夏川草介 特別読切「青空」

『コロナ』第1話読み切り


 長野県の中央に、三千メートル級の山々に囲まれた、筑摩野と名のつく盆地がある。

 筑摩野中央医療センターは、その筑摩野の中ほどにあり、複数の呼吸器内科医の所属している規模の大きな医療施設だ。病床数は約四百六十床。信濃山病院の二倍以上である。コロナ患者を幅広く受け入れているわけではないが、信濃山で対応が難しい、重症化の気配のある患者については、搬送を受け入れる体制を作っている。

 受け入れ口は、もちろん正面玄関というわけにはいかない。コロナ感染患者を、一般診療が行われている空間に通すわけにはいかないから、救急車が到着するのは病院の裏口だ。

 人気のない裏口の前に、マスクとキャップとガウンをつけた看護師が待ち構えており、そこでアイソレーターから出た患者を車椅子に移して院内に入る。広々とした廊下を抜け、エレベーターに乗り、いくつもの扉を通り過ぎて感染症病棟に到着する。そこまで患者に付き添い、無事ベッドに横たわったことを確認すれば、敷島の搬送業務は終了となる。

「久しぶり、敷島先生、お正月からご苦労さん」

 感染区域入り口のイエローゾーンで、防護服を脱いだ敷島を、落ち着きのある声が迎えた。

 病棟ステーションから顔を出したのは、白衣姿の小柄な医師だ。敷島はN95マスクをゴミ箱に放り込み、普通のサージカルマスクをつけてから会釈した。

「お疲れ様はお互い様です。朝日先生こそ、休日の患者受け入れ、助かりました」

「信濃山病院はコロナ診療の最前線だからな」

 朝日はステーションの奥に敷島を導いた。

「あそこが崩れると、俺たちも手の打ちようがなくなるんだから、フォローをするのは当たり前だよ」

 穏やかに笑って応じた朝日遼太郎は、筑摩野中央医療センターの呼吸器内科の責任者だ。

 敷島にとっては一年先輩で、専門も立場も全く異なるのだが、学生時代に漢方薬同好会というサークルで一緒だったという古いつながりがある。卒後はなんの接点もないまま二十年近くが過ぎていたが、昨年初めて患者を搬送してきたときに再会した。コロナ禍が引き合わせた不思議な縁である。

「こんなところで敷島に合うとは思わなかったよ。お互いいつのまにか四十歳を超えているんだよな」

「朝日さんは、二浪で私より三つ上だったと記憶しています。四捨五入をすれば五十じゃないですか」

「相変わらず淡々と的確なことを言うよなぁ、敷島は」

 そんな気楽な会話も、学生時代の思い出があるからだ。普段は口数の少ない敷島も、なんとなく言葉が多くなる。

 ステーション奥の電子カルテ端末の前に腰を下ろしながら、朝日が続けた。

「で、患者はだいぶ増えているのかい?」

「今のところほとんどが軽症ですが、数自体はかなり増えています。年末に二十床まで増やした感染症病床は八割が埋まっています」

「いつのまにか二十床まで増えているのか。思った以上にぎりぎりだな。まさか年末年始、休みなし?」

「年末に二日ばかり休めました。しかし年越しの辺りから状況が急激に変化してきています」

「つまり、令和三年は休みもなく働いているってわけか。ひどいもんだな」

 新年はまだ三日目であるが、正月の三日間であり、敷島は一日も休んでいない。朝日の言葉には、軽い口調の向こうにさりげない気遣いがある。

「まあ、こっちもなんとなく不穏な空気は感じているんだ。信濃山病院が発熱外来を一手に引き受けてくれてるおかげで、まだあんまり切迫感を感じないで済んでるんだけどさ」

 言いながら、モニター画面に平岡のCT画像を呼び出した。

「五十八歳の男性か。急激に酸素濃度が低下してきた患者だって聞いたけど」

「入院は三日前で、そのときはSpO₂が96%でしたが、昨夕から急に低下して今朝には酸素4L」

「三日前ってことは、大晦日の入院か」

 淡い嘆息が聞こえた。

 敷島は、大晦日の夜が当直であり、そこに受診したのが平岡であった。

「本人の様子は?」

「熱だけです。受診時からそうですが、今も症状はほとんどありません」

 敷島の頭には、医療センターに到着したときの平岡の姿が思い浮かぶ。

 病院裏口で、アイソレーターから出てきた平岡は、それほど辛い様子には見えなかった。むしろ自分で起き上がって、看護師が持ってきた車椅子に移っている間に、酸素マスクを勝手にはずしていたくらいだ。

〝いい天気ですね、敷島先生。外の空気ってのはこんなに気持ちのいいもんですか〟

 笑いながら軽く伸びをした平岡の姿が印象的であった。

「SpO₂は結構低いのに、本人はあまり苦しがらない。しかし元気そうに見えるからと油断していると、大変なことになる」

 その言葉に敷島はうなずいた。

 朝日は、症例数はまだ多くないものの、中等症から重症の患者を診ている。元気そうに見えて急激に悪化する患者を経験しているはずだ。

 CT画像を見つめる朝日が続ける。

「たしかに肺炎像は目立つね。両側広範囲にすりガラス影だ。とりあえずアビガンにデカドロンか」

「アビガンは昨日から開始しています」

「了解。あとはヘパリンだな。場合によっては、ステロイドはパルスを考慮するよ」

「危ないですか?」

「基本的には……」

 朝日はわずかに言葉を切ってから、椅子の背もたれに身を預けた。

「大丈夫だと思っている。高齢者なら危険だが、この患者は糖尿病があるとはいえ、元気な五十八歳だ。そうそう死なれちゃ、僕らもやってられないだろ」

「むしろ搬送するほどではなかったですか?」

 敷島が心配するのはそちらの方だ。

 感染者が増えているとはいえ、この地域一帯でコロナ患者を受け入れている病院は、信濃山病院のほかは、筑摩野中央医療センターただひとつである。今後患者が急増する可能性があることを思えば、迂闊に朝日に負担をかけたくはない。

「それは違うね」

 朝日は冷静に首を左右に振った。

「コロナって肺炎は、これまで俺たちがあんまり見たことのない挙動をする。こういう患者がときどき急に悪化して挿管、人工呼吸器になるって症例を僕らも診ているんだ。うちに搬送の上、しばらくはモニター管理というのは、妥当で的確な判断だよ」

 堅実な朝日らしい返答であった。

 学生時代から、朝日は派手な冒険はせず、慎重で着実な判断をするタイプの人間であった。医師になってからも、華やかな活躍というわけではないだろうが、地道に地域医療を支えてきたのであろう。その着実さは変わっていない様子だ。

「しかし俺たち呼吸器内科がコロナを診るんならわかるが、敷島みたいな消化器内科が前線に駆り出されていることには同情するよ」

「うちは人員も設備も足りない小病院です。なぜ感染症指定病院なのか、我々の方が戸惑うくらいです」

 敷島の小さな苦笑に、朝日はむしろ気遣うような目を向ける。

「呼吸器内科医のいる病院は、ほかにいくつもあるってのに、どこも受け入れ拒否らしいな」

「得体の知れない疾患ですから、気持ちはわかります。むしろ一番大変な重症患者を受けてくれる筑摩野医療センターには感謝しています。ここがあるから、当院もなんとか持ちこたえているのだと思います」 

「嬉しい言葉をありがとう。持つべきものは先輩を立てる後輩だね」

 朝日はやわらかな笑顔を浮かべて、

「医局でコーヒーでも飲んでいく?」

「いえ、発熱外来に戻らなければいけません」

「それは残念」

 残念と言いつつも、朝日もコーヒーなど飲んでいる余裕がないことは敷島も感じている。

 ステーションの向こうのガラス窓で仕切られた集中治療室には、複数の患者がおり、そのうちのひとりは人工呼吸器につながっている。その中を、先刻から防護服を着た看護師が忙しなく往来して、若手の呼吸器内科医が何事か大声で指示を出している様子も見える。二か月ほど前に初めてここに患者を搬送してきたときにはなかった景色だ。

 椅子から立ち上がりながら、敷島はそっと口を開いていた。

「このままで大丈夫だと思いますか?」

 漠然としたその問いに、朝日はわずかに目を細める。

「この患者のことかい? それとも医療全体のこと?」

「たぶん、後者の方です」

 もちろん患者のことは心配だし、もっと言えば、目の前の朝日の体力も心配だ。朝日の様子は昨年と変わったように見えないが、よく見ればその目は少し充血している。あまり眠れていないに違いない。しかし多忙というならお互い様で、口にするだけ野暮になる。

 朝日もまた立ち上がりながら、敷島の隣に並んだ。長身の敷島の前では、頭ひとつぶん低くなる。

「たぶん大丈夫じゃないだろうな」

 どきりとさせる言葉に、しかし敷島は自分でも不思議なくらい驚かなかった。

「やはりそう思いますか」

「去年の感染一波、二波のときに、うまくいきすぎたんだよ。もちろん信濃山病院にとっては辛い一年間だったろうが、少なくとも世間的には、わずかな患者の増加だけで拡大を止めることができた。その成功体験が残念ながら裏目に出ているんだと思う。あの時とは比較にならない大きな波の気配があるのに、役所の対応は鈍重で、周辺の医療機関も無警戒。一般人の態度も明らかに緩んで見える」

 静かに述べる朝日の言葉には熟慮の上の洞察がある。

 最近、敷島が感じていたこととまったく同じだった。

 信濃山病院のコロナ診療が始まったのは、一年前の二月にクルーズ船の患者を受け入れてからだから、すでに一年近くになる。

 呼吸器内科医もいない小病院が長い期間、なんとかコロナ診療を支えてこられたのは、患者の急激な増加がなかったからだ。しかし十二月半ばころから発熱外来に来る患者の数は急速に増え始めている。今のところなんとか対応はしているものの、これまでの経過の中では一度もこんな増え方はなかった。まだ今は軽症患者が多く、平岡のようなケースはまれだが、患者の増えるスピードが異常である。これがこのまま続けば一、二週間のうちに大変な事態になる。

「敷島の病院もそうだろうが、うちも上層部には繰り返し危機感を伝えている。けれどもそれがなかなか切迫感を持って他の医療機関に伝わっていかない。だいたいコロナ診療ってのは、誰もが秘密にしたがる傾向を持っている。風評被害や近所からの嫌がらせを恐れて、個人も病院もやたらと秘匿したがる。こんな病気はこれまでなかった。おかげで俺たちでさえ、どこの病院にどの程度の患者がいるのかさえ把握できていない。その秘匿性が、この厄介な感染症への恐怖感まで見えにくくしているんじゃないかと思う」

 踏み込んだことを朝日は口にした。

 感染状況に、これまでとは異なる異様な気配があることを、信濃山病院の医師や、朝日のようなコロナ診療に携わっている医師たちは、明確に感じている。しかし一歩コロナ診療の現場から離れてみれば、外の世界には不気味なほど楽観的な空気が満ちている。

 一般人だけではない。コロナに接していない医療機関においても、とても危機に備えている様子が見えない。テレビでは毎日のように感染者数の増加が報道され、キャスターの深刻そうな顔が映し出されているのに、実感としてはどこにもコロナ患者がいないような雰囲気さえある。このギャップは、これまでで感じたことがないほど大きいと、朝日は低く告げた。

「敷島も聞いているかもしれないが、感染者が入院しているのに、表向きは入院していないことにしている病院もある。院内のスタッフでさえ知らないって病院もな。まったく厄介な感染症だ」

 ふいに朝日が、丸い大きな手を敷島の肩に置いて引き寄せた。

「敷島、今回は本当にやばいんじゃないかと思ってる」

 大きな声ではない。

 しかし敷島が戸惑うほど強い語調であった。

「手洗い、消毒、マスクだ。わかりきったことだが、絶対に気を緩めるな。一番の最前線で働いてきた医者に言うことじゃないが、世の中の緩んだ空気と長期戦の疲弊感を思えば、いつ何が起きてもおかしくない」

 見返した敷島に、朝日はすぐに笑顔に切り替えた。

 ちょうどすぐそばを、看護師が通り過ぎて行った。

「感染が収まったら飲みに行こう。十八年ぶりに」

 現実味のかけらもないその提案が、しかし温かく敷島の胸に響いた。

「たぶん、十九年ぶりですよ」

「あいかわらず冷静な男だよ、お前は」

 朝日の苦笑に、敷島は心を込めて一礼した。  

  

 

夏川草介(なつかわ・そうすけ)
1978年大阪府生まれ。信州大学医学部卒。長野県にて地域医療に従事。2009年『神様のカルテ』で第十回小学館文庫小説賞を受賞しデビュー。同書は10年本屋大賞第2位となり、映画化された。他の著書に『本を守ろうとする猫の話』(米国、英国をふくめ20カ国以上での翻訳出版が決定)、『神様のカルテ2』(映画化 2011年本屋大賞第8位)、『神様のカルテ3』、『神様のカルテ0』『新章 神様のカルテ』『勿忘草の咲く町で 安曇野診療記』『始まりの木』がある。

 


【好評発売中】

始まりの木

『始まりの木』
夏川草介

◎編集者コラム◎ 『警部ヴィスティング 鍵穴』著/ヨルン・リーエル・ホルスト 訳/中谷友紀子
東日本大震災から10年。いまだからこそ読みたい、震災文学3選