こざわたまこ『教室のゴルディロックスゾーン』スピンオフ小説「メロンソーダと烏龍茶」
何を言われているのかわからない。にもかかわらず、うーちゃんは真剣な顔で、いいから、とグラスを差し出してくる。早く早く、と急かされて、戸惑いながらもグラスに口をつけた。そして、最初の一口を飲み込むか飲み込まないかのうちに、口の中のものを噴き出しそうになった。
喉にまとわりつくようなような甘ったるさと、後を引く苦みと、それらすべてを台無しにする場違いな爽やかさが、しゅわしゅわと泡を立てながら舌の上で暴れている。複雑な味と言えば聞こえがいいけど――気がつくと、自分のものとは思えないくらい野太い声で、まずっ、と叫んでいた。うーちゃんがそれを見て、けらけらと笑う。
「美味しいとは言ってないじゃん」
「何これ! ていうか、何と何!?」
よく見ると、色もおかしい。さっきは部屋の薄暗さでわからなかったけど、グラスが一ヶ月放置されたザリガニの水槽みたいな色をしている。
「メロンソーダと烏龍茶」
うーちゃんがそう言って、いたずらっぽい笑みを浮かべる。
「うちらのハンドルネームと同じ。……だよね?」
私のハンドルネームは甘露。真桑瓜というメロンの仲間をそう呼ぶらしい。アカウントを作る時にそのことを思い出して、これといった思い入れもなく、その名前に決めた。本名とはなんの関わりもない。むしろ、そんなものはない方がよかった。だって、私が今から足を踏み入れようとしている場所は、私が自分一人でアクセスできる、この世で唯一の、現実とはなんの関わりもない私の居場所だったから。
「甘露茶の甘露でしょ? 一時期中国茶にハマって、よく飲んでたからさ」
ちなみに、うーちゃんの本名は鵜籠。フルネームを、鵜籠直子という。苗字の中に烏龍が入っているから、というのがハンドルネームの由来だそうだ。あとから気づいたことだけど、よく見ると(見なくても)、鵜籠に烏なんて文字は入っていなかった。そういうところは、いかにも適当なうーちゃんらしい。
「ほら、昔友達とやんなかった? ファミレスとかで。混ぜるとビールの味になる、とか言って」
「……ないよ」
え、とうーちゃんが首を捻る。学校帰りのファミレスも、ドリンクバーも。
「友達とファミレスなんて、なかなか行かせてもらえなかった」
カラオケだって、本当は片手で数えるほどしか入ったことがない。いや、入ったとしても、楽しめたことなんて今まであっただろうか? どこにいても、誰といても、門限と親からの電話ばかり気にしていた。だから、いつお金を支払うのかも、お店のグラスを割った時どうやって店員を呼べばいいのかもわからない。でも、そんなことを知られたら、うーちゃんにひかれるかもしれない。そう思ったら、言えなかった。
しばらくして、よかったね、とうーちゃんがつぶやいた。だってそうでしょ、と唇の端を持ち上げる。
「よかったよ、大人になって。友達とファミレス、好きなだけ行けるじゃん」
友達とも、友達じゃない人とも。これから好きなだけ行ったらいいんだよ。
「大人になるって、そういうことでしょう?」
ね、とうーちゃんが私の背中をぽんと叩く。とその時、終了時間を告げる部屋の電話が鳴った。外が少しずつ明るくなろうとしていた。
「はい、もう出ます。延長はなしで。それでちょっと、申し訳ないんですけど――」
うーちゃんが、受話器の向こうの店員に、てきぱきと状況を伝える。その隙に、ぐるりと部屋を見回した。グラスの破片が床に散らばり、溢れたアイスティーがテーブルからぽたぽたとしずくを垂らしている。その場に座り込んで、比較的大きな破片を一枚だけ、そっとつまみあげた。自分を傷つけないよう、慎重に。ブラインドから差し込んだ朝日を受けて、砕けたグラスの破片がほんの一瞬だけ、きらりと光った。
壁に受話器を置いたうーちゃんが、そういえば、とこちらを振り返った。
「……名前、なんて言うんだっけ? 受付で、苗字は教えてもらったけど」
ぽかんと口を開けた私に、もちろん本名の方ね、とうーちゃんが笑う。
『教室のゴルディロックスゾーン』
こざわたまこ
こざわたまこ
1986年福島県生まれ。専修大学文学部卒。2012年「僕の災い」で「女による女のためのR-18文学賞」読者賞を受賞。同作を収録した『負け逃げ』でデビュー。その他の著書に『仕事は2番』『君には、言えない』(文庫化にあたり『君に言えなかったこと』から改題)がある。