吉野弘人『ステイト・オブ・テラー』
極上のフーダニット
「ヒラリー・クリントンとルイーズ・ペニーの国際政治スリラーを翻訳してほしい」という依頼を受けたときは大いに驚いた。第四十二代アメリカ合衆国大統領ビル・クリントン夫人にして、オバマ政権下で国務長官を務め、さらにドナルド・トランプと大統領選を争ったヒラリー自らをモデルにしたスリラー。話題にならないはずがなかった。むしろ話題先行で内容はどうなのかという心配も頭をよぎったが、一読してその不安は一掃された。まさにページをめくる手が止まらない一級品のスリラーである。
だが本稿ではこの作品のもうひとつの側面、本格ミステリーばりの〝フーダニット〟(だれが殺人を犯したのかという謎に焦点を当てたミステリーのスタイル)としての一面を紹介したい。「国際政治スリラーなのにフーダニット?」と思うかもしれない。本作のプロットは、殺人事件の犯人を追う展開ではないものの、物語の終盤で現政権内部の〝裏切者〟の存在が明らかになる。思わぬ形でかつての政敵から国務長官に指名された主人公エレンにとっては、だれもが怪しく思えた。進行するテロを防ぐと同時に、この裏切者がだれなのかも探し出さなければならない主人公。その推理は二転三転し、やがて意外な……。おっと、ここまでにしておこう。物語の終盤は、テロを防げるかどうかのタイムリミットサスペンスと同時に、裏切者がだれなのかが明らかになっていく謎解きミステリーとしても愉しめる。
あくまで推測ではあるが、こういったフーダニットの要素を作品に盛り込んだのは、共著者であるルイーズ・ペニーのアイデアかもしれない。訳者あとがきでも書いたが、ルイーズは人気、実力を兼ね備えたベストセラー作家であり、数多いるベストセラー作家のなかでも、ミステリー文学賞の受賞歴という点では、彼女に匹敵する作家はいないと言ってもよい。特にアガサ賞の常連であり、毎年のようにノミネートされ、これまでに八度も受賞に輝いている。そんな彼女が得意にしているのがフーダニットを中心とした謎解きミステリーなのである。ルイーズは、過去に日本で紹介された作品のタイトルから、コージー・ミステリーの書き手のように思われている面もある。だがどうしてどうして人々の心の奥底に潜む〝悪意〟を巧みに描く、思索に満ちた物語の書き手なのである。本作にもそんな彼女の作風を垣間見ることができる。そんなビターな一面も味わっていただきたい。
ヒラリー・クリントンとルイーズ・ペニー。国際政治とフーダニット。一見、混じり合わないように見えるふたつが融合したことで、今までにない一級品のエンタメ小説が生まれている。存分にお愉しみいただきたい。
吉野弘人(よしの・ひろと)
1959年宮城県生まれ。山形大学人文学部卒。銀行員、監査法人勤務を経て翻訳家に。ロバート・ベイリー『ザ・プロフェッサー』の翻訳でデビュー。小学館文庫の同シリーズ『黒と白のはざま』『ラスト・トライアル』『最後の審判』はいずれも話題作となる。ほかには『評決の代償』『フォーリング―墜落―』『喪失の冬を刻む』(いずれも早川書房)の訳書がある。
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『ステイト・オブ・テラー』
著/ヒラリー・クリントン 著/ルイーズ・ペニー
訳/吉野弘人