ミステリの住人 第4回『職業小説 × 丸山正樹』

ミステリの住人 第4回

若林 踏(ミステリ書評家)

 職業小説の要素があるミステリ、という作品群が現在では数多く書かれている。あまり使いたくない言葉なのだが、いわゆる“お仕事ミステリ”と呼称される作品のことだ。丸山正樹の〈デフ・ヴォイス〉シリーズもそうした観点から取りあげられることが多い。しかし、そう括ることで、見過ごしてしまいがちな要素も多分に含まれていると、個人的には考えている。

人びとの無意識に光をあてる

 丸山正樹は2011年、第18回松本清張賞の最終候補作となった『デフ・ヴォイス』(文春文庫&創元推理文庫)でデビューする。同作の主人公である荒井尚人は、ろう者の両親の間に生まれた「コーダ」だ。ある理由から警察事務員の職を辞して夜間警備員として働いていた荒井は、手話通訳士となって、窃盗未遂で起訴された、ろう者である被告人の法廷通訳を担当することになる。

ミステリの住人 第4回「デフ・ヴォイス」
『デフ・ヴォイス』

 いま、「コーダ」という言葉をさらりと書いたが、筆者自身も『デフ・ヴォイス』を読むまで「コーダ」の存在や生活について殆ど知識が無い状態だった。〈デフ・ヴォイス〉シリーズを通して、初めてろう者や「コーダ」について詳しく知った読者は多いはずだ。

 職業小説の要素を備えたミステリには、特定の仕事にまつわる専門知識を得ることが出来るという面がある。事件捜査の専門家以外の一般人が、自身の職業の知識を活かして謎を解くタイプのミステリは元々あったが、それらが“お仕事ミステリ”という括りで急速に注目を集めるようになったのは2010年代前半であったと記憶している。辞書編纂の内幕を描いた三浦しをんの『舟を編む』(光文社文庫)が2012年に本屋大賞を受賞し、職業小説がジャンルとして拡大しつつある中で、ミステリもその勢いの中にあったという見方が出来るだろう。ミステリの専門誌では光文社の雑誌『ジャーロ』No.48(2013SUMMER)において「お仕事ミステリ繁盛記」という特集が組まれており、当時の状況を感じさせる。

 そのような流れの中で、ろう者や「コーダ」、そして法廷通訳という多くの読者にとって未知の情報を伝える〈デフ・ヴォイス〉シリーズが、職業小説としての側面から支持されることは必然だったといえる。『デフ・ヴォイス』では荒井尚人が手話通訳士の資格を受ける段階から物語が始まり、やがて手話通訳という立場からろう者が法廷でどのような待遇を受けているのかを描く。手話通訳士という職業に視点を置くからこそ見えてくる、マイノリティの姿がここには書かれているのだ。

 また、今回のインタビューで興味深かったのは、「影響を受けたミステリ作家や作品は?」という質問に対して、丸山が笠井潔の〈矢吹駆〉シリーズの名前を挙げてきたことである。〈矢吹駆〉シリーズといえば、密室や首なし死体といったガジェットに彩られた謎を扱いつつ、名探偵・矢吹駆が20世紀を代表する思想家をモデルにした人物たちと思想対決するという本格謎解きミステリだ。ろう者の日常に根差した事件を扱う〈デフ・ヴォイス〉シリーズからは相当にかけ離れた印象を受ける。だが丸山によれば〈矢吹駆〉シリーズには「自身の内面が抱えている課題や個人的な関心事を、ミステリというジャンルを通して描く事が出来るのだ、という感動を覚えた」と言い、笠井の小説を通して現代思想に対する興味が芽生えて評論を読み始めた事を述べている。謎解きやサスペンスを楽しむと同等に、自分の知らない情報や考え方が学べる旨を丸山はミステリというジャンルに求めているのだ。これは職業小説を読む読者が、特定の仕事の知られざる一面を窺う楽しさを求めている旨にも通ずる。その意味でも〈デフ・ヴォイス〉シリーズは、まさしく職業小説の要素を持ったミステリの系譜に連なるものだ。

 だが〈デフ・ヴォイス〉シリーズには職業小説とは別に、忘れてはいけない観点がある。「障害者と犯罪の関りを題材とした小説を書きたかった」と丸山は言う。「障害者の内面に世間が関心を寄せるのは、障害者が犯罪に関与した事件が報道された時です」。これまでのミステリでは、障害者が被害者もしくは探偵役として描かれるケースが比較的多かった。そこに社会の障害者への意識を感じとれる。その視点を逆転させることで、新たな問いを発することを試みたのが〈デフ・ヴォイス〉シリーズだという。これこそが冒頭に書いた「職業小説の要素以外にもう1つ、別の何か」の正体だ。

 犯罪とは社会の秩序に出来た裂け目であり、その裂け目が出来上がった背景を描くことで犯罪小説は成立する。その意味で〈デフ・ヴォイス〉シリーズは職業小説であると同時に、立派な犯罪小説でもある。それを最も良く表した作品がシリーズ第2作の『龍の耳を君に』に収められた「風の記憶」だ。ここでは聴覚障害者が同じ障害者を標的にした犯罪が描かれており、荒井はその加害者の手話通訳を警察の取調室で担当する。弱者が更に弱い立場の者を狙う、という構図は当然ながら障害者にも当てはまるものだが、そのごく当たり前の事実から眼を逸らしてはいないか、ということに気付かされるのだ。「風の記憶」が素晴らしいのは、ただ痛ましい現実を読者に突きつけるだけではなく、そこからもう一歩踏み込んで「なぜ、そのような状況に陥ったのか」という問いを主人公である荒井尚人の目を借りて徹底的に考えさせる点にある。犯罪というフィルターを通してだからこそ広がる物語がある事を「風の記憶」は教えてくれるのだ。

 第3作『慟哭は聴こえない』と第4作『わたしのいないテーブルで』になると、〈デフ・ヴォイス〉シリーズは次第に犯罪小説としての側面が後退し、荒井とその家族の性格を描いた家族小説としての要素が強くなっている。犯罪と弱者。この2つの主題を通して社会の裂け目を探る犯罪小説としての側面は現在、〈デフ・ヴォイス〉シリーズとは別のところで開花している。それが何森稔を主人公にした『刑事何森 孤高の相貌』と『刑事何森 逃走の行先』である。実は『孤高の相貌』に収録された3篇はデビュー前から丸山の頭の中には物語の構想があったもので、3篇目の「ロスト」については『デフ・ヴォイス』でデビューする前、松本清張賞に原型となる小説を送っていた経緯があるという。何森を主人公にしたシリーズは〈デフ・ヴォイス〉シリーズのスピンオフという位置づけになっているが、デビュー前に物語の骨子が出来ていたという点では、丸山正樹という作家の原点でもあるのだ。

ミステリの住人 第4回「刑事何森 孤高の相貌」
『刑事何森 孤高の相貌』

 何森が主人公を務める話は『孤高の相貌』以前に〈デフ・ヴォイス〉シリーズの中で書かれていた。第3作『慟哭は聴こえない』に収録された「静かな男」がそれで、急死したホームレスのろう者の身元を調べるため、何森が荒井とともに死者の足跡を辿る旅に出るという、実に端正な捜査小説である。ミステリファンが読めば松本清張の某有名作品へのオマージュが描かれていることがすぐに分かるはずだ。

『孤高の相貌』は「静かな男」で見せた、端正な捜査小説を書く力が発揮された連作である。1篇目の「二階の死体」は車椅子生活を送る娘と暮らす母親が、家の二階で他殺体となって発見されるという話だ。強盗殺人の線で捜査を進めようとする捜査本部に疑問を抱いた何森は、独自の捜査を進める。表面的にはオーソドックスな警察捜査ものに見えるが、その核にあるものは〈デフ・ヴォイス〉シリーズにあるものと共通する、社会的弱者の存在だ。2篇目の「灰色でなく」では、強盗事件で逮捕された青年のために何森が奔走する話で、取り調べの際に青年が見せる“ある特徴”が物語の鍵を握る。犯罪という社会の裂け目を通して初めて顕在化する弱者の姿があることを、丸山は『孤高の相貌』で改めて示したのだ。

 当連載の第1回で書いたが、1990年代後半、横山秀夫登場以降の国内警察小説では組織内部の有り様に目を向けた作品が数多く書かれるようになった。『孤高の相貌』はそうした組織内小説というべき作品群にも通ずる、警察署内部の緻密な描写がある。同書文庫版の巻末にある杉江松恋の解説でも触れられているが、そうした細かい描写は警察組織がいかに内向きで古い体質のものであるかを表現している。組織内部を主題にした警察小説を筆者は連載第1回で「閉じた世界への関心」と評したが、警察組織が「閉じた世界」であるがゆえに取りこぼされる存在がある事を『孤高の相貌』では示しているのだ。1990年代後半からの流れを汲む警察小説に思えて、「閉じた世界への関心」から警察小説を解き放とうとしているのが『孤高の相貌』ではないだろうか。

 何森のシリーズ2作目に当たる『刑事何森 逃走の行先』は前作および〈デフ・ヴォイス〉シリーズとは、やや色合いの異なる連作集になっている。同作で扱われる題材は技能実習生や女性の貧困、入管法改正といった日頃ニュースで報道されているメジャーな社会問題だからだ。しかし、社会的に弱い立場の人間たちが置かれている現状が物語の中心にあることは変わらない。犯罪と弱者の関わりを描くという芯はそのままに、警察小説や社会小説など、作家としてより幅広い領域に取り組もうとしている点も何森の物語から窺える。

ミステリの住人 第4回「刑事何森 逃走の行先」
『刑事何森 逃走の行先』

 職業小説の要素を持ったミステリが陥りやすい罠として、読者の知らない情報や物珍しい題材を詰め込んだだけの小説になってしまう、ということがある。『龍の耳を君に』文庫版の巻末解説で頭木弘樹も同じような事を書いているが、特定の知識を広めたいためにミステリの趣向を都合良く使っているように感じるものも、“お仕事ミステリ”とカテゴライズされる作品には少なくない。〈デフ・ヴォイス〉シリーズや何森の物語にそのようなことを感じないのは、丸山が「何を伝えたいか」だけではなく「どのような視点から伝えるのか」という点にも拘っているからだろう。この場合の視点とはすなわち、犯罪と弱者の関わりから社会の有り様を見つめるということだ。〈デフ・ヴォイス〉シリーズが次第に家族小説へ舵を切りつつあることを先ほど述べたが、この視点だけは手放さず続編を書いて欲しい。

※本シリーズは、小学館の文芸ポッドキャスト「本の窓」と連動して展開します。音声版はコチラから。


若林 踏(わかばやし・ふみ)
1986年生まれ。書評家。ミステリ小説のレビューを中心に活動。「みんなのつぶやき文学賞」発起人代表。話題の作家たちの本音が光る著者の対談集『新世代ミステリ作家探訪 旋風編』が好評発売中。

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