連載第19回 「映像と小説のあいだ」 春日太一
小説を原作にした映画やテレビドラマが成功した場合、「原作/原作者の力」として語られることが多い。
もちろん、原作がゼロから作品世界を生み出したのだから、その力が大きいことには違いない。
ただ一方で、映画やテレビドラマを先に観てから原作を読んだ際に気づくことがある。劇中で大きなインパクトを与えたセリフ、物語展開、登場人物が原作には描かれていない──!
それらは実は、原作から脚色する際に脚本家たちが創作したものだった。
本連載では、そうした見落とされがちな「脚色における創作」に着目しながら、作品の魅力を掘り下げていく。
『洲崎パラダイス 赤信号』
(1956年/原作:芝木好子/脚色:井手俊郎、寺田信義/監督:川島雄三/製作:日活)
「義治さんはね、ようやく真面目に暮らそうという気になってんだよ。今あんたが行ったら、せっかく固まりかけた気持ちがダメになっちまうじゃないか」
芝木好子の小説「洲崎パラダイス」は、洲崎(東陽町)にある娼館が軒を連ねる赤線地帯を舞台に、そこを行き交う人間模様が描かれる短編集だ。
表題作の短編は、かつて洲崎で働いたことのある蔦枝とその恋人の義治が主人公。行き場を無くし、貧しさのために洲崎へとやってきた二人が、赤線地帯の入り口にある小さな居酒屋を訪ねるところから物語は始まる。店のおかみの計らいで蔦枝はそのままそこで働くことになり、義治は近くの蕎麦屋の出前持ちをすることになった。そして、紆余曲折を経て二人が洲崎を去っていくまでの話になっている。
映画は、この表題作が原作になっている。蔦枝(新珠三千代)と義治(三橋達也)の人物設定や、大まかな展開、劇中のやり取りなどの大部分は原作を踏襲しているのだが、大きく異なる点が一つあった。
それは、義治の扱いだ。陰気で甲斐性がなく、ほとんどのことは蔦枝に頼り切り。そんな基本設定は変わらない。ただ、原作は義治の人物像がそのまま最後まで変化することなく、どちらかというと否定的に描かれているのに対して、映画は必ずしもそうではないのだ。
そのことが最も如実に現れているのが、店のおかみ・徳子(轟夕起子)の義治へのアプローチだった。原作での徳子は、初めて訪れた段階から義治を好ましく思っていない態度がありありと出ているし、そうした心情描写も記されている。一方の原作では、なにも出来ずに突っ立っている義治に対して、奥に下がって休むように促しており、一定の優しい心遣いを示しているのだ。
そして、このちょっとした差異が、義治が蕎麦屋で勤めるようになり、蔦枝と離れ離れになってからの展開を大きく異なるものにしていく。
蔦枝は店の常連客・落合(河津清三郎)と懇ろの関係になり、落合は蔦枝のためにアパートを借りる。ここまでは、原作も映画も同じだ。が、原作の蔦枝は落合とは暮らさずに、義治の元へと向かう。しかもそれは最終盤の顛末として位置づけられている。
一方、映画はここでまだ物語は中盤。そこから蔦枝は落合と暮らすことを選び、それを知った義治は必死になって二人の姿を追い求めるのである。それは、これまでウジウジとした消極的な面しか見せなかった義治が、劇中で初めて一人で積極的に行動をした瞬間でもあった。この描写により、義治の蔦枝への強い想いが伝わると同時に、彼が人間として成長しつつあることも示されることになった。
映画の作り手たちが義治に視線を寄せているのが伝わる脚色ポイントはまだある。義治サイドに、新たな登場人物を創作しているのだ。それが、蕎麦屋の店員・玉子(芦川いづみ)だ。
玉子は健気で爽やかで元気いっぱいの女性という設定。そんな彼女が義治にほのかに惹かれ、蔦枝を失った義治もまた玉子に元気づけられることで、汗をかいて懸命に働く真人間になっていく。そして、そんな二人の関係を見ていた徳子は、義治と玉子との結婚を望むようになる。玉子は映画オリジナルの人物であり、原作では義治が蕎麦屋で働く場面はほとんど出てこない。つまり、これは映画にしかない展開だ。
そのため、映画の終盤は原作とは全く異なる内容になっている。蔦枝が帰ってくるのだ。落合と暮らしてみると、やはり義治の方がいい──と。ただ、ここで二人がヨリを戻すと、義治は元のダメ人間に後退しかねない。そのために徳子が玉子に諭したのが、冒頭のセリフだった。
それでも玉子は義治に会おうとするし、会ってしまえば義治は蔦枝を選んでしまうだろう。危惧した徳子は二人が会えないように画策をする──。
これだけ別の終盤になれば、ラストも全く異なるものになると思うところだ。ただ本作が面白いのは、これまで本連載で取り上げてきた作品と異なり、ラストは原作も映画もほぼ同じ内容なのだ。義治と蔦枝は街を去り、居酒屋で徳子と落合が「やれやれ──」といった具合に酒を酌み交わす。そして、また新たな女性がこの街を目指して居酒屋を訪れ、その女性に落合がちょっかいを出す──。セリフの内容に至るまで、双方は同じなのだ。
原作は、蔦枝も徳子も義治のだらしなさに呆れ続けていた。そして、いよいよ落合との新生活が間近になったところで、失踪していたはずの義治から手紙が送られてくるのだ。蔦枝は手切れ金を渡すために義治の所へ向かうのだが、そのまま戻ってくることはなかった。そして、先のラストに繋がる。
一方、映画では、義治は落合のところから戻ってきた蔦枝と再会してしまう。二人の関係を知らなかった玉子が、その優しさのために蔦枝が戻ったことを義治に知らせてしまったのだ。そして、共に街を出てしまい、原作と同じラストとなる。
原作と映画は途中の展開も、物語の中心となる人物も違う。それでも同じラストとして成立してしまえるのは、そこで描かれるドラマツルギーが共通しているからだ。
それは、端から見た場合に「こっちに行けば幸せな結末が待っている」という方向に、必ずしも当事者が向かうとは限らない、恋愛関係の不条理さ、不可思議さだ。原作では「蔦枝―覚醒、義治―現状維持」、映画は「義治―覚醒、蔦枝―現状維持」と、二人は正反対の描かれ方をしている。それでも、片方が「現状維持」である限り、二人が再び一緒になることは物語冒頭に逆戻りすることには変わりないのである。傍からはそれが見えているのに、当事者にはどうにもならない。それが「人の想い」というものなのだろう。だからこそ、原作と映画は自然と同じ終局へと帰着する。双方は、いわば相似形なのである。
だが、映画は居酒屋の後に「二人のその後」の場面が加えられている。それは、橋の上でたたずみ、バスに飛び乗るという、冒頭と同じシチュエーションだ。二人は、元に戻ってしまったのだ。ただ、ほんの少しだけ異なることがある。冒頭では一人で駆け出す蔦枝に義治が必死に付いていくのだが、ラストは義治から駆け出しているのだ。そこには、原作にはない、わずかながらの救いがあった。
【執筆者プロフィール】
春日太一(かすが・たいち)
1977年東京都生まれ。時代劇・映画史研究家。日本大学大学院博士後期課程修了。著書に『天才 勝進太郎』(文春新書)、『時代劇は死なず! 完全版 京都太秦の「職人」たち』(河出文庫)、『あかんやつら 東映京都撮影所血風録』(文春文庫)、『役者は一日にしてならず』『すべての道は役者に通ず』(小学館)、『時代劇入門』(角川新書)、『日本の戦争映画』(文春新書)、『時代劇聖地巡礼 関西ディープ編』(ミシマ社)ほか。最新刊として『鬼の筆 戦後最大の脚本家・橋本忍の栄光と挫折』(文藝春秋)がある。この作品で第55回大宅壮一ノンフィクション大賞(2024年)を受賞。