【5回連続】大島真寿美、直木賞受賞後初の書き下ろし小説『たとえば、葡萄』独占先行ためし読み&インタビュー

作家生活30周年となる、大島真寿美さん。直木賞受賞後初の書き下ろし小説『たとえば、葡萄』が、9月16日に発売されます。コロナ禍でつい下を向きがちになり、気持ちが塞いでいるという人も多いはずですが、どんなに心が折れかけても、絶望の先には希望が見えてくるということを伝えてくれる物語です。どこよりも早く、その作品を5回連続でためし読み公開。その第1回目とともに、ストーリーの着想を得たきっかけや、読者へのメッセージなどもうかがいました。

【あらすじ】
一切先の見えない状態で会社を辞めてしまった美月(28歳)。転がり込んだのは母の昔からの友人・市子(56歳)の家。昔なじみの市子たち個性の強い大人達に囲まれ、一緒に過ごすうち、絶望の中にいた美月は徐々に上を向く。誰の心にも存在する将来への恐れや不安、葛藤……。自分と格闘する美月を周囲の大人たちは優しく見守る。さりげなく自然に、寄り添うように。何度も心が折れかけながらも、やがて美月は自分自身の夢と希望を見つけていく……。

コロナ禍の真っ只中。「書こう」という気持ちが湧き出てきて生まれた物語

――『たとえば、葡萄』、というタイトルから、「どんなストーリーなのだろう?」と想像が膨らみました。題材などは、どのように形作られていったのでしょうか。

大島真寿美氏(以下、大島):ずっと長い間、江戸時代やそんな時代ものばかりに頭も心も向いていたんです。ようやく、その「脳内江戸時代」から戻ってきたら、現代世界はまさにコロナコロナのまっただ中。コロナ禍にあることは、見つめざるを得ないし、考えざるを得ません。多くの人が閉塞感や先行き不安定な世の中で将来を悩んでいて、この「今」の時代を書こう、と思い立って、まず山梨のワイナリーに取材に行ったんです。それが必要な気がしたから。取材をスタートしたら、心の底から物語が湧き上がってきたという感じでしたね。取材をしたその夜、この小説世界が、夢の中に現れたんです。

――登場人物がとてもいきいきと活写されていますよね。

大島:本当に、夢の中で人々が動き回り、「早く書いてくれ、早く書いてくれ」と物語が向こうからやってきた感じでした。これはもう、書かずにはいられない、今なら書ける、と。書きたい気持ちに突き動かされて、できた小説です。

――主人公の美月のほか、個性の強い大人達の織り成す日常が、さりげなく勇気を与えてくれるところに引き込まれました。

大島:私自身は、けっして「こう受け取ってほしい、こう読んでほしい」などという意図はなくて。特別なメッセージを込めたつもりもないんです。読んでいただいた結果、希望が湧いたり、前向きなれたりするならば、それはとても嬉しいこと。美月たちの奮闘ぶりから、「今」と「これから」の扉が開けるかもしれない。それはどんなものからでも、たとえば、葡萄からだって。そんな気持ちは、少し込めています。

――『たとえば、葡萄』というタイトルと結びつく場面に至るまで、何度も心が折れかけながらもやがて自分の夢と希望を見つけていく美月の姿に、元気づけられます。読者へのメッセージはありますか。

大島:「これを伝えたい」「こう読んでほしい」というのは本当にないのですが……、「今はこの小説を書かなければいけない時期!」という思いに突き動かされて書いたこと、まさに「今」、読んでいただきたい物語であることは、お伝えできたらと思いますね。

――発売が待ち遠しいです。ありがとうございました。

〈了〉

【書籍紹介】

『たとえば、葡萄』9月16日発売予定

【大島真寿美 おおしまますみ プロフィール】

1962年愛知県名古屋市生まれ、1992年『春の手品師』で第74回文學会新人賞を受賞し、デビュー。2012年『ピエタ』で第9回本屋大賞第3位。2019年『渦 妹背山婦女庭訓 魂結び』で第161回直木賞受賞。その他の著書に『虹色天気雨』『ビターシュガー』『戦友の恋』『それでも彼女は歩きつづける』『あなたの本当の人生は』『空に牡丹』『ツタよ、ツタ』『結 妹背山婦女庭訓 波模様』など多数。

【ためし読み第1回目はこちらから】

直木賞作家・大島真寿美さん
作家生活三十周年記念作品
『たとえば、葡萄』独占特別試し読みスタート!

 

 やり直すなら今だ、と思う瞬間がある。
 小さな間違いの積み重ねで、どうにもおかしなことになってしまっている、と気づいたとしても、ま、でも、こんなもんだよね、私の人生なんて、そう、こんなもんだよ、このままでいっか、いいんだいいんだ、と自分で自分をなだめすかして、なかなか軌道修正する力はかないものだが、あの日、あの時、唐突に、あ、今だ、と思ったのだった。
 今だ! 今しかない!
 それで勢いよく、えいやっ、と辞表を提出してしまったのだった。
 ええええ。
 出したとき、心の中で、叫んでいた。ええええ。
 まじか。まじで出しちゃったよー!
 でももう、とにかく、出しちゃったんだから、これでいいんだ、と思うことにした。だって、この瞬間を逃したら、また流されてしまう。
 それにぼやぼやしてたらじきに三十歳になってしまう。
 まだまだ先は長いと思っていたけど、二十代も後半、いよいよ残り少なくなってきている、という年齢が後押ししたところもたしかにあった。
 もうこんな会社にいたくない。
 いや、会社のせいにしちゃいけないのかも? 気にくわないことはいろいろあれど、会社だけを責めてはいけないのかも? そうかも。だめなのは私かも。いや、少しくらい、いいかな、うーん、どうなんだろ、よくわからない。まあ、でも半分くらいは、いや、半分以上は自分のせいなんだろう、という気はしていて、でも、だからこそ、まずは、ここから抜け出したかったのだった。私は自分の人生を立て直したかったのだ。
 無謀といえば無謀。
 アホといえばアホ。
 うん。
 わかってる。
 そんなこと、ようくわかってる。だけど、そうしたかったんだもん、しかたなくない?
 このとしで無職。
 けっこうきつい。
 だよね。
 うん。
 知ってる。
 でも、だからといって、焦ってあたふたと次に行くのもいやだった。ちょっと落ち着いて、いろいろ考えたかったのだ。
 とはいえ、当たり前だが、無職で悠長にしていられるほど経済的余裕はない。
 それでまあ、いちちゃんを頼ったのだった。

 市子ちゃん、というのは母親の友人である。
 それももんのすごーく昔っからの友人で、私は子供のころからよく知っている。つか、よく知っているどころではなく、なんならもはや、身内といってもいいような人でもあって、自己都合退職で無収入になって家賃その他が重くのしかかってきたときに、ぱっと思い浮かんだのが市子ちゃんの家なのだった。
 勝手知ったる他人の家、というか、小さい頃からしょっちゅう泊まっていたので、幾分、自分の家のような気安ささえある、あの家。
 とりあえずあそこに住まわせてもらえたら。
 もちろん、いくらか家賃を払って、光熱費も払って。
 つまり、シェアハウス的に?
 部屋は余っている。
 それに市子ちゃんは押しに弱い、とよく知っている。
 必死で頼めばきっとなんとかなる。
 とにかく時間がほしい。お金の心配をしないで、少しだけゆっくりできる時間がほしい。
 それでとりあえず訪ねていったのだった。
 はああ?
 市子ちゃんは、あきれた。
 づき、あんたね、いくつになったの。もう子供じゃないんだからさ、そういうの、勘弁して。
 あっさり拒否られた。
 でもあきらめなかった。頼みに頼んだ。
 仕事を辞めて収入がなくなった、というと、市子ちゃんは、ますます呆れた。
 はああ?
 あんた、いったいどうしたの、あんたはそういうことするタイプじゃなかったじゃないの。あたしたちを反面教師にしてまっとうに生きて行くんじゃなかったっけ。そういってたでしょ、前に。
 うん、そう。それはそうなんだけどね、だけど私、もう、これ以上、あそこで働き続けられなかったんだよ、本気で無理だったんだよ。心底疲れきってるんだよ。お願いします、ここにおいてください。ここしかないんです。お願いします!
 貯金は。
 市子ちゃんが攻める。あんたさ、ずっと働いてたんだから、貯金くらいあるでしょ。わたしを頼らなくったって、どうにでもなるでしょ。貯金がないってことはないよね? え、どうなの。
 そりゃないわけじゃないけどさ、ここで使い果たしちゃうの、こわいし。
 こわいし、って、あんた……。
 わかるよ、市子ちゃんのいいたいことは。わかるよ、わかる。自力でなんとかしろっていいたいんだよね。うん、わかる。それはそう。それはそうなんだよ。こんないい歳してさ、わたしだって、情けないと思ってるよ、でもさ、収入がなくなるって、こわいものなんだよ。市子ちゃんとちがって、わたしは新卒でずーっと普通の会社員だったからさ、ふつうにお給料もらうのが当たり前の生活でさ、お給料がなくなるってのが、こんなにこわいことだって知らなかったんだよ。福利厚生とかさ、そういうありがたみもよくわかってなかったんだよ。ね、市子ちゃん、そんなに長く居座るつもりはないからさ、ほんと、家賃や光熱費や、そういうのも、市子ちゃんが決めてくれていいからさ、お願い、迷惑かけないようにするから、しばらくここへ置いてよ。お願いします!
 市子ちゃんはじわじわと折れた。
 我が家の歴史、というようなものを間近で見続けてきているから、親には頼りたくないというわたしの気持ちもなんとなくではあるがわかってくれている。
 昔みたいに家があそこにあったら、そりゃ、あたしだって、自分んちに帰るよ、でもないじゃん? 売っちゃったじゃん、親はあっちじゃん、さすがにあそこはさ、というようなことを続けてぐぢぐぢ訴えると、まあね、確かに長野は遠いよね、といってうなずいてくれる。って思い切りがいいからさ、つか、よすぎなんだよね、あの時もいきなり決断しちゃったし、いいマンションだったのに、すぱっと売っちゃってさ、ほんと、引き止める間もなかったよ。
 いわれて思い出し、少ししんみりする。
 生まれ育ったあの家が売られてしまったときは、ほんとうにショックだった。あの家はあそこにずっとあるとばかり思っていたのに、母は家を売って、父の住む長野へ完全に移住してしまったのだ。あれはそう、大学卒業目前の就活生の頃で、じき社会人なんだし、すでに親にはわたしの扶養の義務なんてないことはわかっていたし、それにその頃はもう、母はほとんどあっちで暮らしていて、マンションを残す意味がなくなりつつあった、とはいうものの、高く売れるうちに売ってしまいたいとざっくばらんにいわれたときには、え、お金? お金の問題なの? と本気で腹立たしく思ったものだった。だって家は、たんなる資産じゃない。そこには思い出だってあるし愛着だってあるし、プライスレスの価値がたくさんあるではないか。
 立地もいいし、広いし、家賃も払わずにすむし、ほんと、今も、あそこが残っていたら、どれほど楽だったことか。
 と、あらためてそんな思いをみしめていると、市子ちゃんが、でもさあ、美月、この際、いい機会だし、久しぶりにちらっとあっちへいって顔見せてきたらどうよ、といった。けんさん喜ぶんじゃない? 奈津だってなんだかんだいって喜ぶと思うよ、親子三人水入らずで過ごしてみるのも悪くないかもよ? と余計なことをいう。思いっきり白けて、ちょっとやめてよ、親子三人水入らずって、市子ちゃん、あたしをいくつだと思ってんの? と言い募る。市子ちゃんて、ほんといけずだよね。わざと子供扱いしてさ。親子水入らずって、なにいってんの。だいたい私、二十八だよ、二十八、すぐに二十九だよ、とかいってるとじきに三十になっちゃうよ、てな歳なんだよ。いやもう、三十って自分でいっててぞわぞわっとしてくるけど、ともかく親がどうこうって歳はとっくに過ぎてるわけ。わかる? 親は親だし、私は私なの。もう親に振り回される年齢じゃないの。
 ほえええ、あんた、大きな口をたたくようになったじゃないの、って、え、そのわりに、無職でここに住まわせてくれってか、美月、え、それってどうよ、どう思うよ、と呆れた感じでいわれてしまった。
 痛いところを突かれて黙る。
 会社辞めたって奈津は知ってんの? ときかれたから、いや、知らない、つか、いってない、とこたえた。
 いわないの? ときかれたので、いわなくたってよくない? とききかえす。
 いわなくたっていいけどさ、わたしはいうよ、いや、わざわざこっちからいうわけじゃないけど、奈津にきかれたらふつうにいわせてもらうよ、ふつうにいう。隠し立てしてへんなことに巻き込まれたくないし。
 じゃ、わかったよ、それでいいよ、市子ちゃんはふつうにしててくれたらいい、あたしがここに住んでるって、隠さなくていい。私も折を見てあっちにいう。まあ、いずれ、どこかのタイミングでいわなくちゃならなくなるだろうし。って、え、あれ? ん? それならいいってこと? ここへきていいってことだよね? やったー!
 えー、いってない、いってない、そんなこといってないって、と市子ちゃんは抵抗した。ちょっと美月、早合点しないで。
 お願い! なるべく早く出て行くから! お金もきっちり払うから! 市子ちゃんの生活、邪魔しないから! ほんとにほんとに迷惑かけないように、細心の注意を払って暮らすから! 家事もやる! 丁寧にやる!
 そんなことをいいつづけていたら、市子ちゃんは不承不承、うなずいた。
 すかさず、最小限の荷物と共に越してきた。
 必要に迫られ、さまざまなものを一気に処分したら、ずいぶん気持ちがさっぱりした。

独占特別試し読み第2回に続く
(第2回は、8月25日配信予定です)

初出:P+D MAGAZINE(2022/08/18)

【著者インタビュー】柴門ふみ『薔薇村へようこそ(1)』/親子だから、家族だから、全部分かり合えるというのは、もう通用しません
【著者インタビュー】原田ひ香『財布は踊る』/カードのリボ払いの負債化や奨学金返済問題など、読めばお金の知識が身につくエンタテインメント小説