ニホンゴ「再定義」 第1回「外タレ」
ときに一九八三年生まれの私は、どうも欧米系「在日外国人」の世代的境界に位置する人らしい。ありていにいえば、私より年上のガイジンさんたちの来日動機が求道的なものからビジネス、あるいは成り行きで仕方なくなど多岐にわたるのに対し、年下の場合、マンガ・アニメ・ゲームといったサブカル的コンテンツへの愛着が動機となるケースが圧倒的に目立つ。
そしていわゆる「外タレ」は、私より年上の世代に多い。言い換えれば、年下でビッグに成功した外タレをほとんど知らない。
これは何故なのか?
自分より年下の留学・定住外国人を一律「オタク的」と決めつけるのは乱暴な極論だが、敢えてそのようなベクトルを踏まえつついろいろな事例を探ってみると、何気に深刻なパターンが見えてくる。
たとえばオタク業界で人気を博し、メディア露出を果たした例は複数ある。語学力、芸能的資質、そして何より日本文化へのリスペクトという点で、その外国人たちの資質は明らかに旧来の「外タレ」層を凌駕していた。が、往々にしてその後、大きな期待を受けながら、最終的にブレイクを果たせず神経をすり減らして帰国、というパターンに帰着してしまう。
その要因についてはオタク業界の内外からいろいろ言われているが、個人的経験に即して言えば、オタク産業で仕事するならその古来の「業界文化」に逆らわずに溶け込もう、要件をちゃんと満たそうと頑張ったのがむしろ良くなかったのではないか、と感じる。
彼ら彼女らはおそらく、外国人という以上に「一匹のオタク的表現者」として勝負したかったのではないか。しかし現場で求められるのは単なる実力以上に「ガイジンらしさ」と「ガイジンらしからぬ愛嬌」であり、その志との食い違いの常態化が残念なパターンを生んでしまったように思う。
要するに、外タレが一種の「種族」として成功を収めることが出来た最大要因は「日本人のニーズに合ったガイジン像を演じる」能力とコツの的確さなのだ。
ホンモノがホンモノ以上のニセモノを演じ切るからこそ説得力があり、インチキのからくりもバレにくい。これは本稿の冒頭で「詐欺であることの証明が難しい詐欺師の一種」と書いたことの核心であり、外タレという言葉の周辺に確実に漂う、論理を超えた「いかがわしさ」の本質もこれに由来する。
ちなみに、私より若いオタク系の外国人の成功パターンは、ネットで自前メディアを駆使して商売する流儀が中心で、個人事業主的な空気感が濃い。「外タレ」的な文化的虚実にまつわる後ろ暗さを振り切った感があり、虚なら虚を前面に押し立てて堂々と商売している感が興味深い。ただし、彼ら彼女らが「外タレ」の後釜 or ニーズの受け皿と言ってよいかどうかは不明だ。二〇二〇年代前半においては、たとえば「ケーキ姫」という単語で検索してそこに出現する文字とビジュアルを見ればいろいろわかるだろう。
私自身は、外タレにもケーキ姫にもなりきれないまま、いろいろ模様眺めをしながら隙間産業的に日本社会で細々と生きていく宿命を背負っているようで、それはそれでよかろうと思っている。
(第2回は3月31日公開予定です)
マライ・メントライン
翻訳者・通訳者・エッセイスト。ドイツ最北部の町キール出身。2度の留学を経て、2008年より日本在住。ドイツ放送局のプロデューサーも務めながらウェブでも情報発信と多方面に活躍。著書に『ドイツ語エッセイ 笑うときにも真面目なんです』。