佐原ひかり『鳥と港』

佐原ひかり『鳥と港』

ジョブホッパーの祈り


 新卒から数えて4回転職している。そのうち2回は逃げるようにして辞めた。1回目は、朝、会社に行くのが嫌になって海に逃げた。最っ高に気持ちよかった。2回目は、職場で机に突っ伏して泣き、辞めた。これは最悪だった。ドン引きの空気の中、顔の上げ方がわからなかった。

 みんなができていることができない、というのは本当に苦しい。

 プールサイドから見下ろされながら、あがけどもがけど沈んでいく水泳の授業。音を外していることを公然と指摘される合唱の練習。私にとって、履歴書の公開はそれに近い。短い職歴をならべて、同じところで長く「働けない」ひとである、ということをあかすようなものなので。

 どうやら、私のなかには、「ちゃんと働く」ことへの根深いコンプレックスがあるようだ。それを、『鳥と港』を書きながら自覚した。

『鳥と港』の主人公・春指みなとは大学を卒業後、9ヶ月で会社で辞めた(私も9ヶ月で辞めた)。平日の昼間、更新されないSNSのタイムラインを眺め続けては、自分も早く働かなくちゃと焦る(そうそう)。これから何十年とつづくであろう労働人生に絶望を覚えながら(本当にそれ!)。

 と、いう感じで、『鳥と港』は書き手である私にとって、ものすごく危ない小説だった。ちょっと気を抜くと、自分の話にしてしまいそうになる。これは「みなとの話」であって「私の話」ではないのに。

「働く」とひとくちに言っても、働き方や環境、待遇、仕事への思いはバラバラだ。誰ひとりとして、同じ「仕事」はしていない。それなのに「働くってこういうものだよ(甘くないよとか、辛くて当然とか)」という、いや~な共通認識がある(気がする)。

 私はそれを内面化しそうになるたび、いやそんなことはないだろ、そんなもん誰が決めたんだ、私はぜったい私の「働く」をあきらめないからな、と逃げたり泣いたりしながら職を転々としてきた。

 4月、目に涙をいっぱいためた新入社員らしき人を朝のホームで見かけた。あの人に、『鳥と港』が届けばいいな、と思う。届いたからといって、小説は小説で、人生を変える力なんてないんだろうけど、それでもなにかの種ぐらいになればいいなと思う。どうか、あなたの「働く」を、自分の人生をあきらめないでほしいと祈る。祈って書く。甘っちょろいことも、きれいごともたくさん書いていく。それがジョブホップの末にたどり着いた、今の私の「仕事」だと思っている。

 


佐原ひかり(さはら・ひかり)
1992年兵庫県生まれ。2017年「ままならないきみに」でコバルト短編小説新人賞受賞。19年「きみのゆくえに愛を手を」で氷室冴子青春文学賞大賞を受賞し、2021年、同作を改題、加筆した『ブラザーズ・ブラジャー』で本格デビュー。他の著書に『ペーパー・リリイ』『人間みたいに生きている』、共著に『スカートのアンソロジー』『嘘があふれた世界で』がある。

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鳥と港

『鳥と港』
著/佐原ひかり

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