ニホンゴ「再定義」 第6回「四季」

ニホンゴ「再定義」第6回

 当連載は、日本在住15年の職業はドイツ人ことマライ・メントラインさんが、日常のなかで気になる言葉を収集する新感覚日本語エッセイです。 


名詞「四季」

 観光CMとかで

「日本には、四季があります!!」

 という明るい売り言葉をよく耳にするが、じゃあ外国には四季が無いのかよ、とそのたびに思う。観光用アピールであれば「日本には、日本ならではの、濃厚でいけてる四季があります!」みたいな路線で洗練されたキャッチコピーにすりゃいいのに、なぜ有る無しの極端な思考になってしまうのか?

 と思っていたら。

 Twitterで紙魚エビさん(@bookfishswim)という方が極めて興味深い文化ツッコミをなさっていた。

 連投なのでつなげてみる。

 
 学生の作文、「日本人はおもてなしの心を持っているので」とか「日本には四季があるので」とかが頻出して、そのたび「他の国の人にはおもてなしの心がないみたいですがそんなことはありませんね」「四季は多くの国にありますね」とコメントせねばならないので一度授業中にその話をしたほうがいいのか
 こういうのニッポンスゴイ系の番組とかなんかそういうやつの影響なんじゃねえの~と思っちゃうんですけど
 かといってそれは他の国にもあるよ?と言うと、驚くわけではなくて「確かにそれはそうですね…」となるので、なんというか「日本には~があるので」という言い回しが「他の国にはない」を前提にしていることになっちゃってるという意識がそもそもなさそう
 これはウヨい私の父もそうで、「日本は~だからすごい」とか言うので「いやそれは普通に他の国にもある」ってツッコミを入れると否定するわけではないが、「だから特にその点において日本が特段すごいわけではない」とはならず、「他の国にもある、だが日本はすごい」というよくわからないことになる

 

 素晴らしい。特に後段が秀逸なり。

 ここで窺えるのは、この手の「日本の四季」「おもてなし」推しには、誰か(あるいは何か)を是非にも説得しようという積極的意図は希薄らしいこと、また、論理破綻が明らかな割にはそれに対する防衛ギミックがまったく用意されていないことだ。

 つまり、真の動機は表面には無い、ということ。

 興味深い。実に興味深い。

 ここで、私が最初に出した「日本には、日本ならではの、濃厚でいけてる四季があります!」というキャッチコピー(仮)を思い出してみよう。なぜこれではダメなのか?

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