武塙麻衣子「一角通り商店街のこと」10. 一角通り動物病院
「ココイチいる? 悪い人がきたんじゃないよ」
雄士が恐る恐るあがったシゲさんの一人暮らしの部屋は、手探りで玄関の電気をつけてみると、想像していたよりもずっと綺麗に片付いていた。玄関ドアの内側には、鍵の横に「縦」と手書きで書かれたメモがセロハンテープで貼られていて、三和土に二足並んだ運動靴もきちんと同じ方向を向いて揃えられている。
「家には客用スリッパがないから悪いが、俺が普段使っているやつを履くか、雄ちゃんの靴下そのままであがってくれ。それで、廊下の奥のドアを開けるとリビングだ。壁寄りにキャットタワーがある。そこの一番下か、もしいなければソファの横だ。そこにも見つからなければテレビ台の左脇に丸い寝床があるからよ」
シゲさんは、一気に喋った。点滴もしているし、そんなに興奮しては体に良くない影響が出てしまうのでは、と緊張しながらメモをとる。
「大事なことなんだ。頼む」
シゲさんのあんなに真面目な顔は、これまで見たことがなかった。冷えた廊下を進み、リビングの扉を開けると、暗闇の中にきらりと光る眼がふたつみえた。トイレを使ったのか少しこもった匂いがする。
「ココイチ?」
左手を壁に沿って伸ばしてリビングの電気をつける。ぱっと明るくなった部屋の真ん中にソファが置かれていた。その足元に敷かれたマットの上で、年をとった猫が一匹ゆらりと首を持ち上げた。もとはきっと真っ白だったのだろう。毛並みにつやはないけれど、緑色の眼が小さな白い顔によく映える。雄士は、猫のことは詳しくないけれど、今、相手からとても怪しまれていることくらいはわかる。つんとした顔でじっとこちらの動きを見ていたが、猫はすぐにまた首をおろしてしまった。
「よし、ココイチ。まず暖房をつけよう」
壁際の食器ダンスの引き出し部分にリモコンが入っている、とシゲさんは言った。部屋が冷えていたらすぐに暖かくしてくれ。暖房をオンにしてから、雄士は病室で教わった通りに、ココイチの食事の支度をはじめた。
「ココイチ、シゲさんから聞いたことない? 僕、雄士だよ」
ココイチの方は見ないまま、流しで手を洗い、流しの下の棚を開けながら呼びかける。動物はあまり目を合わせちゃいけないんじゃなかったか。冷蔵庫には、シゲさんがまだだいぶ若いココイチを抱き上げて笑う写真が一枚マグネットで貼りつけられていて、写真の中のシゲさんは、クールなココイチに頰を寄せ、ぐにゃぐにゃにだらしない笑顔になっていた。
「へえ」
思わず声を漏らし、はっと見ると、いつの間にかココイチがまた顔を持ち上げていた。体も足も信じられないほど細いけれど、とにかく目が美しい。長い舌が口の端からちろりと覗いていた。
「介護用高栄養食、これだな」
パウチに入ったマグロ味のピューレが白いケースの中にいくつか並んでいた。シリンジでゆっくり押し込むようにして食わせてやってくれ。今、ちょっと調子が悪くてあんまり動きたがらないから、自分ではうまく食事がとれないんだ。シリンジ、と聞いて緊張したが、
「そんな面倒なもんじゃねえ」
とシゲさんが手を振った。手に取ってみたシリンジは、筒部分が太く、確かに扱いも難しくなさそうだ。ほっとして小皿にあけたピューレ、シリンジを持ってココイチの隣に腰をおろした。初めはうさんくさそうに雄士の腕の匂いを嗅いだココイチだったが、よほど腹が減っていたのか、雄士の不慣れな動きにも文句を言わず、シリンジで口元に運ばれたマグロピューレをゆっくりと食べ始めた。にゃむにゃむにゃむと何か言いながら。
「ん?」
雄士が覗き込むと、ココイチは途端に静かになった。
「電話をもらった時は、びっくりしたけど、雄士くんがすぐココイチを連れてきてくれて本当に助かったわ」
昨夜、雄士は、そのままシゲさんの部屋に泊まった。自分の食事は終えていたし、とりあえず必要なスマホや財布や本も持ってきていたので、シゲさんのソファを借りて寝ることにした。ココイチの様子が心配だったので、シゲさんが毎日つけているらしいココイチノートを見て、朝一番に一角通り動物病院に電話をかけた。ノートによれば、ココイチは午前中、注射を受ける予定になっていたのだ。ココイチ、病院に行くぞ、と声をかけると、不満げな声でむうと答えた。
「コッちゃんはね、猫エイズ持ちなの。発症しないようにシゲさんが毎月病院で検査を受けさせて腎機能の注射を受けたり、自宅で点滴したりすっごく一生懸命世話しているの」
手間のかかる猫ちゃんだから、自分が倒れた時、自分よりもよほどコッちゃんのことが心配だったんでしょうね。潤子さんはそう言って、右奥の診察室の方へココイチの入ったキャリーケースを運んだ。温かみのある木製のドアだ。
「雄士くんもどうぞ」
と、診察室に招かれる。いつの間にか周りの部屋の犬たちの大合唱が静かになっていた。
「ああ、夫に頼んで上の階の一時保護用の部屋に連れて行ってもらったの」
「夫?」
「夫が院長なのよ」
「ここにお住まいなんですか」
そう、上が、私たちの自宅と言って潤子さんは微笑んだ。職場と住まいがべったりじゃ気が休まらないって院長にはずいぶん苦言を呈されたけど、でも私の粘り勝ち。何かあった時にすぐに生き物の助けになれる獣医になるのが夢だったのよ。
「ね、コッちゃん」
ココイチの入ったキャリーケースを診察台の上に置き、顔を近づけて中に向かって笑いかける。狭い診察室それ自体は無機質だが、淡い黄色の壁もそこにかかるカレンダーも小さな音で流れるゆったりした音楽もみんな優しい。
「それにしてもおかしな名前よね」
無事に注射を終え(ココイチはとてもお利口さんにしていた)、待合室に戻って椅子に腰かけた雄士に、潤子さんは言った。どうぞ、と手渡された一角通り動物病院というロゴいりのマグカップにはハーブティーが湯気をたてている。一口飲むと、ふんわりした蜂蜜の甘さが口の中に広がった。
「お好きかしら? カモミールティー」
と訊かれて、頷く。朝食を食べてこなかったので甘さが沁みる。
「シゲさんがカレーを食べてお店を出たら、この子がお店の外でひとりでみゅうみゅう鳴いていて放っておけなかったんですって。そのまま連れて帰ってきてカレー屋さんの名前をつけたのよ」
なんというかとてもシゲさんらしい話だ。
「シゲさん、猫は先にいなくなっちゃうから飼いたくないって昔から言ってたんだけど」
その言葉にはっとした。富山の実家で、雄士や妹の胡桃がまだ小学生だった頃、猫を飼いたいと騒いだことがある。クラスメイトの家の猫が出産したのだ。子猫がほしい子猫がほしいと言う胡桃に、母はきっぱりとだめだ、と言った。
「私はいつか必ず悲しむってわかってることは嫌なの」
「でも猫が来たら楽しいことだって絶対あるよ」
雄士が言い返すと、母は首を振った。
「あんたたちとばばちゃんで手一杯なんだから勘弁してちょうだい」
そのくせ、家族の中で一番テレビの動物番組を見たがるのは母だった。動物たちの可愛らしさに微笑み、厳しすぎる環境でも彼らがひたむきに生きる姿にいつだって家族の誰よりも先に涙していた。
「好きだったんだなあ」
思わず呟く。え? とカップから顔をあげた潤子さんに、なんでもありません、と答えて雄士は、熱いカモミールティーをもう一口飲んだ。
「で、お家での点滴の件なんだけど、やっぱり今回はシゲさんが退院するまでこのままうちでコッちゃんお預かりするわね」
雄士は、ほっとした。昨日の晩は、シゲさんのこともココイチのことも心配で、正直あまりよく眠れなかったのだ。まあ、シゲさんのソファで寝たから、ということもあるけれど。
「今日の午後、私は休診だからシゲさんのお見舞いに行っていろいろ相談してくるわ。雄士くん、お世話ありがとう」
「いえ、俺は何も」
「コッちゃんの部屋、支度してきちゃうわね」
その間、これ良かったらあげてみて、と潤子さんがカウンターから取りだしたのは、猫用液状おやつの試供品だった。キャリーケースの上部を開けて、ココイチに見せる。
「食べるか?」
袋を切ると、途端に濃い匂いが漂った。うとうとしていたココイチの眼が急にぱっと開き、いきいきと光りはじめる。中身を指に少し絞り出して口元に持って行くと嬉しそうに舐めとり、そしてココイチは、はっきりとこう言った。
「うまいうまい」
雄士は確信した。ココイチは、絶対に喋る猫だ。
雄士とココイチ以外はまだ誰もいない動物病院の待合室には、いつの間にか小さな音量でオルゴールのクリスマスソングが流れていた。窓の外は、今日も明るい冬晴れである。
(次回は8月31日に公開予定です)
1980年神奈川県生まれ。『諸般の事情』『驟雨とビール』などのZINEを発表後、2024年『酒場の君』(書肆侃侃房)で商業出版デビュー。
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