「推してけ! 推してけ!」第29回 ◆『絶縁』(村田沙耶香、チョン・セランほか・著)

「推してけ! 推してけ!」第29回 ◆『絶縁』(村田沙耶香、チョン・セランほか・著)

評者=鴻巣友季子 
(翻訳家・文芸評論家)

『絶縁』に集った作家たちの共感を書く筆は易きにつこうとしない。


 日本、シンガポール、中国、タイ、香港、チベット、ヴェトナム、台湾、韓国からの九人の作家による豪華なコラボレーションだ。

 本来、「アンソロジー」というのは、すでに出版された短編を選んできて(そう、anthology とは語源的にはギリシャ語で「花を摘む」という意味だ)、いい具合に活ける=編纂することを指している。ところが、『絶縁』はすべて書き下ろしの短編を編む企画としてスタートした。いわば、花を種から育てようという心意気に、まず打たれてしまった。

 パンデミックと戦争のこの時代、人びとはつながりや連帯をいっそう求めているのだろうか、一つのテーマやタイトルのもとに多国籍の作家が寄稿するスタイルの作品集が増えている。2020年には『ニューヨーク・タイムズ』が「デカメロン・プロジェクト」と銘打ち、各国の作家30人弱に「パンデミック」という緩やかなテーマで原稿を依頼した企画があり(『デカメロン・プロジェクト』として邦訳)、アメリカの他、カナダ、イギリス、イタリア、モザンビークなどの作家が寄稿した。

 詩のアンソロジーも盛んだ。文芸誌『ザ・ニューヨーカー』が全米中の詩人から作品を募集し、100編以上を集めて、『Together in a Sudden Strangeness(突然の異変をごいっしょに)』として出版した詞華集なども、その一例だろう。

 さて、アジアの多士済々の集まる『絶縁』は、どの編をとっても抜群の面白さだ。それぞれの国、それぞれの文化のなかでの「衝突」「壁」「亀裂」「分断」「別離」「孤独」が描きだされている。

 アンソロジーの最初を飾る村田沙耶香の「無」は近未来の日本を舞台にした一編。

 世の中はその時々で「グリーンギャル」が流行ったり、「喪服ガール」一色になったり忙しい。バブル世代とおぼしき「過剰浪費快楽世代」があり、その後は「リッチナチュラル世代」「安定志向シンプル世代」があり、いまは「無」にあこがれる時代だ。主人公のひとり白倉奈々子も五年前に家を出て、「無」として過ごしている。

「無」とはなにか。各地にできた「無街」と呼ばれるコミューンに参入し、なるべく個性のない恰好をして、味のないものを食べ、なるべく多くのものを忘れ(感情や自分の名前や言語までも)、なるべく自分を明け渡して、無私無欲の存在になることを目指す。そういうものらしい。

 さらには、手術を受けて、なるべく平均的で、性別もわからない容姿になる人たちもいる。とはいえ、貧富の格差やジェンダー差別がない世界へやってきたはずなのに、手術を受けるにはお金が要るし、「忘却」の達成度などで優劣ができてしまう。

 一方、「リッチナチュラル世代」である奈々子の母美代は、娘が出ていってくれて実は清々している。美代は老後の世話をさせる「家畜」として娘を産んだと言うが(ひどい……)、娘は娘で、母をこき使うことしか考えていなかった。しかし物語の終盤で意外な展開が起きる。

 時代の趨勢に流されて生き方や正義のあり方をころころ変える人間の姿が捉えられ、スペックで人をはかる能力主義社会(メリトクラシー)が批評され、さらにそうした社会機構に反発するカウンターカルチャーが、かつてのヒッピー文化などを模倣しながら諷刺される。いつもながら村田沙耶香の小説は対立するさまざまな声を「多重放送」で響かせてすばらしい。

「無」の次に収録されたシンガポールの作家アルフィアン・サアットの「妻」は、村田が提示した「無私」「奉仕」「贈与と償い」といったモチーフを変奏しつつ、みごとなジャズセッションを仕掛けてきているように見える(実際は編集技の妙なのだろうけど)。

 シンガポールでは法律上はイスラム教徒の一夫多妻制が残っており、妻は夫に尽くすものという考えがいまも浸透している。本作の妻サウダも夫イドリスに追従する姿勢を崩さない。ある日、夫の口から元婚約者アイシャの名が出てから、彼女の心に波紋が広がっていく。ばったり街で会ったという話だが、それだけなのだろうか? イドリスとアイシャの結婚話は、ひとり娘のアイシャに老後の面倒を見てもらうつもりでいた両親の反対にあい頓挫したらしい。アイシャは貧しい両親が必死で働いたおかげで大学に進み教師になったのだ。その何年か後に、イドリスが上司の娘として出会ったのが幼稚園教諭のサウダだ。夫婦は不妊治療に取り組むが、思ったような結果は出なかった。

 この編でも、親と子の介護問題がからんでくるし、「自分が与えられたものはほかのなにかから奪われたものだ」だという意識と自責の念が垣間見える。夫とアイシャの再会後、サウダは驚くべき行動に出るが、最後にそれはある種の代償行為の様相を帯びる。

 さて、この「身代わり」「分身」というモチーフがその先のいくつかの編でも多彩に変奏されていく。なんと、スリリングな読書の旅だろう。

 たとえば、タイの作家ウィワット・ルートウィワットウォンサーの「燃える」は、おそらく本書のなかで最も複雑な結構と手法を取り入れた傑作だ。二〇〇〇年代の元首派と王党派の対立や政治的混乱を背景に、一人の若い女と三人の男が主要人物として登場するが、彼女/彼らはみんな「あなた」という二人称で呼ばれることになる。

 本編にも「(夫の)世話をして、仕えて、愛を返してもらうこと」を誇りとする母世代の生き方がある。しかし主人公のひとりとなる女の生き方はそうではない。高校生の頃に彼女に片思いしていた作家志望の「彼」と大学生のときにつきあうようになるが、そこへ、香港の「雨傘革命」を経験してきた闘士のネイサンが加わり、三人の関係が始まる。美しくはかない一文を引こう。

「悲しい二本足の生き物三匹が、夢想と星茫のなかで、催涙ガスと炎のなかで、アルコールとゴム弾のなかで、キスをしている」

 この一編には分身が鏤められているようだ。ネイサンはやがて離れていき、女も「彼」のもとを去る。「彼」はネイサンに嫉妬しながらも彼を愛し、彼の姿に自分を重ねる。その後、「彼」にそっくりのサンという少年が出てきて、不思議な形で彼女/彼らをつなぐ。

 対立と紛争の時代に置かれた、若く危うい生を、精妙な投影法で見せていることに感銘を受けた。

「分身」「身代わり」のモチーフは韓麗珠「秘密警察」にも見られる。そう、主人公が出会うある猫は彼女自身でもあり、ある存在の身代わりでもあったろう。ラシャムジャ「穴の中には雪蓮花が咲いている」で井戸に降ろされた少女は主人公の分身でもあったろう。

 パンデミックと戦争の時代に、わたしたちはつながりと連帯を求める。だからこそ、この『絶縁』に集った作家たちの共感を書く筆は易きにつこうとしない。最終編のセクシャルトラブルを扱ったチョン・セランの表題作「絶縁」にも、その矜持は鮮やかに表れている。

 絆と絶縁の、緊張をはらんだテンション、それがこのアンソロジーのいちばんの美質ではないだろうか。ぜひご一読を。

【好評発売中】

絶縁

『絶縁』
著/村田沙耶香、チョン・セラン ほか

 
[本書収録作品]

村田沙耶香「無」
アルフィアン・サアット「妻」/藤井光=訳
郝景芳「ポジティブレンガ」/大久保洋子=訳
ウィワット・ルートウィワットウォンサー「燃える」/福冨渉=訳
韓麗珠「秘密警察」/及川茜=訳
ラシャムジャ「穴の中には雪蓮花が咲いている」/星泉=訳
グエン・ゴック・トゥ「逃避」/野平宗弘=訳
連明偉「シェリスおばさんのアフタヌーンティー」/及川茜=訳
チョン・セラン「絶縁」/吉川凪=訳


鴻巣友季子(こうのす・ゆきこ)
1963年東京都生まれ。翻訳家、文芸評論家。訳書にJ・M・クッツェー『恥辱』、M・アトウッド『誓願』、A・ゴーマン『わたしたちの登る丘』、著書に『文学は予言する』『謎とき「風と共に去りぬ」』など。

〈「STORY BOX」2023年2月号掲載〉

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