである。  

 とすると、どうやら『ラプンツェル』を語り伝えた当時のドイツの人々の中にも、(SMという言葉はなかったとしても、実質的な意味において)「SM心」は存在したと言えるのではないだろうか。

 そして、グリム兄弟も余計なことを書き加えることなく、当時語られていたままの形で――言い換えると、「SM心」を壊してしまうことなく、この物語を収録したのだ、とわたしは信じることにする。

 そんなグリム兄弟に、感謝の念をささげたい。

プロフィール

美咲凌介(みさきりょうすけ)

1961年生まれ。福岡大学人文学部文化学科卒業。在学中、文芸部に所属し、小説や寓話の執筆を始める。1998年に「第四回フランス書院文庫新人賞」受賞。SMを題材とした代表作に『美少女とM奴隷女教師』『Sの放課後・Mの教室』(フランス書院)など。他に別名義で教育関連書、エッセイ集、寓話集など著書多数。

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初出:P+D MAGAZINE(2017/05/27)

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