ニホンゴ「再定義」 第14回「エモい」

ニホンゴ「再定義」第14回


 実際、好き嫌いは別として、細分化・タコツボ化したついでに攻撃性を増した現代の言論環境を泳ぎ切っていくにはこうした「厳密さの意図的放棄」というアクションがときに必要であり、たとえば現代にて「あはれ」の絶妙ニュアンスを万全に再構築するためにはそれが不可欠だ、と言われれば納得しかない気がする。

「エモい」は「既存言語の組み合わせだけでは微妙に表現不可能な【あはれ】的な何か」を表現する言葉だ、というのは確かに間違いではないが、実際には「既存言語の組み合わせだけではいくら頑張っても【あはれ】周辺に漂うニュアンス齟齬の地雷を踏みかねないので、それを躱すため」の表現、といったほうがよりリアルであるように思う。

 そして、生活するにも文芸を読むにも、こうしたメタ的なトコから真に重要な「感性のアップデート」が行われるのではないか、と感じたりする。このへんの状況、果たして二十年後はどうなっているのだろう。

 ちなみに、ドイツ語の言語空間ではこのような場合にどう切り抜けるかといえば「何も言わない」のだ。間接的な言語コミュニケーションのための言葉を新たに作ることはない。作るニーズを感じないのだ。目に見えないものはそこには存在しない。一意に説明可能なもののみが言語化され、逆に、言語的に定義可能なもののみが存在する。このドイツ語ワールドの観念的な閉鎖性はメリットとデメリットの両面で強烈だ。ゲーテやシラーの言霊の観念的な凄さがこれに立脚しつつ生じてきたのは確かだが、現実やメタ現実の一部(それもよりによって重要なトコ)を平然と無視する面があるのも確かである。

 今回の「エモい」の真意は、ドイツ語では意味的にそもそも切り捨てられてしまう領域に属するが、個人的にそれでよいとは思わない。言語的な問題を内部から克服しようとする人間的に切実な心情と知力が見え隠れするから、それを「観念的に存在し得ない」として片付けるのは一種の暴力だと感じるのだ。

(第15回は4月30日公開予定です)


マライ・メントライン
翻訳者・通訳者・エッセイスト。ドイツ最北部の町キール出身。2度の留学を経て、2008年より日本在住。ドイツ放送局のプロデューサーも務めながらウェブでも情報発信と多方面に活躍。著書に『ドイツ語エッセイ 笑うときにも真面目なんです』。

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