吉川トリコ「じぶんごととする」 8. 角田光代は奥田民生である

じぶんごととする 8 角田光代は奥田民生である


愛がなんだ

『愛がなんだ』
角田光代
角川文庫

「なんなんだろうね、愛って」
 二十年ほど前、同じバイト先の人が、私が読んでいた本の表紙を見て、物思いに耽るようにつぶやいたことがあった。
「ほんと、なんなんすかね」
 と答えながら、たぶんあんたが思ってるようなしっとりした内容の本じゃないよ、読んだら死ぬよ、なぜならいま私自身が死にそうだから、と思っていた。

 世紀のだめヒロイン・テルコがマモちゃんという男性に片思いをするというただそれだけの話なのだが、マモちゃんからの連絡を待ちわびて携帯を肌身離さず、呼びだされたら深夜だろうとなんだろうと即どこにでも駆けつけ、ストーカーまがいの行動をとったり、仕事そっちのけでマモちゃんを優先していたせいで会社をクビになったりと、恋に暴走するテルコの姿に、ちがう、そうじゃない、そうじゃないよテルコなにやってんだよバカ! と思いながらも読む手が止められない世にも恐ろしい小説、それが『愛がなんだ』である。共感性羞恥という言葉もまだ知らなかったころで、こんな体験もこんな恋愛もしたことがないはずなのに、テルコのやることなすこと考えることなにからなにまで手に取るようにわかってしまい、次々と襲いかかる特大の羞恥に身悶えしながら読んでいた。いま考えたらよくそんな本をバイト先で読もうと思ったなというかんじだが、人間というのはときに自分でもどうかしていると思う行動を取ってしまうものなのである。ぜんぶ角田光代の小説に書いてあった。

 こんなしんどい作品もう二度と読むものかと存在自体を記憶から抹消していたのだが、それから十数年後、信じられないことに『愛がなんだ』が映画化されるという情報が飛び込んできた。真っ先に思ったのは「死ぬ!!!!」だった。ひどい、そんなことされたら死ぬ、あんなものを映像化するなんていやがらせとしか思えない、人の心がないのでは、いっそ殺してくれとすら思った。

 あまりのおそろしさに映画館に観に行くことはできなかったが(だって逃げ場がないじゃん!!!)、自宅で配信で観ることにした。いやだいやだと思いながらもこのような行動に出てしまうのだから人間というのはほんとうに理不尽な生き物である。だめだとわかっていてもかさぶたは剝がしたくなるし、虫刺されは搔きむしりたくなる。人間というのはそういうものだと角田光代の小説に書いてあった。

 結論から言うと映画版では原作を読んだときほどのダメージを食らわなかった。主演俳優たちの、だめであることはまちがいないんだけれど、どこかおかしみのあるチャームに救われたところもあるかもしれない。原作のテルコやマモちゃんはもっとあられもなく、もっとしんどかった。一人で観るのがこわかったので夫といっしょに観たのだが(『ミッドサマー』のときもそうした)、映画の内容そのものよりも「なにこの女うざい」とけらけら笑いながら観ている夫のほうにまじかと思った。おまえまじか。すぐ隣にいる女が、いまうざいと言った女と同じことをしでかしかねない人間だなんてつゆほども疑っていない、その屈託のなさにうちのめされた。

 重たい女になってはいけない。好きな相手にうざいと思われないようにしなければならない。電話がかかってきてもすぐに飛びついてはいけない。メールがきてもすぐに返信してはいけない。ちょっと焦らして思わせぶりにふるまうぐらいでちょうどいい。

 私が若かったころは、その手の恋のかけひきというか恋愛指南のたぐいが毎月のように女性誌に掲載されていた。数多くの「いい女になるためには」本が書店に並んでもいた。もしかしたら私が知らないだけでいまもどこかで書かれ、書店で売られているのかもしれない。たしか『源氏物語』にもそんなようなことが書いてあった気がする。

 テルコの友人である葉子や山中吉乃、マモちゃんの思い人であるすみれもまた、テルコに同じようなことを説く。都合のいい女になるな、男を待つのではなく待たせる女になれ、と。

 そんなこと、わざわざ言われるまでもなくテルコだってわかっている。そうできるものならそうしたいと思っている。やりすぎないように、調子に乗らないようにとつねに気をつけながら、びくびくと顔色をうかがうようにマモちゃんに接している。でもそうできない。そうできないから苦しいのだし、自己嫌悪に陥りまたあれこれ思いをめぐらせ、湿った激重女になってしまう。

 私はテルコを笑えない。こんな恋愛をしたこともなければ、ある程度分別もついているからテルコのような失態を犯しはしないとどこかで高を括っている。私だったらもっと上手くやれる。そう思っている時点で、もうテルコと同じ穴のむじなである。おそらく葉子だって山中吉乃だってすみれだって(なんならうちの夫だって)、ほんとうにはテルコを笑えないのではないか。彼らのとなえる「いい女」なんて屛風の虎にすぎず、優位に立っているつもりで、安全なこちら側に留まっているつもりで、いつ何時あちら側に足を踏みはずすかわからない。人間とはそういうものだと角田光代は書いているし、すでに千年前に紫式部も書いているじゃないか。


 さっぱりと気負わず、なにごとにも頓着せず、いつでも自然体で、泰然とマイペースを貫いている。

 奥田民生のパブリックイメージを挙げつらねてみると、まさに「屛風のいい女」である。そうか、テルコが目指すべきところは民生だったのか! 改めて奥田民生のセルフブランディング能力に舌を巻いてしまうが、でもそれだって幻想にすぎないのかもしれないといまは思う。

 角田光代は奥田民生なのかと訊かれたら、そんなことはまったくないと思うのだが、私にとってのホームという意味では、やっぱり角田光代は奥田民生なのである。

(次回は3月8日公開予定です)


吉川トリコ(よしかわ・とりこ)

1977年生まれ。2004年「ねむりひめ」で女による女のためのR-18文学賞大賞・読者賞受賞。2021年「流産あるあるすごく言いたい」(エッセイ集『おんなのじかん』所収)で第1回PEPジャーナリズム大賞オピニオン部門受賞。22年『余命一年、男をかう』で第28回島清恋愛文学賞を受賞。2023年『あわのまにまに』で第5回ほんタメ文学賞あかりん部門大賞を受賞。著書に『しゃぼん』『グッモーエビアン!』『戦場のガールズライフ』『少女病』『ミドリのミ』『光の庭』『マリー・アントワネットの日記』シリーズ『夢で逢えたら』『流れる星をつかまえに』『コンビニエンス・ラブ』など多数。
Twitter @bonbontrico


 

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