【5回連続】大島真寿美、直木賞受賞後初の書き下ろし小説『たとえば、葡萄』独占先行ためし読み 第4回

作家生活30周年となる、大島真寿美さん。直木賞受賞後初の書き下ろし小説『たとえば、葡萄』が、9月16日に発売されます。独占先行試し読み第4回目はコロナウィルスで汲々としてきた3月半ば、三宅と再会した主人公・美月は、母親も今の自分と同じ年齢でモデルの仕事を辞めて自分を産んだことを知ります。話しているうちに会社を辞めたきっかけを聞かれますが……。

 

【前回までのあらすじ】

仕事を辞め、「いい年にしてやる」と心に誓った美月だったが、コロナウィルスの出現で瞬く間に状況が激変。当たり障りのないメールのやり取りで肝心なことは伝えずうまくにスルーしていた母親からも電話がきてしまう。なかなか正直に事実を伝えられない美月だったが……?

 

【今回のあらすじ】

母の友人の三宅が市子宅を訪れ、母親も今の自分と同じ年齢で売れてきたばかりのモデルの仕事を辞め、自分を産んだことを知る美月。マスクを販売して利益を得ていた三宅に誘われ、モデルをすることになった美月は、仕事を辞めた理由について問われて当時のことを思い出してしまい……?

【書籍紹介】

『たとえば、葡萄』9月16日発売予定

大島おおしま真寿美ますみ  プロフィール】


1962年愛知県名古屋市生まれ、1992年『春の手品師』で第74回文學会新人賞を受賞し、デビュー。2012年『ピエタ』で第9回本屋大賞第3位。2019年『渦 妹背山婦女庭訓 魂結び』で第161回直木賞受賞。その他の著書に『虹色天気雨』『ビターシュガー』『戦友の恋』『それでも彼女は歩きつづける』『あなたの本当の人生は』『空に牡丹』『ツタよ、ツタ』『結 妹背山婦女庭訓 波模様』など多数。

 

【本編はこちらから!】

 

 三宅ちゃんがやってきたのは、世の中がいっそうコロナウィルスに汲々きゅうきゅうとしてきた三月半ばだった。
 リビングで寝転がって本を読んでいたら、誰かお客さんがきたような気配があって、すぐに三宅ちゃんの声がした。
「あれ、美月じゃん」
 三宅ちゃんが、どすんと床に大きな手提げかばんを置いて、まさかここに美月がいるとは、と驚いている。
「わー、三宅ちゃんじゃーん! お久しぶりー! ひょえーっ。三宅ちゃん、なに、そのマスク、派手! すごっ」
「いかすでしょ。って、あんた、ここで、なにしてんの。あ、リモートワークになって会社行かなくてよくなったか?」
「ん? 会社?」
「コロナで休み? 時差出勤ってやつ?」
「あ?」
「だから会社。どしたの、今日。平日やん」
「やめた」
「やめた? なにを? 会社?」
「辞めた辞めた」
「やめた。……嘘、マジで。なんで? コロナで?」
「いや、コロナ関係なし」
「あんた、いくつ」
「二十八」
「二十八。あちゃー。二十八で会社、辞めちまったか。そうか。なるほど血は争えないね」
「なに? 血?」
「ちょっと市子、この子、奈津と同じことしてる、やっぱり、こういう血ってあるのかねー」
「血ってなに、血って」
 市子ちゃんが三人分のお茶をテーブルに置きながら、
「三宅ちゃん、それ、美月にいう? いっちゃう?」
 と顔をしかめる。
「いういう。いわずにおれようか。ちょっと、美月、あんたのママもそうやって辞めた辞めたっていきなり会社辞めちゃったんだよ昔。よーくおぼえてるよー。あんたよりもっと若いとき。そいで、モデルの仕事やる、っつって大見得切ってさ。おおまじめに。びっくらこいたもんよ。それでも、そこそこ売れてきてさ、ほー、って感心してたら、今度は、あんたくらいの歳になったときに、そのモデルの仕事も辞めた辞めた、ってすぱっと辞めちゃったんだよ。そいで結婚して、あんたが生まれてきたってわけ」
「げ」
「ね、市子、そうだったよね」
 市子ちゃんは苦笑いを浮かべながら、まあ、そうでしたっけね、という。
 母親がいっときモデルの仕事をしていたのは知っていたが、そのような経緯いきさつであったとは知らなかった。
 そいであんたはなにやるつもりでやめたの、と三宅ちゃんがキッチンに手を洗いに行きながら大声できく。水の音に混じって、モデル? という声がする。
「まさか」
 冗談にしてもきつい。
「じゃ、なに」
 キッチンから戻ってきた三宅ちゃんが、しつこくきく。
「なにっていわれても、まだなんとも。これからゆっくり考える」
「のんき」
「うん、のんき。だめ?」
「だめかだめじゃないかは自分で決めること」
「そうなんだ」
 お茶を飲むために三宅ちゃんがマスクを取る。
 テーブルの端に置かれた三宅ちゃんのマスクは近くでみると紺地にゴールドの花模様がしゅうされた、派手というだけでなく、たいへん美しく凝ったものだった。
 市子ちゃんも目ざとくそれを指摘する。
「なに、そのマスク、すごくいいじゃん。どこで手にいれたの」
「でしょう。売ろうかと思って」
「売る? それを」
「いや、すでに売ってるんだけどね、それを手伝うことにした。どうせ暇だし。なんかますます暇になりそうな嫌な予感がするし。ちょっとでも稼げることに手を出しといた方がよさそうだな、と思って、それでここに意見をききにきたってわけ」
 と三宅ちゃんが鞄の中からごそごそとなにやらたくさん取り出した。ジップロックに小分けされたマスクだった。
 色とりどり。色、というかデザインも生地もサイズもとりどり。
 市子ちゃんはさっそく手に取り、この生地はなんなの、とか、洗えるの、とか、値段は、とか、質問している。三宅ちゃんも律儀にこたえている。
 誰が作っているのかといえば、三宅ちゃんの事務所のいとちゃんの夫のじゅんさんなのだった。もともと服作りが趣味で自分の服も妻の服も娘の服もみーんな準さんが作っていて、それをインスタとかに載せてけっこう人気もあって、本業は眼鏡屋で働いている人なんだけど、どっちかっつーと趣味に生きてる感じで、こういうマスクをいかにも作りそうな人ではあった。世の中のマスク不足もあって、売ってほしいという声がきこえてきたので、試しにネットで売ってみたら即、完売して、そんなにもうかるというわけでもないけれど、生地のストックがたくさんあるし、楽しみつつ、作っては売っているのだという。
「はじめはこういうシンプルなやつだったんだけど、あの子、根がデザイナー気質だから、どうせならこんな感じのやつを作りたいわけよ。どんどん作りたいわけよ。そんでも、ここまで凝ると手間がかかるし、ある程度、値段を上げないとペイできない。それで、小糸ちゃんがなんとかならないかなーっていってきたわけ。これを売ってちょっとでも稼げるんなら作らせてもいい、家事も多少免除してやってもいい。でもただの趣味で延々こんなことされてても困る、っていうわけ。そんなら、準ちゃんには好きに突き進んでもらって、それを売る道をさがしましょ、高値でも買うって人はきっとどこかにいるはず、っていってやったのさ。でさ、シンプルな方は我々で作って売ろうか、ってなってさ。ほら、今、マスク欲しい人っていっぱいいるわけだし、縫製のできる友達だっているにはいるんだし、生地もあるし、小遣い稼ぎになるし、誘ってみたらやるやる、ってみんないうし、準ちゃんが作ったコピーを試作してみたわけ。サイズとかも変えてさ。それがこれ」
 と指差した。
 市子ちゃんがしげしげと眺めている。
 ふうんと、横から手を伸ばしてジップロックを一つ取り、眺めてみた。ふうん。ジップロックの端に値段のシールがってある。
「そそられるマスクではあるけども、どうだろね? やや高い気もするし、そんなに儲かるとは思えないな」
 と口を挟むと、三宅ちゃんに、きっ、とにらまれた。
「やや高いって、どこが! これは適正価格! この値段だってね、ギリギリなんだからね!」
 と大声でいわれた。
 むかっとしたので、
「適正価格っつったってね、売れなきゃ意味ないしね」
 と言い返し、ついでに、
「たとえ売れたとしてもだよ、ほんとにこれが適正価格かどうか、わかんないよね。ちゃんと計算した? 細かい経費とか、隠れた経費とか忘れてない? そういうの差し引いたら、じつは黒字になるかどうかも怪しいんじゃないの?」
 と指摘したら、ものすごーく嫌な顔をされた。
「美月、あんた、どうしてそう、つまんないことしかいわなくなっちゃったかね。こういう話をきいたら、まずは、なんか楽しそう、いっしょにやってみたい、とか、そっちを思わんかね? 準ちゃんに好きに作らせてやったら、なんか面白いものがみられそう、ちょっとみてみたいな、とか、そういうこと思わんかね?」
 思わないなー、と思ったけど、正直にいったら、またぶうぶういわれそうだから、あーそーゆー考え方もありますねー、と棒読みでいっておいた。
 三宅ちゃんが、目をすがめ、やな感じ、とつぶやいたけど、聞こえぬふりをする。
 市子ちゃんは、我々のやり取りにはいっさい関知せず、ジップロックに入ったマスクを吟味して、あれこれ質問している。三宅ちゃんもこっちを気にしつつ、いちいちこたえている。
 市子ちゃんだって、こんなもん、そうそううまくいきゃしないことくらい見抜いているだろうに、そういう指摘はぜんぜんせず、商品につけるキャプションだけじゃなくて、全体を見渡せる、ちょっと楽しい文章、書こうか? なんていっている。ねえねえ準ちゃんの作った服もいっしょに紹介してさ、こういう人が作ったんだ、ってことを見せたほうがこのマスクの面白さが伝わるんじゃない、とかいっちゃってさ。洗って何度でも使える、ってことだけじゃなくて、洗い方とかも、写真付きで丁寧にみせて、あ、ほら、日に干したマスクとか、土方ひじかたさんにアートっぽく撮ってもらったらいいじゃない、と提案までしてる。
 あ、いいねー、それいい! マスクのブツりだけはもうやってもらったんだけど、たしかにねー、そういうの、いいかもー、撮ってもらうかー、と三宅ちゃんが早速、その話に乗ってくる。たしかに、その手の丁寧さっているよねー、あと、ブランディングってほどでもないけどさ、我々はこういうものである、って知らせるのも必要かも。そこをちゃんと見せて、それを含めて買おうって気持ちになってもらったら我々としてもうれしいし、と声を弾ませている。
 その弾ませ方がなんか当て付けがましい、と思うわけだった。
 だいたい、このままこの成り行きで市子ちゃんが何か書いたとして、市子ちゃんはいちおうその道のプロなんだし、そのギャラを三宅ちゃんはちゃんと払うつもりでいるんかな、とも思うし、土方さんだって、三宅ちゃんの事務所の人ではあるけれども、所属してるってだけで、べつにお給料もらってるってわけじゃない、ってきいたことあるし、だったらギャラはきちんと支払われるべきだよね、とも思うし、まあそりゃ、さすがにそれは払われるんだとして、そういうの、三宅ちゃんのいう適正価格に反映されてるのかね、などなどと、次々疑問は湧くのだけれども黙っている。だってそれをいうと、また、やな感じ、とかいわれそうだし。
 二人は、ああでもないこうでもないと、まだしゃべっていた。あれはこうしたらいいとか、こういうのはどうだ、とか、わいわいやって、お茶をごぶごぶ飲んでいる。市子ちゃんがおかわりをいれるついでに、しょうせんべいを持ってきて、それをばりばりやりながら、まだマスクの話はつづいていた。よくそんなに話すことがあるもんだ、っていうくらい盛り上がっているのを眺めながら、そりゃ、楽しいに越したことはないし、面白いほうがいいに決まってるけど、そんなことばっかりいってられないじゃんか、と、否定的というより、やや愚痴っぽい気分になってくるのは、たかだか六年かそこらではあるにせよ、会社員生活でじゅうぶんに、そのあたりの現実を学んだからだろう、とは思う。現実的じゃない、とか、現実には無理、とか、やるだけ無駄、とか、はいはい、まあそうですよね、っていわざるをえなくなるあの感じ、あれがしっかり身についてしまったのかも。
 それを思えばこの二人、なんてのんきなんだろう、と思わずにはいられなかった。あなたたち、現実をちゃんとみてますか、って詰め寄りたくなる、っていうかさ。さっき三宅ちゃんに、のんき、っていわれたけど、三宅ちゃんの方がよっぽどのんきじゃんか、って思うよね。だって、三宅ちゃんの事務所なんてもう、ほんとに潰れそうな感じの低空飛行をずーっとつづけてるわけだしさ、近頃じゃ、何でも屋みたいになってるよ、って前に土方さんもぼやいてたしさ、こんなことやってる場合じゃなくない? だいたい、こんなことばっかやってるから、大きい仕事が逃げてくんじゃないの、ってひと言意見してやりたくもなるよね、とか思っていたら突然、美月! と呼ばれた。
「なに?」
「あんたモデルやりなよ」
 と三宅ちゃんがいう。
「は? なにそれ。モデル?」
「マスクのモデル」
「なんでそういうことになった?」
「あと、洗濯のやり方とか見せる写真の。って、ま、そんな、モデル、なんていうほどでもないけどさ。どうせマスクで顔隠れてるんだし。洗濯の写真なんか、誰でもいいっちゃ、誰でもいいし。とはいえ、ハツラツ感があった方がいい」
「ハツラツ感? そんなもん、ないけど?」
 というと、ないなー、ないねー、と二人で納得している。
「まあでもやりなよ。中身がハツラツとしてなくたって、年恰好かっこうでハツラツ感はでるもんなんだし」
「やだよ。やらないよ」
「どうせ暇じゃん」
 と市子ちゃんもいう。
「暇だけど」
「働け」
 と三宅ちゃんがいう。
 なんかもんのすごくむかつく。
「これ、仕事なの?」
 ときく。
「仕事だよ。求められてるんだから仕事だよ」
「ギャラ出るの」
「ギャラ。いっちょまえにギャラ」
「出るの」
「モデルとして使用したマスクをすべて進呈するんで、それをギャラ代わり、ってことでどうだ」
「はあ? マスク? そんなん、撮影で使用しちゃったら、私がもらうしかないじゃんか。そんなん、ギャラじゃないね。マスク、あるし。困ってないし。だいたいさあ」
「わかった、わかった。んじゃ、しょうですがギャラ、出させていただきますよ。そんならやるってことでいいね」
 いやだよ、やらないよ、といいつづけていたけど、やりなよ、やってよ、やれ、としつこくいわれつづけているうちに、なんかもうどうでもいいや、って気になってきて引き受けた。わーい、やったー、楽しくなってきたー、なんて喜んでいるのを尻目に、やれやれと溜息ためいきをつく。コドモか。
 マスクしてんだから顔なんてわかりゃしないというのはその通りだし、暇なのはたしかだし、なんかちょっと楽しそうではあるし、お金もくれるっていうし、と心が傾きつつあったのをじつは読まれていたのかもしれない。
「で、どこで撮影すんの」
「ここだよ」
「え! ここなの」
 市子ちゃんがとんきょうな声を上げる。
「他にどこがあんのさ。そこらの公園で何カットか撮って、あとは、ここをベースにするのがよかろうよ」
「よかろうよ、ってそんな、勝手に」
「だいじょおぶうぅぅぅ。マスクなんてどこで撮ったっておんなじぃぃぃぃ」
「だったらここじゃなくてもいいじゃないのさ」
「そうだよ。こんな古臭いマンションじゃ、いくら土方さんの腕が良くても、いまいちだよ」
「ちょっと美月、古臭いって、あんたね、居候の分際でずいぶん失礼じゃないのさ」
「ん? 居候? え。居候? 誰が!」
 三宅ちゃんが目をく。
 あちゃー、と市子ちゃんと目を合わせる。予想通り、三宅ちゃんが食いついてきた。
「えッ、美月、あんた、ここに居候してんの⁈ いつから? え、つか、なにそれ、え、どゆこと? あんた、会社辞めただけじゃなくて、家もなくしたの⁈ ひょっとして会社、辞めたんじゃなくて、馘首く びになったか? ひゃー、なんかやらかしたか? やっちまったか。うわわわわ最悪ー。悲惨ー。人生転落ー」
「人生転落してないし! 会社馘首になってないし! 会社は自分から辞めたの! 家だってなくしたわけじゃないし、って、なくしたってなに、なくした、って。家賃節約のために、ここへ引っ越してきただけだよ。って、あ、ちがうよ、勘違いしないでね、節約っていっても、家賃だって光熱費だってちゃんと払ってますからね!」
「ふんっ、どうせすずめの涙だろうよ」
 市子ちゃんがにやにやしている。雀の涙についての否定はしないでくれているが、顔が微妙に肯定しているようにみえなくもない。雀の涙って、そんなつもりはなかったし、一応、市子ちゃんと協議の上、金額を決めたわけだけど、もしかして、もう少し上乗せしたほうがよかったんだろうか。んー、そうかもしれない。ちょっと値切りすぎたかもしれない。
「はー、美月、しかし、あんた、また、なんであんないい会社、辞めちまっただ。もったいない。あんなおっきいとこ、あんた、もう一生、入れないよ。そもそも入れたこと自体、奇跡、みたいなもんだったんだから、窓際に飛ばされたくらいで辞めなくたってよかったのに。意地でも、しがみついてりゃよかったのに」
「窓際に飛ばされてないから!」
 三宅ちゃんが、ついと醤油せんべいを差し出してくる。受け取って、バリバリと噛み砕いた。
「こっちからくだりはん、突きつけてやったの!」
「あっそう」
「そう!」
 バリバリバリと勢いよくかじりすぎて、せんべいの欠片かけらがばらばらばらと足元にこぼれた。
 三宅ちゃんがかがんでそれを拾う。
「なにがあったんだかしらないけどさ、短気は損気。あーあ、ほんとにもう、損気も損気、大損気だ。あんたがいつか出世して、うちの事務所に仕事、発注してくれる日を楽しみに待ってたのに。その夢も泡と消えたか」
 市子ちゃんがぷっと吹き出す。
「発注! あんなおっきな会社が、吹けば飛ぶよな三宅ちゃんの事務所に発注! そんなことあるわけないじゃん! しかもなに、美月が発注すんの! こんなペーペーが? どうやって?」
「美月だって、いつまでもペーペーってわけじゃなかろうよ。短気を起こさねば、そのうち、そのくらいの権限、持てるくらいにはなったろうよ」
 と三宅ちゃんが椅子いすにすわり直す。
「偉くなった美月がさあ、たとえ、ちっちゃなパンフでもいいから、たった一個、発注してくれるだけで、うちの事務所、助かったのに。やっすーいリーフレットでもなんでもいいからさ、うちに欲しかったよ、仕事」
「やだもう、ちょっと! そんなこと、真顔でいわないでよ。美月がそんな権限持てる頃には私たち、よぼよぼになってるよー、事務所どころじゃないってー」
 と、市子ちゃんが笑い転げている。
 そういえば、入社が決まったばかりの頃、三宅ちゃんが、そんなようなこといってたなー、と思い出した。美月、あんた、いつか出世してうちに仕事をまわすんだよ、きっとだよ、約束だよ。小さな仕事一つでいいんだからさ、なんでもいい、なんでもいいから一つ頼んでくれたら取引先のリストに、あんたんとこの会社を付け加えることができるんだからさ。わかる? あんたの会社と取引してることが、どれほどの信用になるか。だから、とにかく早く出世して、お願い、一刻も早くお願い、って、そんなの冗談でいってるだけかと思ってたけど、あれはあんがい、マジのお願いだったのかもしれないな。って、いやいやいや、たとえ出世したとしても、三宅ちゃんの事務所に発注なんて、そんな私情を挟んだこと、できなかったに決まってるけど。つか、そもそも出世なんてできなかったよ、あのままずっとあそこで働いていたとしても、とあらためて思う。わたしがあの会社でブランドマネジャーになれる日なんて、永久にこなかった。それは認めざるをえない。どこかで頭打ちになって、営業部に回されるか、どこかの店舗においやられるか、あとはどうだろ、子会社に出向になるか、地方の支社に転勤になるか。美容部員のお世話係とか教育係とか。消費者対応部門とか品質保証部門とか、せいぜいそんなところへ行かされて、なんにせよ、そんな感じで生殺しになって、後輩がどんどん上にいくのを指をくわえて眺めていたことだろうよ。
 それでも、化粧品が好きなら続けられたとは思うし、メイキャップが心底楽しければやっていけただろうとは思う。実際、そういう先輩はいた。どんな仕事だって化粧品に関われていたらそれだけでいいと公言してる人もいた。すすんで店舗に出ていく人もいた。
 まあ、そうやって生き残るのが現実的なんだろうというのもわかっていた。
 でもなー、そこまで化粧品、好きじゃなかったしなー。
 という、これに尽きる。
 いやもう、ほんと、ふつーに好きって程度ではだめなのだった。並外れて好き、くらいでちょうどいいのだった。ふつーもふつーのレベルのくせして、なんであの会社に就職しちゃったかなー、ということなのである、問題は。今思えば、就職が決まったとき、高校時代からの友人の香緒かおが、え、美月が化粧品会社? まじで? え、いや、なんでまた? あんた、オシャレのセンスもメイクのセンスもなくね? 向いてなくね? なんかちがくない? とはっきりいったものであったが、そのときは、香緒に見くびられた気がして、そんなことないよ、と大いに反論したんだった。反論しながら自分で自分を懸命に納得させていたのだった。けれども、香緒にはまったく通じなくて、まったく納得してくれなかった。うーん、けどさー、美月ー、お化粧品の好きな子たちって高校んときから、そっちに情熱ありありだったやん? あんたにはそれがなかったように思うが? 一ミリも感じられんかったように思うが?
 たしかにそれはなかったのだった。
 そんな情熱が仕事として働いていくうえで、のちのち効いてくる、とまったくわかっていなかったし、そもそも己の情熱というものにさえまったく頓着とんちゃくだった。ようするに、自分自身のことがまるでわかっていなかったのだった。
 もうほんと、会社辞めてから、ろくにメイクなんてしなくなっちゃって、しかもそれがほんとに楽、って思ってんだから、己の情熱、推して知るべし。はなっから向いてなかったんだろうよ、と今となっては認めるしかない。
 そんなことを思いながら、むすっとしていたら、三宅ちゃんが、いいよいいよ、美月、気にしないでいいよ、あんた、いい夢見させてくれたよ、感謝だよ、うちの事務所がそんなれ手であわみたいなラッキーチャンスに恵まれることなんてないって、それはもうよーくわかってたんだし、これはあんたのせいじゃない。あんたが悪いわけじゃない、と慰めてくれて、って、おいっ、そんな慰め方があるかいっ! というような慰め方をしてくれたのだった。
 言い返すかわりに深いため息をついた。
「で、この子、なんで辞めたの」
 と三宅ちゃんがあらためて市子ちゃんにきく。
「知らない」
 と市子ちゃんがこたえる。
「きいてないの」
「きいてない」
「ききなさいって」
「べつにきかなくたっていいでしょうが」
「きいたげなさいって」
「なんで。そんなこと、きかれたくないかもしれないじゃないの」
「きかれたくないことはいいやしないよ、いいたいことだけいうもんだよ」
「だったらきかれなくてもいうでしょうが」
「きかれないとなかなかいえないものなんだよ」
「そうなの?」
「そうだよ」
「そうなの?」
 と市子ちゃんがみるから、
むなしくなったからだよ」
 と端的にこたえた。
 詳細に語ればいくらでも詳細に語れるけども、突き詰めればこれだな、と最近になって気づいていた。
 チーフの下で新商品の生産調整やら配荷計画やら売り上げのチェックやら、売り上げが伸び悩んだ時のリカバー策の発案やら、そんなことを毎シーズン毎シーズン、ひたすら繰り返し、売れたの売れなかったのと一喜一憂し、尻を叩かれ走り回って、追われるように次のシーズンの新商品にシフトし、そこそこ責任を負わされ、でもそんなに評価もされず、そつなくこなすけど、期待を超える働きはしない、なんてひどいことをいわれ、いや、直接いわれたわけじゃないけど、それらしいことをいわれている会議の発言録をうっかり目にしてしまい、だからチーフ補佐から上にはいけないんだと悟った。少しずつ、下に抜かれているのもわかりつつあった。任される仕事の重要度が、後輩たちの方が大きくなっている。そのわりに忙しさは変わらず、面倒な仕事をさりげなく押し付けられ、ほんと、トラブル処理みたいなややこしいことはたいていこっちに回ってきて、そりゃまあ、若い子にそれはできないからだけど、といってそういうイレギュラーな雑務をいくら頑張ったって報われることは少なかった。チーフとの相性が悪いからだと思ってこらえていたけど、そんなのおかしくないか、と思いきって、別のチームで働きたいと部長にいってみたが却下された。そういうことを直訴するってあり得ないことらしかった。ばかねえ、そういうことはちゃんと根回ししてから動くものよ、と親しくしていた広報にいる先輩にいわれた。それやっちゃうと、ますます居づらくなるでしょう、だってチーフを敵に回しちゃったんだから。と、いわれて本気で驚いた。えっ、わたし、チーフを敵になんて回してないですけど? だって、その方がお互いにとってやりやすくなるし、会社にとってもその方がよくないですか、と訴えたら、あーあのねー、そういうことじゃないのよー、だってチーフの評価にかかわることでしょう、といわれた。部下から拒否られた、って知れたら、チームをまとめる力がないと思われちゃうじゃない。先輩は、そんなこともわからないのか、という顔をして、ずばっといいきった。きっと飼い犬に手をかまれた、くらいに思って怒ってるわよ。あーなるほどー、と理解はしたものの、なんかめんどくせー、と思ってしまったのだった。かわいい感じの、あああん、もう、めんどくさあい、っていうのじゃなくて、もっと乱暴でなげやりな感じの、なんかめんどくせー。それまでにも、ちっちゃく、なんかめんどくせー、と思うことはあったような気はするけど、そんなこと思わなかったふりをしてうまくやりすごしてきてたのに、ついに、なんかめんどくせー、と本気で思ってしまったのだった。あーあ、わたしは、なんかめんどくせー、ってずーっと思いながら仕事してたんだなー、と有無をいわせず突きつけられた気がして、いいようのない虚脱感にみまわれた。足元がぐらぐらしていた。どこをめざして、どう歩いているのかわからなくなってしまった。
「虚しさは多かれ少なかれ、一生つきまとうものだとは思うけどね」
 と三宅ちゃんがいった。
「えっそうなの? そういうもんなの?」
「ん、そんなことない?」
 三宅ちゃんが市子ちゃんのほうを見る。
「虚しさねえ。ないといったら嘘になるけど、なんか美月のいってる虚しさとはちょっとちがうような気がするな」
「え、なに。どういうこと? わたしの虚しさと市子ちゃんの虚しさはちがうの?」
 さっぱりわからなくて首をかしげた。
「美月、もうちょっと具体的にいってみ」
 と三宅ちゃんにいわれた。
「具体的? 具体的っていわれてもいろいろあるから、なにをどういえばいいのかわかんないよ」
「そんでもいってみ。なんで辞めた?」
「んー。だからさ、なんていうかさ、なにやってんのかなー、わたし、みたいな気になってきたんだよ。人間関係ってのも難しいし、組織っていうのも、なんかよくわかんないしさ。いくつもの新製品にかかわってきたけど、って、そりゃもう毎シーズン毎シーズン、そのためだけに生きてきたわけだけど、なんかこう、そのわりにごたえがないっていうかさ。誰のために、なんのためにそれ作ってんのかよくわかんなくなってきちゃったんだよね、って、まあざっくりいえば、そんなような感じ? わかる?」
「あー、そういうやつかー」
「え、わかるの?」
「なんとなく」
「なんかてきとう」
「三宅ちゃんはいつもてきとう」
 市子ちゃんが口を挟む。
「市子だっててきとうなくせに」
「そうだっけ?」
「まあ、いいさ。てきとうはだいじ。美月、あんた、辞めて正解」
「えっ、そう? そうなの?」
「そんな気持ちをごまかして、ただ律儀に踏みとどまっていたところでろくなことはない。まあさ、あんな大きい会社を辞めるのはほんとうにもったいないとは思うけども、そのもったいなさに負けなかったところもえらい。自分の人生を捨ててないってことだ」
「捨ててないよ。捨てるわけないじゃん。捨てるんなら会社のほうだよ」
 そういったら、二人が同時に爆笑した。
「威勢がいいねえ」
 そういってまた二人でげらげら笑う。
 なんで笑われているのかわからないけど、深刻な顔をされるよりずっといいような気もするし、笑い飛ばしてもらったほうがいっそすがすがしい気もしたから、ほうっておいた。
 ひとしきり笑って、またマスクの話になって、決めることを決めたら三宅ちゃんはさっさと帰っていった。

独占特別試し読み第5回に続く
(第5回は、9月15日配信予定です)

『たとえば、葡萄』第1回は、こちら!
『たとえば、葡萄』第2回は、こちら!
『たとえば、葡萄』第3回は、こちら!

初出:P+D MAGAZINE(2022/09/08)

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