連載第14回 「映像と小説のあいだ」 春日太一

映像と小説のあいだ 第14回

 小説を原作にした映画やテレビドラマが成功した場合、「原作/原作者の力」として語られることが多い。
 もちろん、原作がゼロから作品世界を生み出したのだから、その力が大きいことには違いない。
 ただ一方で、映画やテレビドラマを先に観てから原作を読んだ際に気づくことがある。劇中で大きなインパクトを与えたセリフ、物語展開、登場人物が原作には描かれていない――!
 それらは実は、原作から脚色する際に脚本家たちが創作したものだった。
 本連載では、そうした見落とされがちな「脚色における創作」に着目しながら、作品の魅力を掘り下げていく。


『悪魔の手毬唄』
(1977年/原作:横溝正史/脚色:久里子亭/監督:市川崑/製作:東宝)

映像と小説のあいだ 第14回 写真1

『悪魔の手毬唄 <東宝DVD名作セレクション>』
DVD発売中
2,750円(税抜価格2,500円)
発売・販売元:東宝

「ワシはリカさんのそばについとってやりたい」

 舞台は岡山県の山間部に位置する鬼首村おにこべむら。1950年代半ば、村に伝わる手毬唄の歌詞になぞらえて、同い年の娘たちが次々と殺される。その歌詞を全て知るのは庄屋の放庵のみだったが、放庵は連続殺人が始まる前に謎の失踪を遂げていた。

 その二十年前、村では戦前にも一つの殺人事件が起きていた。恩田幾三という男が村を訪れて、貧困にあえぐ村人たちに飾り物のモール作りの内職を仲介。無声映画の弁士を廃業して帰郷した、温泉宿「亀の湯」の息子・源治郎は恩田の正体を詐欺師だと疑う。源治郎は恩田を詰問しようとするも逆に殺害され、恩田は姿を消していた。そして、二十年後の連続殺人は、恩田の遺児で今は東京で人気歌手として活躍する別所千恵(子)が帰郷した夜に始まる。

 名探偵・金田一耕助は、かつて恩田事件の捜査にも当たっていた盟友の岡山県警・磯川警部とともに連続殺人の真犯人の解明に挑む――。

 これが、横溝正史の小説『悪魔の手毬唄』の概要だ。映画版も、設定の大半、物語展開、真犯人の正体は映画もほとんど変わっていない。ただ、異なる点がある。それは、源治郎の妻で、夫の死後に亀の湯を仕切るリカ(岸恵子)に対する、磯川(若山富三郎)の距離感だ。

 たとえば原作では、金田一と二人の時の磯川はリカを呼び捨て、あるいは「亀の湯のおかみ」と呼ぶ。また、リカがいる時の呼び方は「おかみ」「おかみさん」だった。その一方で、映画ではどんな時でも「リカさん」で一貫している。

 この呼称の変更には重要な意味がある。それは、映画版では全編を通して、磯川がリカに対してほのかな想いを抱いている感が表に出ている、ということだ。

 磯川の想いはまず、恩田事件に対する思い入れの描かれ方に強く現れている。

 映画での磯川は、未解決に終わった後も折に触れて鬼首村を訪ね、長年にわたり「コツコツ」と捜査を続けてきた。その捜査を通し、実は殺されたのは恩田で、逃亡しているのが源治郎なのではないかという推論に致る。だが、結局は解明できないでいたため、金田一(石坂浩二)を鬼首村に呼び出したのだった。そして、磯川がそこまで事件にのめり込んだ理由は、リカへの想いがあった。

「ワシはな、リカさん。そのこだわりを無くしてあげたいんじゃ」

 磯川はリカに、そう言い切っている。

 一方、原作の磯川はあくまで、未解決に終わったことへの刑事としての悔恨が残っているのみで、解決への意識を持ち続けていたわけではなく、リカへの意識も薄い。金田一が村を訪れた理由も映画とは異なる。金田一の目的は静養だった。そして、適した場所はないかと県警に磯川を訪ねたところ、磯川の紹介で村へ行くことになったのだ。そのため、休養目的の金田一に事件の話を持ち出すのを磯川は一度はためらっているし、磯川が来村したのは金田一と休暇を過ごすためだった。そして、放庵失踪事件が起きたことで、磯川は再び過去の未解決事件の蓋を開けることになる。それまでは、磯川も金田一も、そのつもりはなかった。

 他にも、長男の歌名雄(北公次)の成長を温かく見守ったり、リカと二人きりで話すときには少しぎこちなくなったり、リカを容疑者に入れようとする金田一に対して声を荒げて怒ったり――と、磯川がリカをほのかに想う描写は映画では随所にちりばめられている。一方、原作にはそのような想いは直接的には描かれていない。磯川は金田一とともに、過去と現在が複雑に絡み合った謎解きに注力。磯川の描写の大半は、聞き込みと推理の場面だった。金田一の最後のセリフで初めて、読者は磯川のリカへの想いを初めて知ることになり、そこまではその気配を感じさせない。

 映画ではリカを想う磯川の姿を全編を通して描いたことで、リカのために生涯を懸けて続けてきた捜査が、結果としてリカを追い詰めていたという、あまりに皮肉な悲劇として際立つことになった。

 そして、この悲劇を盛り上げるため、他にもいくつかの脚色が施されている。たとえば、四人の同い年の娘たちの年齢設定も、原作から変更されている。原作は二十三歳だったのに対し、映画は十九~二十歳だ。設定を若くした上に、歌名雄と最初の被害者・泰子(高橋洋子)との恋愛模様や、陰ながら歌名雄を慕ってきた二番目の被害者・文子(永野裕紀子)も含めた三角関係も序盤から丁寧に描写される。その結果、彼らの姿に「青春」の輝きが放たれることに。だからこそ、彼女たちが無残に殺されていく様や、それを受け止めなければならない歌名雄の悲惨さがより際立つ。

 中でも泰子と歌名雄との関係は原作よりも濃密なものになっている。原作では泰子の死後に二人の関係は読者に明らかにされるのだが、映画では歌名雄と泰子のキスシーンから物語が始まり、結婚を強く望む歌名雄が反対するリカと言い争いに発展する場面も序盤に描かれている。

 この二人の恋が惨劇の引き金となったことが後にわかるのだが、それだけに二度目にこの映画を観ると、言い争いの時のリカの心情がなんともやるせなく思えてくる。

 ここからはネタバレになるので、気になる方は引き返してもらいたい。未見の方はまず映画を観て、その上で本稿を読み、そして二度目の観賞をしてもらうことをオススメする。本作がただの怪奇ミステリーではない、極めて感動的な人間ドラマになっていることがお分かりいただけるはずだ。

 閑話休題。

 原作から変更した点は、もう一つある。それは、リカを取り巻く人間模様だ。

 恩田事件も、後の連続殺人事件も、いずれも真犯人はリカである。実は恩田と源治郎は一人二役で村人を騙し続けた同一人物で、それを知ったリカが自らの夫を殺害したのだ。そして、泰子も文子も千恵(仁科明子)も、父親は恩田。つまり、歌名雄、リカの娘・里子(永島暎子)と三人の娘は、異母兄妹だったのだ。

 この状況は、原作も映画も変わらない。だが、原作の恩田は詐欺をするつもりはなく、不況に巻き込まれて商売が上手くいかなくなったために村人への支払いが滞っていた。その上、実家は村内で差別を受けていたという背景もある。そのため、恩田=源治郎には「同情すべき事情」があった。一方、映画では、恩田は明確に「詐欺師」とされており、リカと家族を捨てて愛人の春江(渡辺美佐子)と満州へ渡るつもりだった。

 そして、映画で夫の死後にリカを苦しめる存在となるのが、放庵だった。原作の放庵は放蕩者だが悪人ではない。恩田=源治郎であることを最初に知った人間で、そのために戦後はリカから生活援助を受けているのだが、それはリカが自発的に行っているものだった。そんな放庵を、リカは犯人として偽装するために金田一をも巻き込んで失踪事件を仕組んだのだ。一方、映画では源治郎の秘密に加え、リカが夫の殺人犯であるという弱味を握ったことで、彼女を強請り、金銭と肉体を求め続けていた。

 つまり、原作も映画も、リカは哀れな状況ではあるのだが、原作のリカは利己的な感情で夫や放庵を殺害しているのに対し、映画で利己的なのは夫と放庵で、リカはそれに苦しめられ、追いつめられていく悲劇的な存在として描かれているのである。

 映画はリカを悲劇的な人物像としてより強調しているため、連続殺人の動機も異なるものになっている。

 原作の動機は、嫉妬心だった。同じ父親で同時期の出産でありながら、自分の娘だけが顔を含めた全身に醜い痣を負って隠れて暮らしており、あとの四人は美しく成長して青春を謳歌している。それを理不尽に感じた怒りが、歌名雄を巡る娘たちとの縁談話をキッカケに火がつき、連続殺人へと駆り立てられることになったのだ。

 映画でも「里子が不憫だった」と原作に近い動機をリカは語っているが、それは千恵に対する殺意のみ。最初の二人はそれ以上に、歌名雄のためという側面があった。血の繋がった兄妹同士を結婚させるわけにはいかなかったのだ。だからといって、本当の理由は歌名雄には伝えられない。だからこそ、追いつめられてそうせざるをえなくなったのだ。泰子との結婚を巡る言い争いの場面が、二度目に観るとやるせなく感じるのは、そのためだ。

 そして、映画でリカの悲劇が決定的に際立つ場面が、里子の殺害だ。母が泰子と文子を殺した犯人だと気づいた里子は、次の標的である千恵と自ら身代わりになり、そして母に殺される。リカは殺した後で自身が娘を殺めたことを知るのだが、原作と映画ではそのタイミングと、その後のリアクションが違う。

 原作では殺害の直後にそのことに自ら気づく。そして、偽装工作もしている。それに対して映画では、殺した後も里子だと気づかずに去り、翌日に歌名雄から里子が殺されたと聞かされて初めて自身の行いを知るのだ。そして、リカはショックに倒れてしまう。

 映画はどこまでもリカの悲劇を突き詰めていく。そのため、終盤の展開も大きく異なる。

 原作では、リカは最後の一人である千恵を殺す気でいる。磯川は千恵を囮に犯人(この段階では磯川も誰が犯人か知らない)をおびきだす。罠に気づいた犯人は千恵の家を放火し、その隙に逃亡。追われているうちに土手から沼に転げ落ちて命を落とす。引き揚げられた時に初めて、正体がリカだと判明する

 それに対して、映画では里子を殺した段階で、殺人を続ける気を失っていた。リカは千恵を呼び出すが、殺害するつもりはなかった。自らの罪を千恵に告白するために呼び出したのだ。そこに磯川と金田一が現れ、リカは逮捕される。ちょうどその時、放庵の死体が見つかった。磯川と金田一はリカを刑事にあずけ、そちらへ向かう。

 その途中、磯川は思い直して一人で引き返す。磯川の冒頭のセリフは、その時に発せられたものだった。あまりに悲しいリカの宿命。その全てを受け止めようとする磯川。どこまでも深く、磯川の想いが伝わる言葉だった。

 だが、リカは監視役の刑事が目を離した際にその場を脱して沼に自ら入水、命を絶つ。

 リカ、磯川、歌名雄、三人ともに課せされた悲劇は、原作よりも遥かに重い。だが、映画の最後には、原作にない救いがもたらされていることも忘れてはならない。

 原作では、連続殺人犯の息子でもあるために、歌名雄の身の置き所が決まってなかった。それに対して映画では磯川が引き取って農業学校へ通わせることになったのだ。序盤、磯川は歌名雄の成長をまるで父親代わりかのように見守り続けていたような描写がある。それが、このラストで見事に効いているのだ。懸命に戦後を生きたリカ、それを見つめ続けた磯川。そんな二人の生きざまが、せめてもの救いに結実したのだった。

 映画のラストは、磯川が駅に一人たたずむところで終わる。本作は、一人の老境に達した男が一人の女性を愛し抜く、真心のラブストーリーでもあった。

【執筆者プロフィール】

春日太一(かすが・たいち)
1977年東京都生まれ。時代劇・映画史研究家。日本大学大学院博士後期課程修了。著書に『天才 勝進太郎』(文春新書)、『時代劇は死なず! 完全版 京都太秦の「職人」たち』(河出文庫)、『あかんやつら 東映京都撮影所血風録』(文春文庫)、『役者は一日にしてならず』『すべての道は役者に通ず』(小学館)、『時代劇入門』(角川新書)、『日本の戦争映画』(文春新書)、『時代劇聖地巡礼 関西ディープ編』(ミシマ社)ほか。最新刊として『鬼の筆 戦後最大の脚本家・橋本忍の栄光と挫折』(文藝春秋)がある。

麻宮 好『母子月 神の音に翔ぶ』
萩原ゆか「よう、サボロー」第34回