乗代雄介〈風はどこから〉第21回

乗代雄介〈風はどこから〉第21回

21
「山に埋もれた歴史を知ろう」


 全国的に急に冷え込んだ11月下旬のある日の朝、私は長野駅前のバス停にいた。息こそ白くならないが、顔一面に空気の冷たさを感じる。前の週には最高気温が16度を下回った日はなかったそうだが、今日は10度ほどの予報だ。まして内陸盆地のため、朝晩はかなり冷え込み、この週は氷点下になる日もあった。

 色々な都道府県に行こうと宣言しておきながらなぜ再び長野にいるかと言うと、ちょっとした事情がある。今どき、文章を書くにあたって出版社から取材費が出ていると思っている人はいなそうだけれど、この連載も当然出ていない。遠出をすると、旅費で原稿料が吹き飛ぶ。吹き飛んだっていいし、実際吹き飛んでいるのだが、それが不安になる寒い時期もある。

 JR東日本が〈どこかにビューーン!〉というサービスをやっている。出発駅から任意の駅への新幹線の往復チケットが6000JREポイント(出発駅によって必要ポイントは異なる)で取得できるというもので、とてもお得である。ただし条件があって、行き先の駅は4箇所がランダムで提示され、自分では選ぶことができない。その中の「どこか」への往復チケットが当選するという仕組みで、四つの駅は何度も選び直せるためある程度は希望駅が絞れるのだが、そこからは運任せでしかなく、私は何度も長野方面の駅が当たっているというわけだ。

 さて、長野駅から40分ほどバスに乗って向かうのは松代。南側の三方を山に囲まれた、藤沢川・蛭川と神田川の合流扇状地にある町だ。バスの車窓からは、この山々の低いところにかかる雲がずっと見えていた。イヤホンから西岡恭蔵「朝の散歩道」が流れ、旅情を駆り立てる。

 荒町入口というバス停で降りて、西へ町の中を歩く。かつて松代藩の城下町として栄えたこともあり、町には水路やその跡が目についた。砂場付きのすべり台がぽつんと置かれた馬場町遊園地西には、片面のフェンスに沿って石積み水路が残されている。説明看板によると町の水路は、ここにあるような武家屋敷の池から池をつなぐ〈泉水路〉、道の中央を流れる〈カワ〉、農業用水となる〈セギ〉の三つに分けて管理されていたといい、確かに、西へ歩いて行くと石を組んだ池が道端に見つかった。この先にある神田川から引いた水をためていた池なのだろう。

公園際の泉水路。
公園際の泉水路。

 数メートルほどの川幅しかない神田川に出ると、白い靴下を履いた猫が出迎えてくれた。導かれるように小さな橋を渡ると、象山地下壕に至る道の前だ。その名の通り、標高475.8メートルの象山の地下に掘られた壕で、一部が見学できるようになっている。受付に声をかけると、「ヘルメットをつけて入ってください」とのこと。そばの四阿の下にロッカーがあり、開いた戸の中に青や緑のヘルメットが重なっている。だいぶすかすかである。そこから一つ取って装着し、斜面に空いた地下壕の入口へ。動物が入ってしまうから閉めるように言われた鉄の格子扉を閉じて中へ。外では、後からやってきた学生の集団が引率の先生たちにヘルメットを着用するよう促されている。

 最初に少し下ると平らになった坑道は、ごつごつした岩が剝き出しである。ところどころ赤い鉄骨で支えられてはいるが高さも幅も十分で、手を広げてもまだ余裕があり、少し行くとさらに広くなった。長く続く坑道に点々と設置された白色灯が、ずっと先では重なって歪な玉を作り、湿りながら粉っぽさのある壕の空気をぼんやり照らしている。

壕内は暗くなかなかピントが合わず。
壕内は暗くなかなかピントが合わず。

 この坑道、二度曲がって約500メートル先まで見学することができるが、それは全体のごく一部に過ぎない。20メートル間隔に20本の坑道が平行して通され、50メートルごとに横の連絡もあり、総延長は5853.6メートル。床面積は23404平方メートルの広大な空間である。私より先に入っていたらしい見学の学生たち、後ろから来た別の学校の学生たちの間に距離を取って挟まれるようにして、抜けなくなった削岩機のロッドなどを見て回ったが、広い坑道は横道に音が逃げていくのか静かなものだった。

 さて、自分も知らなかったので随分もったいぶってしまったが、ここは太平洋戦争末期、迫る本土決戦に備え、国体護持のために天皇や軍部、政府機関を移転する目的で作られた松代大本営地下壕の一つである。象山地下壕には政府機関や放送・電信の本部が、南東にある舞鶴山地下壕には皇居と大本営が置かれる予定だった。1944年11月から終戦の8月まで工事が行われ、仮皇居は今も建物まで残っている。

 紙幅がないので詳しいことは調べてみてほしいが、来なければ知りづらいこともある。働き手の少ない終戦間近に秘密裏に進められたこの工事には、約6000人の朝鮮人が従事したと伝えられており、地下壕入口の横には漢字とハングルの併記された追悼碑が建っている。終戦から50年経った1995年の建立は、有志の方々の聞き取りを中心とする地道な調査が実現させたものだ。一次資料がほとんど残されておらず、労働者数の推定すら容易ではない中、最終的に100人前後と推測されている犠牲者のうち個人の特定ができた者は数名しかいないという。

 壕入口の隣にある〈もうひとつの歴史館・松代〉では、それらこの地に埋もれかねなかった歴史の調査結果を紹介している。振り分けられた地区や職種や組ごとの労働環境の違い、主に朝鮮人の親方たちが利用した慰安所、その働き手の朝鮮人女性、町民との関係についてなど、細かな展示を読みふける。存在すら知らなかった地下にまで亘っている銃後の無数の人間生活を知るにつけ、戦争について何か口にすることの難しさを痛感するが、せめてこうして書くことにはためらいを持たずにいたい。壕内の壁には朝鮮人労働者の出身地と思われる地名や名前の落書きが残っているそうで、この前日、善光寺の山門に上がった時にも昔の人たちの居住地と名前が無数に書かれていたことを思い出した。

 壕のすぐ隣にある真田家が開基の恵明禅寺(恵明寺)、祠のそばに狐穴の空いている竹山随護稲荷神社を参詣してから、ここらで一番広い境内の象山神社へ。江戸後期にここ松代で生まれ、学者・思想家として活躍した佐久間象山が祀られている。この名(雅号)は地下壕のある象山から付けたものと思うのが普通だけれど、これにはなかなか面白い顚末がある。

 25歳の時に象山という雅号をつけた際、彼が参考にしたのは、さっき行った恵明禅寺の山号だった。山号というのは、もともとは中国で同名の寺同士を区別するために名の上に冠するようになった称号が、とくに禅宗の寺院が山中に多かったために山の名をつけるものとして定着していったものだ。日本にも伝わり、比叡山延暦寺、高野山金剛峯寺などが有名だが、件の恵明禅寺は〈象山恵明禅寺〉と号する。この象山は、中国泉州の土地で、開山の祖とされる中国僧木庵(実際の開山は弟子の良寂)が禅に出会った場だという。一方、のちに地下壕ができる山は当時、古城や竹林があったので「城山」とか「竹山」と呼ばれていた。

 佐久間象山は、恵明禅寺の古い額に「象山」とあるのを見て、後ろの山の元々の名がそうであろうと考えた。名付けのあらましを書いた手紙には、近所の人々は「象山」という正式な山の名前を知らずに「城山」とか「竹山」と呼んでいるので別に使ってよかろうとあり、さらには何の関係もないのに、象に似た姿の山だから象山なのだろうとか推測している。ところが、明治維新後に佐久間象山の名が権威を持つようになり、この解説が説得力を持ち始め、「城山」「竹山」の代わりに「象山」の名が定着してしまったのだ。

 以上は、高橋宏による「佐久間象山雅号呼称の決め手」からの説明である。その後の「ぞうざん」か「しょうざん」かという問題も興味深いので、信州大学のリポジトリから読んでみてほしい。象山に地下壕ができる数十年前の出来事だ。

 長くなってしまったのは説明も当日の滞在時間も一緒で、松代城跡近辺の真田家関連の施設は見学できずに先を急ぐ。城跡を搦手から出て、国道403号に沿ってしばらく歩くと、やがて道は千曲川に寄りそうようになり、家や畑の奥に一段高い堤防が覗く。天気は優れず雲が空を覆っているが、だんだん霧のような雨が冷たい風に交じり始めた。

 セブンイ-レブンの裏に入ると、サイクリングロードのように整備されて歩きやすい道があった。伊東銀次「こぬか雨」を聴きながら、そしてそれに包まれながら、金井池の畔に植わった柿の木にまぎれたメジロやシジュウカラの混群が実をついばんでいるのを見る。

大室まもる君氏。
大室まもる君氏。

 後ろを気にすることもなく歩いているうちにサイクリングロードが終わり、大室の町並みを北東へ歩く。Y字路を見張る警備員の服装をした人形は〈大室まもる君〉という名前らしい。半鐘を下げた火の見櫓が今も住宅の間に立ち、交差する電線に搦め捕られたような二基目を見つけたところで右に曲がると、田圃道が広がった。レキシ「古墳へGO!」を聴きながら高速道路をくぐり上がった先に、大室古墳群がある。

 大室古墳群は、約2.5平方キロメートルの範囲に、三つの山丘尾根とそれに挟まれた二つの谷部に分かれて500以上の様々な古墳が分布する場所だ。私が訪れたのはそのうちの大室谷支群で、最も多い241基がある。長野盆地を見下ろせる大室古墳館でそれを学んだあと、裏手から山の方へ曲がりくねった舗装路を登っていく。

 誰もいない鬱蒼としたスギやカラマツ林の間、どこを見ても古墳だらけである。大きいもの、小さいもの、崩れているもの、整備されて横穴に入ることができるもの。とくべつ珍しいものには舗装路を外れた道へと案内が出ており、中でも168号墳はオススメのようだ。ほぼ全て人頭大の石だけが積まれてできた積石塚で、埋葬部分は合掌形石室となっている。なるほど、苔むした無数の石が積まれてというより集められて丘をつくった中央に、大きな板状の石が斜めにもたせ合う形で組まれている。中は、大人三人がしゃがんで入れるくらいの広さで、屋根は予想以上に浮いている部分が多いので、できた時は嬉しかっただろうなと思う。

見事な設えの168号墳。
見事な設えの168号墳。

 仔細に観察していた顔を上げると、日暮れが近い森の中、あたりは相当に暗くなっている。斜面を見上げるといくつかの墳丘が目につき、林の奥を満たしている闇の中にもまだまだある雰囲気だ。クマが出るという看板が目に入る。長野駅に帰るバスはすでになく、楽に帰ろうとすれば須坂駅行きに乗るのが最後だ。私は上まで行くのをあきらめ、木々の陰影に縁取られた長野市街の夜景に向かってとぼとぼと山を下っていった。

写真/著者本人


乗代雄介(のりしろ・ゆうすけ)
1986年北海道生まれ。2015年「十七八より」で第58回群像新人文学賞を受賞しデビュー。18年『本物の読書家』で第40回野間文芸新人賞を受賞。21年『旅する練習』で第34回三島由紀夫賞を受賞。23年『それは誠』で第40回織田作之助賞を受賞し、同作の成果により24年に第74回芸術選奨文部科学大臣賞を受賞。ほか著書に『最高の任務』『ミック・エイヴォリーのアンダーパンツ』『パパイヤ・ママイヤ』などがある。

「風はどこから」連載一覧

源流の人 第51回 ◇ 山口馬木也(俳優)
吉野弘人『リッチ・ブラッド』