ニホンゴ「再定義」 第16回「隠居」
産業革命時に発生したラッダイト運動(機械化の進展に反対する労働者たちによる機械打ちこわし運動)は、機械化によるメリットの認知普及等とともに下火になった。これは社会に「新しいものを追う」という世代更新含みの前進活力があったからともいえるわけだが、今後の「時代にはついていけないが、生活維持のために働かざるを得ない」高齢者問題ではこのあたり、社会的な前提がいろいろと逆転する。まず19世紀と異なり、特にいわゆる先進国では、変革を拒むあるいは逆行を潜在的に希求する層が一定期間、人口構成的に見て世論支配的な勢力になりかねない点、そして彼らが、自らのアップデートを拒む一方で情報技術の恩恵には浴していて、技術/産業構造の変化による経済的アウトプットの再分配が自分たちのような層にとって過度に不利なように仕組まれるのではないか、という猜疑心を維持拡大させ続けそうな点だ。特にこの「再分配の不公正」は、公私を問わず新規産業にまつわる「社会の何かを切り捨てるための」ダークサイド面として実際すでに大きく問題化してきているといえるだろう。
こうしてみると「隠居」というのは、認識アップデートを止めてしまった層に用意されたポジションとして、実は社会的にかなり有効な概念だったのだなぁと改めて感じずにいられない。今後、隠居できず引退できず、さりとてアップデートもできない層から発生してくる怨嗟こそある意味ホンモノであり、無視できない。
実際のところ、これからどうするか。
技術/産業構造の変化を止めるか、または「停止した市場を残す」みたいな方策が必要なのかな、とは感じるが、それはそれで何かの不公正の隠蔽ではないかと疑われる余地を残すだろうし、また、若年世代の意向を無視しての方針という面があることも否めない。
個人的にひとつ確実だと思うのが、「産業形態と情報技術の進歩は、人間存在と知性・理性の向上とシンクロしている」という、教養ある人々が漠然と抱いていた知的構図がどうやら間違っていた、あるいは何かしらの限界まで行きついてしまったらしい、ということである。
これを直視することにより、世代を超えて何かマシなものが生まれてくるのかもしれない。
(第17回は6月30日公開予定です)
マライ・メントライン
翻訳者・通訳者・エッセイスト。ドイツ最北部の町キール出身。2度の留学を経て、2008年より日本在住。ドイツ放送局のプロデューサーも務めながらウェブでも情報発信と多方面に活躍。著書に『ドイツ語エッセイ 笑うときにも真面目なんです』。