麻宮 好『母子月 神の音に翔ぶ』
ありがとう! WBC
ストライクが入らない。
原稿の話である。
初稿。編集さんからのメールには辛口の文言が並ぶ。取捨選択はお任せします、という文字が冷たく見えるのは気のせいだろうか。いや、気のせいではあるまい。
二稿。さらに辛辣な文言が並ぶ。
三稿。なかなか返信がない。この場合、便りのないのはよい便り、ではあるまい。
たぶん、ボール球なのである。編集さんの構えたミットから大きく外れているのだ。外れ方が大きいので返球に困っているのだろう。もしかしたら暴投、いやミットに届いてすらいないかもしれない。
このまま返球を待つか。それとも、いっそのこと叩き壊して一から書き直すか。
そもそも「歌舞伎役者」を書こうとすることが、身の程知らずなのかもしれないと、設定に疑問を抱き始めた。
そんなふうにうじうじと悩んでいた頃、世間はWBC(ワールド・ベースボール・クラシック)での侍ジャパンの活躍に沸いていた。
折しも米国との決勝戦だ。原稿は気になるが、これを見逃してはなるまい、とテレビの前に腰を落ち着けた。
結果はご存じの通り、侍ジャパンの勝利。日本中を清々しい感動が駆け巡ったと言っても過言ではないだろう。私の胸のうちを言い表すなら「幸福」の一語に尽きる。
ああ、この試合を観られてよかった。この一瞬に立ち会えてよかった。
もっと言うならば、彼らと同時代に生きていてよかった。
そんな幸福感である。そして、その感動が頭の中のもやもやも一掃してくれたのだ。
そうか。こういう幸福感を書けばいい。
江戸時代の人々にとって歌舞伎芝居はまさに最上のエンターテインメント。大奥の女たちも長屋住まいの女房たちも、このときばかりは同じ空間で贔屓の役者に胸を焦がす。お目当ての役者が見得を決めれば、きっと彼女たちは思うはずだ。
ああ、この一瞬に立ち会えて、何て幸せなんだろう、と。
物語のラストが決まれば迷いはなくなった。三稿を叩き壊すことに躊躇いはなかった。むしろ、二稿、三稿の執筆よりもすらすらと筆が動き、楽しい時を得られたと思う。
これが最後と思って投げた捨て身の一球。編集さんからはようやく「ストライク」をいただけた。制球が定まらずに大変ご迷惑をおかけしたが、最後までどっしりとミットを構えていただいたことに感謝している。
後は、できるだけ多くの皆様から「ストライク」をいただければ、最高に幸せである。
麻宮 好(あさみや・こう)
群馬県生まれ。大学卒業後、会社員を経て、中学入試専門塾で国語の講師を務める。2020年、第1回おいしい小説大賞応募作である『月のスープのつくりかた』を改稿し、デビューを飾る。2022年、『泥濘の十手』で第1回警察小説新人賞を受賞(刊行時に『恩送り 泥濘の十手』へ改題)。著書に、『月のうらがわ』(祥伝社)がある。
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著/麻宮 好