田口幹人「読書の時間 ─未来読書研究所日記─」第43回

田口幹人「読書の時間 ─未来読書研究所日記─」

「すべてのまちに本屋を」
本と読者の未来のために、奔走する日々を綴るエッセイ


 僕は、「推し活」をほとんど唯一の趣味として生きている。そう書くと少し大げさに聞こえるかもしれないけれど、実際、それくらい日々の時間の多くを推しに向けている。ライブの予定を確かめ、SNSを追いかけ、出演情報に一喜一憂し、遠征の計画まで立てる。そんなふうに過ごしてきて、思いがけず手に入ったものがある。それは、多くの海外の友人たちだ。

 香港、台湾、シンガポール、マレーシア、ベトナム、中国、韓国、アメリカ。国や地域も言葉も暮らし方も違う人たちと、ひとつの「好き」をきっかけにつながった。みんな、推しのコンサートがあるたびに日本を訪れ、そのたびに一緒にご飯を食べに行く。会場の近くで落ち合って、グッズの話をし、今日のセットリストを予想し、終演後には「あの曲がよかった」「あの表情が忘れられない」と、言葉を混ぜながら何度も話す。ふだんはそれぞれ別の国で暮らしているけれど、日々の情報交換はSNSの中で続いている。推しの投稿に反応し、新しい写真に盛り上がり、ちょっとしたニュースを共有する。そのやりとりの中で、僕は何度も思ってきた。日本に関心を持つ人は、思っている以上にたくさんいるのだと。

 もちろん、最初の入口は「推し」なのだと思う。けれど、入口の先は、たいてい思っているより奥行きがある。ライブのために日本に来た友人たちは、コンサートだけで帰るわけではない。電車の乗り方に戸惑いながら街を歩き、日本語の看板を写真に撮る。おすすめのご飯屋さんを聞かれ、地方のことを尋ねられ、日本で暮らすことや学ぶことについて話題になることもある。推しをきっかけに日本に触れ、そのまま日本語や日本文化そのものに興味を深めていく人が少なくないのだろう。
 そういう日々の中で、僕はときどき思うことがある。人が何かを好きになるとき、その「好き」は、ひとつの場所にとどまらないのかもしれない、と。音楽から言葉へ、言葉から風景へ、風景から暮らしへ。ひとつの光に引かれて近づいていったはずなのに、気がつけばそのまわりに広がる世界ごと好きになっている。そういうことが、たしかにある。

 日本で学びたい、と願う人がいる。その願いは、紙の上では「留学」と二文字で書けるけれど、実際にはもっとたくさんのものを含んでいる。新しい言葉を覚えること。知らない街で暮らすこと。教室で誰かの話に耳を傾けること。うまく話せずに戸惑う日もあれば、通じたひと言がうれしくて、帰り道に何度も思い返す日もあるだろう。留学とは、制度である前に、まずひとりの人の時間なのだ。
 その時間を目指して、日本語を学び始める人がいる。まだ日本に来る前、遠い国のどこかで、ひらがなを一文字ずつ覚え、あいさつを口にし、助詞の違いに首をかしげながら、それでも少しずつ前に進んでいく人たちがいる。日本で学ぶということは、飛行機に乗った日から始まるのではなく、そのずっと前から始まっている。机に向かった時間、聞き取れなかった言葉、やっと読めた短い文。その積み重ねの先に、日本という場所がある。

 実際、海外から日本に来る語学留学生の数は、その思いが決して小さくないことを示している。コロナ禍でいったん落ち込んだものの、その後は大きく回復し、2025年には過去最多を記録した(※後出の表「日本語教育機関に在籍する外国人留学生数の推移」参照)。数字だけを見れば増減の話に見えるけれど、その一人ひとりの背後には、「日本語を学びたい」「日本で暮らしてみたい」「もっと深く日本を知りたい」という静かな願いがあるのだろう。けれど、その願いの入口には、いつもいくつかの条件が置かれている。そのひとつが、「どれくらい日本語ができれば、日本で学び始めることができるのか」という問いだ。これまで、日本語教育機関などに入学する語学留学生については、原則として「日本語教育の参照枠」におけるA1相当以上の日本語能力が求められてきた(※文化審議会国語分科会が2021年に公開した「日本語教育の参照枠」としてA1、A2、B1、B2、C1、C2の6段階の評価基準が定められている。A1は日本語能力の熟達度レベルの一番下)。その目安として広く知られてきたのが、日本語能力試験(JLPT)のN5(※読み書きともに基本的な日本語をある程度理解することができるレベル)相当以上、あるいは150時間以上の日本語学習歴だった。

 この「150時間」という数字は、どこか不思議な手ざわりを持っている。長すぎず、短すぎず、努力の量としてなんとなく現実味がある。毎日少しずつ机に向かい、文字を覚え、あいさつを覚え、文法の理解に苦労しながらも前に進んでいく。その積み重ねを、制度の側がひとつの目安として受け止めてきた、ということなのだろう。時間は、たしかに努力の証となり、どれだけ真剣に向き合ってきたかを、ある程度は語ってくれるかもしれない。しかし、どんなことにも時間だけでは見えないものもある。たとえ同じ150時間でも、身につくものは人によって違うし、学ぶ環境も違えば、教える人との出会いも違うだろう。声に出して覚えた人もいれば、ノートに何度も書いて覚えた人もいるし、試験に強い人もいれば、会話の中で力を伸ばす人もいる。そう考えると、「何時間学んだか」だけで、その人の日本語の力を測りきるのは難しいのではないだろうか。

 実際、この運用は見直され、2026年10月以降に入学予定の学生に係る申請からは、従来のように150時間以上の学習歴だけで日本語能力を立証する取扱いが改められる。これからは、試験の証明書、または面接による確認が必要になる。この変更を、単に「厳しくなった」とだけ受け止めるのは、早計かもしれない。もちろん、申請する側にとっては準備が増えるし、不安も増すだろう。けれど一方で、学習時間という外形だけではなく、実際にどれだけ言葉が身についているかを、もう少し丁寧に見ようとしているとも言える。
 ここで見方を変えてみるといいのかもしれない。もしも150時間という学びの時間が、ただ制度を満たすためだけの時間ではなく、日本語そのものに親しむ時間になったらどうだろうか。文法を覚え、単語を増やし、試験に備えることはもちろん大切だが、それだけでは言葉は少し窮屈になるだろう。僕も外国語を学んだ時そう感じることが多々あった。言葉は本来、誰かの気持ちや暮らしや考え方に触れるためのものでもある。そうであるなら、日本語学習の中に、和書を読む体験をもっと自然に組み込めないだろうか、と。
 和書は、単なる教材ではない。そこには、日本人の生活の手ざわりがある。季節の感じ方があり、言い回しのやわらかさがあり、説明の仕方の癖があり、社会の空気がある。教科書の例文だけでは見えてこない日本語の息づかいが、本の中にはある。やさしいエッセイ、児童書、写真の多い実用書、料理本、地域文化を紹介する本、趣味の本。そうした本は、日本語学習者にとって、試験問題とは別の入口になる。「勉強だから読む」のではなく、「知りたいから読む」「好きだから読んでみたい」と思える本に出合えたとき、日本語は知識ではなく、少しずつ自分の言葉になっていく。

 実際、僕が日々やりとりしている海外の友人たちを見ていても、それはよくわかる。最初は推しの話をしていたはずなのに、いつの間にか日本語そのものに興味を持ち始める人がいる。SNSの投稿を翻訳なしで読みたい、ライブMCをもっと直接理解したい、日本のファンが書く感想をそのまま読みたい。そう思い始めたとき、その人にとって日本語は、試験のための言葉ではなく、好きなものに近づくための言葉になる。そして、その延長線上に、日本の本を読んでみたいという気持ちが生まれるのは、とても自然なことなのだと思う。
 しかも、その需要はコミックだけに限られない。海外在住の日本ファンの中には、すでに定番情報や基礎知識を持ち、その先の、より深い情報を求めている人たちがいる。和食、工芸、旅、クールジャパンを深掘りする教養書籍。写真集、図版本、デザイン本、日本の絵本といったビジュアル・アート書籍。そうした、モノとしても美しく、持つこと自体に意味のある本を求める層が確かにいる。つまり、海外の日本ファンが欲しているのは、アニメやマンガの周辺商品だけではない。日本という国を、もう少し深く、もう少し手ざわりのあるかたちで知るための和書そのものへの需要があるのだ。

 さらに、海外のアニメ・マンガファンを対象にした調査でも、日本で体験したいこととして「自然・景色」「食」「歴史的名所」といった項目が上位に入っているという。実際の海外向け書籍出荷冊数でも、売れ行きがよいジャンルの上位には趣味・実用や語学書が入り、コミック以外のジャンルの売上も大きい。ここから見えてくるのは、日本への関心が、ポップカルチャーの入口から始まりながらも、やがて暮らし、文化、風景、言葉へと広がっていくということだ。
 だからこそ、和書を欲しい海外の人たちに、ダイレクトに和書を届ける仕組みがあればいい、と僕は強く思っていた。それは、単なる販売の話ではない。日本語学習の環境を豊かにすることでもあり、日本文化への入口を増やすことでもあり、日本に来る前の人と日本をつなぐことでもある。

 たとえば、出版社や書店が、海外の読者に直接届くかたちでつながる共有の場があり、新刊情報がきちんと整理され、本の内容紹介がわかりやすく添えられ、必要なら各国語でも読める。ただ本を並べるだけではなく、和食、工芸、旅、地域文化、医療、福祉、農業といったテーマごとに本が紹介され、自分の関心から自然に本へたどり着ける。そんな場があれば、日本語を学ぶ人にとって、本はもっと近いものになるのではないだろうか。

 ここで大切なのは、単に「買える」ことだけではなく、「知ることができる」ことなのだと思う。知らなければ、欲しいとも思えない。本の存在を知り、その背景を知り、自分との接点を見つけられることが、購入の前提になる。そして、その接点は、案外ささやかなところから生まれるのだと思う。好きな料理のことをもっと知りたい。旅先で見た風景の背景を知りたい。推しが話していた言葉の意味をもう少し深く理解したい。そういう小さな関心の先に、本がある。そしてそれは、現地の言葉で翻訳されたもの、ではなく日本語で書かれた日本で作られた和書であってほしいと思っている。
 日本語と和書の海外展開については、「未来読書研究所」の事業の柱のひとつとなっている。
 国内での読書推進活動もまた、日本語の識字率を上げるための施策として捉えていたが、少しずつだが海外でも展開しはじめており、現在海外のお客様への書籍販売ルートを構築している。和書を世界へ!
 本を単なる商品としてではなく、文化体験の入口として捉えられたらいい。何かに触れて心が動き、その先をもっと知りたくなったとき、人は本を手に取る。そういう流れは、とても自然なものだと思う。物理的な文化体験を起点に、コミュニティが生まれ、知識への探求が始まり、その結果として日本文化への理解や愛着が育っていく。そうした流れの中で、和書が果たせる役割は、思っている以上に大きいのではないか。
 本を届けることと、人を迎えることが、実は遠くないということだ。日本で学びたいと願う人がいる。その人は、いきなり日本に来るわけではない。まず言葉に出合い、文化に触れ、少しずつ関心を深めていく。その途中で和書に出合えたなら、日本はもっと具体的な場所になるだろう。教科書の中の国ではなく、誰かが暮らし、考え、書き、伝えている場所として立ち上がってくるだろう。そして、その積み重ねが、やがて留学という決断につながることもあるはずだ。

 制度の文章は、たいてい冷静である。必要書類、確認方法、申請時期、適用開始日。そこには無駄がなく、感情もない。けれど、その一行一行の向こうには、たしかに人がいる。日本で学びたい人がいて、その人を迎えようとする学校があり、支えようとする家族がいる。そして、そのもっと手前には、日本語を学びながら、日本の本を読んでみたいと願う人がいる。もし、その人たちに和書がもっと自然に届くようになれば、150時間という学習の時間も、少し違って見えてくるかもしれない。制度を満たすための時間であるだけでなく、日本語と親しくなる時間になる。試験のためだけではなく、自分の興味のために読む時間になる。日本に来る前から、日本の言葉の中で少しずつ暮らし始める時間になるのではないだろうか。
 学ぶことは、いつだって少し不安が伴う。知らない言葉に向かうことは、知らない自分に向かうことでもある。だからこそ、その入口に立つ人には、できるだけ正確な情報と、できるだけ豊かな学びの環境が必要なのだろう。制度を整えることと、言葉に親しむ機会を増やすことにつながる。その二つは別々の話ではなく、本当は同じ方向を向いているのかもしれないと感じている。日本で学びたい、と願う人がいる。その人は、まだ遠い場所で、静かに言葉を覚えている。誰にも知られない机の上で、ひらがなをなぞり、短い文を読み、いつか行くかもしれない国のことを思っている。その人の時間のそばに、本があったらいいと思う。制度のためだけではなく、心が少し先へ進むために。試験のためだけではなく、言葉を好きになるために。遠い国の誰かの手の中に、一冊の和書が届く。そのことが、思っている以上に大きな意味を持つのではないかと、僕は信じている。そして、それを実現するために足掻き続けて、早くも七年が過ぎた。けれど、まだあきらめていない。
 

日本語教育機関に在籍する外国人留学生数の推移
2020 60,814 
2021 40,567 
2022 49,405 
2023 90,719 
2024 107,241 
2025 140,174人 

日本学生支援機構(JASSO)「外国人留学生在籍状況調査」より


田口幹人(たぐち・みきと)
1973年岩手県生まれ。盛岡市の「第一書店」勤務を経て、実家の「まりや書店」を継ぐ。同店を閉じた後、盛岡市の「さわや書店」に入社、同社フェザン店統括店長に。地域の中にいかに本を根づかせるかをテーマに活動し話題となる。2019年に退社、合同会社 未来読書研究所の代表に。楽天ブックスネットワークの提供する少部数卸売サービス「Foyer」を手掛ける。著書に『まちの本屋』(ポプラ社)など。


「読書の時間 ─未来読書研究所日記─」連載一覧

萩原ゆか「よう、サボロー」第160回
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