作家を作った言葉〔第18回〕水沢なお

作家を作った言葉〔第18回〕水沢なお

「一番遠くの街に住むひとと結婚しよう。種の多様性のためには、同じ街に住むひとと子孫を残すより、そのほうがいい」

 理科の先生がそう言ったので、火星に行かないといけなかった。水のある惑星には、生命、ひいては街が存在するかもしれない。そこに、わたしと子孫を残すべきだれかがいるのだろうか。火星にも学校があって、砂色のカーテンが陽光でふくらんで、アルコールランプの炎は青く燃えて、同じように〝よりよい生殖〟を教わるのだろうか。

 先生の言うことはいつも正しかった。ただ、正しかったはずの言葉はいつの間にか、やわらかい風がすり抜けるように忘れてしまって、正しいかどうかわからない言葉ばかりが、こうやって頭の底で白く光る。

「髪の毛を結びなさい」

 と体育の先生から言われて、高校生の頃、泣いてしまったことがあった。自分で結ぶことができなかったから、水泳の後は器用なクラスメイトに髪を結んでもらっていた。濡れた髪を触らせるのは申し訳ないと思ったから、そのときは、髪をおろしたまま授業をうけていた。結べません、と答えて、立ちなさい、と言われてひとりだけ立った。張りつめた空気のなか、ひろげた黒いゴムの輪に、なにをどのように通せば正しいのか、わからなかった。

「世の中で一番美しいのは詩です。詩だけです」

 国語の先生がそう言ったから、詩を書いていた。詩とはなにか、美しいとはなにか、まるでわからなかったから、その言葉はひときわ強い光を放って、いまでもまぶたのうえで明滅している。言葉に導かれるように詩を書いている。わたしの人生を大きく変えたその言葉を、かつてのクラスメイトは誰ひとりとして覚えていなかった。

 


水沢なお(みずさわ・なお)
1995年静岡県生まれ。2019年刊行の詩集『美しいからだよ』で中原中也賞受賞。第二詩集『シー』。近著に初の小説集『うみみたい』がある。

〈「STORY BOX」2023年6月号掲載〉

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