吉川 凪『明日の恋人たち』

吉川 凪『明日の恋人たち』

喜びとも悲しみともつかぬ震えの物語


 韓国の現代文学は、社会の闇を暴き、問題を提起する〈大きな物語〉を好んで描いてきた。だが『明日の恋人たち』収録の作品は、歴史の重要事件に直接対峙したり、人の歩むべき道を示したりはしない。事件を派手に展開させて読者の目を引こうともしない。ただひたすら、都会に暮らす人の日常と感情を淡々と描いているように見える。

 フェミニズムをテーマにした小説やSFが人気を博していた2023年、短篇「未来のかけら」に現代文学賞が授与されたということは、チョン・ヨンスの作品が同時代の韓国文学の潮流を変える可能性を秘めていると、文壇に認められたことの証拠に違いない。大きな理念を描く作品やエンターテインメント性の強い作品に慣れた読者は、古い記憶がよみがえるような懐かしさや、新たな視点を得た新鮮さを感じるのではないか。それは同時代の他の文学への対立ではなく、新たな地平を開くものだ。

『明日の恋人たち』収録の作品群は、作家自身に似た人物にストーリーを語らせており、一見、私小説のようでもある。だが実際には、作者は語り手との間に明確な距離を置いて作品全体を構成し、乾いたユーモアで語り手の苦悩を戯画化している。それは、告白の真実性を美徳とした日本の私小説とは一線を画す態度だ。

 チョン・ヨンスは、言語化が難しいものをさりげなく言葉にする。喜びとも悲しみとも、あるいは恐れともつかぬ感情の微細な震え。それを描きだすのは、究極的には文体の力なのだろう。羽毛でふいに肌をなでられたような驚きが、そこにある。

 最も根源的な問いは、ありふれた出来事の中に潜む。奇想天外な事件やスリル、サスペンスを仕掛けなくても、私たちは十分に恐怖を感じられる。理解し合い、愛し合っていると信じていたのに、実はすべて錯覚だったのかもしれないと疑った瞬間、足元の地面は突然、崩れ落ちる。愛など、ひょっとしたら永遠の幻なのではないか。

 文学以外にその恐怖を現前させられるものは、おそらく存在しない。些細な出来事が実は底知れない深淵につながっていたことに、あなたもやがて気づくだろう。

  


吉川 凪(よしかわ・なぎ)
仁荷大学国文科大学院で韓国近代文学を専攻。文学博士。著書に『朝鮮最初のモダニスト鄭芝溶』、『京城のダダ、東京のダダ』、訳書にチョン・セラン『アンダー・サンダー・テンダー』、キム・ドンシク『世界でいちばん弱い妖怪』、キム・ヨンハ『殺人者の記憶法』(第4回日本翻訳大賞)、朴景利『土地』などがある。

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明日の恋人たち

『明日の恋人たち』
著/チョン・ヨンス 訳/吉川 凪

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