こざわたまこ『教室のゴルディロックスゾーン』スピンオフ小説「メロンソーダと烏龍茶」
ドリンクバーから戻ってくると、うーちゃんはトイレにでも行っているのか、部屋から姿を消していた。荷物がまだ残っていることにほっとして、ソファに腰を下ろす。時間は四時を回ろうとしていた。アイスティーを啜りながら、長い間放置していたスマホを手に取る。とその時、人の出入りがあったのか、隣の部屋の喧噪が一瞬だけこの部屋まで漏れ聞こえた。流れてきた曲に、タッチパネルを操作していた指が止まる。
それは、十年近く前にヒットしたCMソングだった。高校生の時、この曲が入ったCDアルバムをクラスメイトから借りたことがある。四人組ロックバンドのセカンドシングルで、デビューした時からのファンなのだと、その子が教えてくれた。高校に入学して、初めてできた友達だった。
誰にも見つからないよう自分の机に隠していたはずなのに、ある日家に帰ると、父がそのCDを手に私を待ち構えていた。
『こんなものを聞いてる暇があるなら、他にやることがあるだろう』
そう言って、父はその子のCDを床に叩きつけた。それだけじゃ飽きたらず、思いきり足で踏みつけた。ケースが粉々になるまで、何度も何度も。まるで、私に見せつけるように。母はいつものように傍観者を貫き、まだ四歳だった妹が、わけもわからず部屋の隅で泣いていた。私が期末テストで順位を落としたせいだと言っていたけど、本当は理由なんてどうでもよかったはずだ。父のお説教はいつだって、私に罰を与えることが目的なのだから。
そういえばあの後、私はどうしたんだっけ。CDは弁償できたんだっけ。それとも、嘘でもついたんだろうか。何も覚えていない。最後にあの子と何を話したのか、あの子にちゃんと謝れたのか――。バンドはその曲以降あまりぱっとしなくて、それから数年も経たないうちに解散してしまった。卒業後にネットニュースでそれを知った時、その子のことをちょっとだけ思い出した。最初で最後の親友と呼べる子で、多分初めて好きになった女の子だった。
「……大丈夫?」
どれだけ時間が経ったんだろう。はっと我に返ると、うーちゃんが私を見下ろしていた。
「トイレ、混んでて。ごめん、なんかあった?」
「あっ、ううん」
大丈夫、と立ち上がった拍子に、グラスに肘をぶつけた。あ、と思った時には、飲み物がテーブルに倒れていた。少し遅れて、がしゃん、とグラスの割れる音がする。半分以上残っていたアイスティーが、床にこぼれてじわじわと辺りに広がっていく。
「ご、ごめん。あの、私」
「いや、大丈夫だから」
「でも」
咄嗟に差し出そうとした手が、ぶるぶると震えていた。隠そうとしたけど、もう遅い。それは子どもの頃、私が父に怒鳴られている時の癖だった。自分の意思とは無関係に、こうなってしまう。大人になって、もう克服したと思っていたのに。
「……ね、落ち着いて。一旦座ろう?」
うーちゃんの声が遠い。恥ずかしかった。悲しかった。辺りに散らばったグラスの破片が、粉々になったCDケースと重なって見えた。あの頃、もう戻らないとわかっていながら、私はケースの残骸を必死にかき集めた。ごめんなさい、もうしません、とつぶやきながら。でも、私が本当に謝りたかったのはあの子だ。私を友達だと言ってくれた、私にCDを貸したいと言ってくれた、あの子だった。
「ちょっと!」
破片を拾おうとした私の腕を、うーちゃんがぐいと掴む。
「危ないよ」
私が何か言う前に、待って、と鋭く私を制して、うーちゃんが部屋を出て行った。戻ってきたうーちゃんは、その手に新しい飲み物を抱えていた。
「これ、飲んで」
「え」
『教室のゴルディロックスゾーン』
こざわたまこ
こざわたまこ
1986年福島県生まれ。専修大学文学部卒。2012年「僕の災い」で「女による女のためのR-18文学賞」読者賞を受賞。同作を収録した『負け逃げ』でデビュー。その他の著書に『仕事は2番』『君には、言えない』(文庫化にあたり『君に言えなかったこと』から改題)がある。