夏川草介『新章 神様のカルテ』× 長月天音『ほどなく、お別れです』スペシャル対談
希望をなくしたらもう、何もない
長月
今の夏川さんのお話を聞いていて思い浮かんだのは『新章 神様のカルテ』に出てくる、29歳の若さで深刻な膵癌を患った二木さんのことでした。夏川さんの書く小説ですから、彼女の癌が完治するといった奇跡は起こらないわけですけれども……。
夏川
そうですね。僕の小説に、スーパードクターは出てきません(笑)。
長月
主人公の栗原先生が、二木さんが亡くなったと知るところで、印象的な文章が出てきます。<人の死が哀しいのは、それが日常を揺るがす大事件であるからではない。あっけないほど簡単に命が消えていくから哀しいのである>。人間は生きている以上、死が訪れるのは当たり前なんだという現実が、すごく伝わってくる一文でした。
夏川
医師としていろいろな患者さんと向き合ってきましたが、死は本当にあっけなく、さらっと訪れるものです。
長月
葬儀場でアルバイトをした時のことを振り返ってみても、そこで働いている人たちって淡々としているんです。主人を看取った時のことも思い出しました。主人の息が止まっただけで、簡単に死が訪れた。「こんなに長く苦しんできたのに、死んでいく時は本当にあっけないんだ」という実感がありました。
夏川
世の中に死を描く小説、物語が増えていくこと自体は悪いことではないと思います。ただ、その描かれ方に違和感を抱くものが多いなぁという印象は、正直あります。当事者が死ぬ前に必ず「見せ場」があり、死がやたらドラマチックに描かれているというような……。
死とはそういうものなんだと刷り込まれてしまうと、現実に起こる「あっけない死」がなかなか受け入れられなくなるんじゃないでしょうか。医師や病院に奇跡を求めるようになり、「病院に来たけれど何もしてくれなかった」と不満を募らせたり、「どうして自分がこんな病気になって、苦しんで死んでいくのか」という葛藤にエネルギーを費やすことになってしまう。そこに時間をかけてしまっては、もったいないと思うんです。
長月
時間は限られたものですものね。『神様のカルテ』の栗原先生は気休めに奇跡を語るようなことはせず、患者さんに真実を語ってくれている感じがします。
夏川
僕自身は患者さんに対して、あの時こういうふうに振る舞えばよかった、こう言えばよかったと日々後悔ばかりです。「その言い方じゃあダメだ」って、栗原一止によく頭の中で怒られています(笑)。自分が現実ではできなかったことを、小説の中で彼にやってもらっている感覚なんですよ。
長月
私は主人を自宅で看取ったんですが、最後の数ヶ月は入院せずに在宅緩和ケアをしていました。ただ、かかりつけの病院の先生は、なかなか「緩和ケアに切り替えましょう」と言ってくれなかったんですね。言わないことがその先生の優しさだったとは思うんですけれども、別の先生に相談をして、在宅緩和ケアに切り替えました。
「もしも栗原先生だったら、どんなことを言っただろう?」と考えたことがあるんですよ。たぶん、厳しいことを言いつつも、切り捨てるようなことは言わない。現実を言ってくれると思うんです。実際のところ、もう治療の手立てがない場合に、患者さんと接するのってすごく難しいんじゃないかなと思うのですが。
夏川
今日の午前中、同期の先生とまさにそういう話をしてきましたね。その先生はある病気の専門家で、全国から患者さんが頼ってやって来るんです。でも、そういう患者さんたちって、やれることは全部やってから来ているんですよね。できる治療なんて限られていますから、全国各地の大きな病院でダメだったものが、ここでならうまくいくということはない。じゃあ最後の頼みの綱だと思って来た患者さんに、医師としてどう応えるか。
同期の先生が言っていたのは、「希望を絶対になくさない」ということでした。これ以上の治療はしないとなったとしても、何かしらの新しいビジョンを提示して、希望はまだあるんだ、ということを必ず伝える。
長月
希望をなくしたらもう、何もないってことですよね。
夏川
そうです。治療をやめるということは、何もかも諦めることではない。その中で何ができるかっていうことを考えていくと、必ず希望は見つかるんです。治療なんて田舎の病院から大学病院までそれほど大きく変わるものではありません。だから、「治療の手がなくなってからが、医者の出番」という感覚を僕は常に持っているんです。